2014年9月14日日曜日

「最もすぐれた道」

2014年9月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章31節~13章13節


できるようになりたい?
 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31後半)。そう書かれていました。別の訳では「最もすぐれた道」。今日の説教題ともなっています。しかし、そもそもパウロはどうして「最高の道」「最もすぐれた道」について語っているのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(同前半)。そのように、「最高の道」の話は、「賜物を受ける」という話に続いているのです。

 「賜物」という言葉は日常の言葉ではないので、これを「能力」あるいはその能力を用いた「働き」という言葉に置き換えると分かりやすいかもしれません。「賜物を受ける」とは、要するに「できるようになる」ということです。

 私たちは自分についても他人についても何かが「できる」か「できないか」を気にしながら生きています。どのような働きをしているかいないか、役に立っているかいないかが気になります。他の人ができることが自分にできなかったり、他の人が良い働きをしているのに自分が全く役に立っていなかったりすると、他人を羨んだり落ち込んだりすることもあるのでしょう。だから自分も「できるようになりたい」と思うのです。

 「できるようになりたい」と思うこと自体は悪いことではありません。より良い働きができるようになること、より大きな働きができるよういなることを求めること自体は悪いことではありません。ですからパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うのです。

 実際、コリントの教会の人たちはそのことに熱心でした。私たちが一般に言うところの能力や働きだけでなく、それこそ奇跡的な超自然的な能力や働きについても熱心に求めていたようです。そのような「パワー」を宗教に求める人は、今日も珍しくはないので、私たちにも分からなくはありません。

 そのような超自然的な能力や働きをも含めて、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言います。しかし、だからこそ彼は続けるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と。その「最高の道」「最もすぐれた道」とは何でしょう。その続きの朗読を先ほど聞いて、既にお気づきのことと思います。そこで繰り返されている言葉は何か。「愛」です。パウロはここで「愛」について語っているのです。「愛」こそが、その「最高の道」であり「最もすぐれた道」だと言うのです。

 いや、さらに言うならば、その「最高の道」を歩むのでないならば、どんな能力を得たとしても、どんな働きをしたとしても無益だとさえ言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどらややかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:1‐2)とはそういうことです。

 それだけではありません。その「最高の道」を歩むのでないならば、他の人のために何をしようとも、どんな大きな自己犠牲があっても無益だというのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)と彼は言うのです。

 実に激しい言葉です。一般論ではなく、「わたし」という言葉を用いて、パウロ自身の存在を指し示しながら語っているだけに、強烈に迫ってくる言葉です。どうして、パウロはコリントの人たちにここまで語らなくてはならなかったのでしょうか。それはコリントの人たちが、様々なことを「できるようになりたい」と願いながら、そして実際に有能な人や大きな働きをしている人が決して少なくはなかったにもかかわらず、もう一方においてお互いの間に分裂があり、仲たがいや争いが絶えなかったからです。まさに豊かな賜物をいただいていながら、バラバラだったからです。だからこそ、パウロは歩むべき「最高の道」について語るのです。愛について語るのです。

愛は忍耐強い
 しかし、そこで語られる「愛」とは、一般に通常考えられている「愛」とは恐らく異なるものです。愛は自然に生じる感情ではありません。「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。彼は言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4‐7)。

 この箇所を読みます時に思い出されるのは。カトリックの岡田武夫大司教が柏教会の神父であられた時に書いていたこんな文章です。「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひとつになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうのです。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません。」

 「罪」と聞くと「犯罪」という言葉を連想するかもしれません。あるいは「不道徳」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし、「犯罪」も「不道徳」も、人と人とを引き裂く罪の一つの側面に過ぎません。それはあくまでも一面なのであって、罪そのものはそう単純ではありません。なぜなら、「罪」は時として道徳的な顔をしたり、正義の仮面をかぶってやってくるからです。そして、互を引き離し、バラバラにし、しばしば正義の名のもとに殺し合うことさえさせるからです。

 先ほど引用した文章にあったように「ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません」。人間とではなく、罪と戦わなくてはなりません。バラバラにする力とたたかわなくてはなりません。どうしてこの文章を引用したか、もうお分かりでしょう。パウロが語る「愛」とは、まさにこの戦いに他ならないのです。バラバラにする力とのたたかいです。

 どのように戦うのですか。人間相手の戦いならば、武器を手にして戦えるでしょう。しかし、罪との戦いであるならそうはいきません。どのように戦うのですか。忍耐強くあることによってです。情け深くあることによってです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。実際、これは大きな戦いでしょう。

 何かができるようになること。確かに大事です。より良い働きをすること、より大きな務めを担えるようになること。確かに大事です。だからより大きな賜物を求めたらいい。能力を求めること、働きを求めることは悪いことではありません。しかし、バラバラにする力、分裂と争いをもたらす力と戦う人になることは、もっと大事なことなのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を歩もうとしないなら、与えられたどんなに大きな能力も、大きな働きも、無に等しいものとなってしまうのです。いや、罪の翻弄された能力や働きほど恐ろしいものはありません。

愛は決して滅びない
 とは言うものの、私たちはここで改めて考えざるを得ません。その道を歩むことはなんと困難なことでしょう。実際、これまでどれほどその戦いに苦戦してきたことでしょう。何度敗北を喫してきたことでしょう。

 私たちは現実に、自分の内にも、自分の周りにも、教会の中にも、この世界の至るところにおいても、罪の力がありとあらゆる形を取って猛威を振るっているのを目の当たりにしているのです。自分の心の内に働く罪の力にさえ苦戦を強いられているのに、いったいこの世界に働いている巨大な罪の力とどう戦ったらよいのでしょう。普通に考えたら、最後は罪の勝利に終わるのであって、世界は崩壊して終わりを迎えるとしか思えないのでしょう。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」とパウロは言いました。しかし、ただその「最高の道」を歩きなさいと言うだけならば、これほど過酷な勧めはありません。

 しかし、パウロはここで単にその「最高の道」を歩きなさいと勧めているのではないのです。実際、「~しなさい」という勧めや命令の表現は全く用いてはいないのです。「愛を追い求めなさい」という言葉は14章になって初めて出て来るのです。その前にパウロは何を語っていますか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」と書いていって、そしてこのように宣言しているのです。「愛は決して滅びない!」

 最後に勝つのは罪ではありません。愛が最後に勝つのです。愛が最後まで残るのです。愛という道を行く時、私たちは幾度となく困難を経験し、敗北の惨めさを味わうかもしれません。しかし、私たちがその道を行くことは決して無駄に終わらないのです。無に帰してしまうことはないのです。どんな大きな能力も働きもそれ自体は一時的なものです。しかし、愛は永遠です。なぜなら、愛は永遠なる神の本質だからです。ヨハネの手紙に「神は愛です」(1ヨハネ4:16)と表現されているとおりです。

 実際、愛なる神、神と人、人と人を引き離す罪の力とたたかわれる神は、御自身がそのような御方であることを私たちに現してくださいました。罪との戦いとしての「愛」を神はキリストにおいて現してくださったのです。「愛」が何であるかを神はキリストにおいて現してくださったのです。そして、その「愛」が永遠であることを、神はキリストの十字架と復活において現してくださったのです。

 そのキリストの中に、私たちは招き入れられ、キリストの体の部分とされているのです。この前の章にこう書かれているとおりです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)。私たちはキリストの体の部分として、ここに書かれている「最高の道」「最もすぐれた道」を歩んでいくのです。ならば、どんなに困難を極めていたとしても、今は度々敗北するようなことがあっても大丈夫なのです。キリストにおいて現された愛は決して滅びないからです。

 パウロが今日の箇所で語っているとおり、確かに私たちが見ているのは、不完全な途中の状態でしかありません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)と語られているとおりです。私たちが知るところは一部分に過ぎません。しかし、最終的には完成を見るのです。完全な愛を知ることになるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を共に進んでいきましょう。

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