2014年8月10日日曜日

「卑下することなく高ぶることなく」

2014年8月10日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14節~27節


あなたがたはキリストの体
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。パウロはこのように教会について語ります。当時のギリシア哲学の世界において個と全体の関係を「からだ」に喩えることは、は珍しいことではありませんでした。しかし、パウロはものの喩えとして「教会はからだのようなものだ」と言っているのではありません。教会は「キリストの体」であると言っているのです。

 これを書いているパウロはもともと教会の迫害者でした。その彼がキリスト者となった次第は使徒言行録9章に記されています。迫害の手を伸ばすためにダマスコへと向う途中、彼は天からの光に照らされ、地に打ち倒され、そこで天からの声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。

 パウロが迫害していたのは教会でした。捕らえて投獄していたのは個々のキリスト者でした。しかし、キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。私たちの手足の指を考えてみてください。指先が痛めばわたしが痛みます。この指の一本を誰かが切り取ろうとするならば、「わたし」が必死で抵抗するでしょう。一本の指先であっても、それは「わたし自身」なのです。

 教会がキリストの体であるとはそういうことです。その指が迫害されるならば、「なぜ、わたしを迫害するのか」と主は言われるのです。そのように各部分がキリストと分かちがたく結ばれている。そのようにキリストが自分自身として見ていてくださる。神はそのように私たちとキリストとを結び合わせてくださいました。このようなキリストと各部分との関係を念頭に置いてこそ、また各部分お互いの関係を考えることができるのです。まずお互いの関係が先にあるのではありません。それが分からないと、今日の聖書箇所に書かれているような問題が起こります。お互いの間における卑下と高ぶりの問題です。

わたしは要らない
 パウロは自らを卑下している人たちに問いかけます。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15‐16節)。

 今お読みしているのはコリントの教会に宛てた手紙です。コリントは当時有数の大都市でした。そのような大都市の教会として、コリントの教会は急速に大きくなっていったのです。この手紙の冒頭で、パウロはこう言っています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(1:5)。そこには多くの優れた伝道者や教師たちがいたようです。商業的中心地であるだけでなく、文化的な中心であるその都市においても豊かな知識をもって人々に語りかける力を持っていたのです。

 それだけではありません。そこには神の霊の著しい働きが見られました。その教会は、聖霊の賜物においても豊かな教会でした。12章8節以下には、賜物のリストが挙げられています。そこには奇跡を行う人、癒しを行う人、預言をする人などがいたのです。使徒言行録に描かれているような、奇跡や癒しの業が当たり前のように起こっていた教会だったと思われます。

 しかし、ここで想像してみていただきたいのですが、そのように非常に著しい働きをする人々がたくさん存在するような教会において、しかも急速に成長している教会において、どのようなことが起こってくるでしょう。もう一方において、自分は教会に存在する意味はないのではないかと思う人たちもいたであろうことは容易に想像できるのではないでしょうか。

 物事が進展していくときに、自分が何も貢献していないように思える時、自分はいてもいなくても同じだと感じてしまう。特に、様々な弱さを抱えているゆえに自分には何もできないと思える時、キリストの体に「わたしは要らない」と思わずにはいられない。「わたしは手ではないから、体の一部ではない」とは、そういう声です。「手のような働きができないわたしは体の一部などではない」と言っているのです。

 しかし、パウロは言うのです。「あなたがそう言ったところで、体の一部でなくなるわけじゃないでしょう」と。そうです。私たちがどう思うかが先にあるのではなく、キリストの体の部分とされているという事実が先にあるのです。

 私たちはただ恵みにより信仰によって救われたのです。私たちは恵みによって神に受け入れられたのです。恵みによってキリストに結ばれたのです。神の恵みによってキリストの体の部分とされたのです。「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)と書かれている通りです。私たちがキリストの体の部分に《なった》のではないのです。私たちがどう思おうが、どう感じようが、神が望まれたゆえに、私たちは神によってキリストの体の一部として「置かれた」のです。

お前は要らない
 さて、もう一方において人間の高ぶりというのは卑下の裏返しです。卑下する人は、自分が認められれば今度は高ぶります。高ぶっている人は、誇れるものがなくなれば、とたんに卑下して、わたしなどいないほうが良い、と言い始めます。「わたしはいらない。わたしは体の一部ではない」という声が聞こえるところでは、必ずもう一つの声が響いているものです。「あなたなどいない方がよい」と。それゆえにパウロはさらにこう続けるのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)。

 それはなぜか。要るかいらないかは私たちが決めることではないからです。先に見たように、神は「ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」のです。強い部分であろうが、弱い部分であろうが、神が望みのままに置かれたのです。それゆえに、パウロはさらに言っているのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)。


 ここで「ほかより弱く見える部分」とは、ただ肉体的な弱さやハンディキャップだけを意味するのではありません。私たちの抱えている弱さはそれこそ多種多様です。この言葉は「信仰の弱さ」をさえ意味するのです。この手紙の8章においては、信仰的に未成熟な人、まだ異教的な部分を引きずっている人などについて語られていますが、そのような人たちが「弱い人々」と呼ばれているのです。さらに言うならば、これまで自分の強さで困難を乗り切ってきたゆえに他の人の弱さをなかなか受け入れることができないという《弱さ》を抱えている人もいるでしょう。

 そのように弱さは多様です。ある意味では、誰もが欠けた部分を持っている。その意味では誰でも「ほかより弱く見える部分」であり得るとさえ言えるでしょう。そのような弱い部分はないに越したことはないと私たちは通常考えているのでしょう。しかし、聖書は言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

 いやそれだけではありません。24節にはこう書かれています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」要するに、人間の目には「見劣りのする部分」としか見ないかもしれないのだけれど、実はそこに神様が特別になさっていることがあるのだ、と言っているのです。神様が特別に目をかけ「引き立たせて」おられる。神様が特別に与えている美しいものがあるのです。弱さの中においてこそ神様がなさっていることがあるのです。ならば、そこにこそお互い目を向けるべきなのでしょう。

 そのように、神様は教会の中に「ほかよりも弱く見える部分」を残され、その部分に神様御自身が特別な美しさを与えられます。それは何のためでしょうか。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と書かれています。別の訳ではこうなっています。「それは、体の中に分裂がなく、互いにいたわり合うためなのである」(口語訳)。

 「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言えなくなる時に、私たちは分裂へと向かっているのです。弱く見える部分を神が引き立たせておられることに目を向けなくなる時、そこに神の与えている美しいものがあることに目を向けなくなる時、私たちは分裂へと向かっているのです。神のなさっていることではなく、お互いの弱さにしか目を向けなくなるなら、必ずお互いに「お前はいらない」「お前たちはいらない」と言い始めるからです。


 神様は恵みによって私たちをキリストの体の部分としてくださいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」。キリストは御自身と私たちが強かろうが弱かろうが、御自分と同一視するほどに重んじて見ていてくださいます。その恵みの事実がまず先にあるのです。そこで神様が私たちに望んでおられるのは「わたしは要らない」と言うのでもなく、「お前たちは要らない」と言うのでもなく、卑下することなく高ぶることなく、弱さのあるところにおいてこそ「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と言えるキリストの体を形づくっていくことなのです。

以前の記事