2014年8月3日日曜日

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」

2014年8月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節


 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)。これが今日私たちに与えられている神の言葉です。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。そのように書かれているのは、神からいただいた恵みを無駄にしてしまうことがあり得るからでしょう。

 そうならないために二つの大事なことがあります。一つは、《どのような恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。もう一つは《どのように恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。その《どのような》については、今日お読みした箇所の前に書かれているので、そこを見ておく必要があります。《どのように》については、今日の聖書箇所に書かれていました。私たちが神からいただいた恵みを無駄にしてしまわないために、《どのような》そして《どのように》という二つの面から、神からいただいた恵みに目を向けましょう。

どのような恵みをいただいたか
 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。「神からいただいた恵み」とは何か。パウロはどのような恵みについて語っているのか。今日の聖書箇所の直前に書かれているパウロの言葉を読みますと、何度も繰り返されている言葉があることに気づきます。「和解」です。そこに書かれているのは神と人間との「和解」の話です。

 「和解」とは関係の回復です。「和解」が話題になるということは、もともと関係が悪かったということです。そのことをドラマチックに伝えている物語があります。有名なエデンの園の物語です。アダムとエバが、神が食べるなと言われた木から取って食べたという話です。

 その物語が語っている内容は極めてシンプルです。私たち人間は神様が望まないことをしているといことです。神様が「ノー」と言われることを行っているということです。その結果どうなったか。神様が近づかれた時、アダムとエバは神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれているのです。そこに描かれているのは大昔の話ではありません。「アダム」という名はもともと「人」という意味ですから、これは人間ならば誰でも思い当たる話です。

 人に対してならいくらでもごまかしは利くものです。しかし、神に対してはごまかしが利きません。神の前においては全てが明らかです。神がまことの神ならば、その前で顔を上げることのできる者は、本当は一人もいないのでしょう。エデンの園の物語は確かに私たちの物語です。

 しかし、そのような私たちをなおも神は愛してくださいました。関係を壊したのは私たちの方であるのに、神はその関係を回復しようとしてくださったのです。神の方から和解の手を伸ばしてくださったのです。5章18節以下には次のように書かれていました。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(5:18‐19)。

 「人々の罪の責任を問うことなく」。――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が言われるのです。「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしば互いに罪過を数え立てているのでしょう。一つ一つを問題にし、その一つ一つについて償いを求め、あるいは心の中の記録にしっかりと記帳するのでしょう。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神は罪の記録をあえて破棄されるのです。もはや数え立てることはないと言われるのです。

 神は私たちの罪過を数え立てることなく、一方的に和解の手を伸ばしてくださいました。イエス・キリストをこの世に遣わされたとはそういうことです。神に背いたこの世界に、神に顔向けできないこの世界に、神はキリストを遣わされ、御自身の愛を示されたのです。最終的には十字架において、キリストを罪の贖いの犠牲とすることによって、この世を愛する愛を完全に現されたのです。イエス・キリストという御方は、まさにこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手に他なりませんでした。

 そのようにして、私たちは神と和解させていただいたのです。神によって罪を赦され、神に顔を上げ、神に祈り、神を礼拝して生きる者としていただいたのです。そのように神と共に生きる生活を与えられたのです。5章21節にはこう書かれています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。そうです、キリストが罪とされたために、もともとどう考えても義しくない私たちが、義ではない者が、義としていただいたのです。

 これこそまさに神の恵みです。神からいただいた恵みです。私たちは《どのような恵みをいただいたか》を忘れてはなりません。

どのように恵みをいただいたか
 そして、私たちは《どのように恵みをいただいたか》をも思い起こさねばなりません。

 先ほど、キリストはこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手であると申しました。しかし、コリントの教会の人たちのほとんど全ては、直接イエス・キリストを見たことはなかったに違いありません。そのような彼らが、神と和解させていただき、神と共に生きるようになったのはどうしてか。キリストのことを伝えてくれた人たちがいたからです。彼らの場合、パウロたちが「和解の言葉」を伝えてくれたからです。パウロたちが彼らに言ってくれたのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)と。それは私たちにしても同じでしょう。どのように恵みをいただいたか。誰かが私たちにキリストを伝え、和解の言葉を伝えてくれることによってです。

 今日お読みしたところには、そのように「和解の言葉」を伝えたパウロたち自身のことが書かれています。ここを一回読んだだけでも、パウロたちがどれほどの労苦をもってコリントの人々や他の地域の人々に「和解の言葉」を伝えていたかがわかります。

 パウロは言います。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(3‐4節)。パウロにとって大事だったのは、「和解の言葉」を伝えるという奉仕の務めそのものが非難されないことだったのです。彼自身が非難されることはいくらでもあったに違いありません。実際、そこには「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」など、彼が経験してきた状況が並べられています。それらはパウロ自身に対する非難や誤解、敵意や反感によってもたらされたものでしょう。

 さらには8節以下を見ると、彼が「栄誉を受けるとき」だけでなく「辱めを受けるとき」があったことがわかります。「好評を博するとき」だけでなく「悪評を浴びるとき」があるのです。そのような中にあっても、神の僕としての実を示してきた。なんのためですか。奉仕の務めが非難されないためです。つまずきとならないためです。それはただ一重にキリストを伝え、「和解の言葉」を伝えるために他ならないのです。

 そのようにして、和解の言葉は伝えられたのです。そのようにして、コリントの人たちは神の恵みをいただいたのです。それは私たちも同じです。ここに教会があるのはどうしてですか。私たちの信仰の先輩たちが伝道を続けてきたからです。和解の言葉を伝え続けてきたからです。さらには遠くカナダから故郷での生活を捨てて未知の国日本にまで来てくれた人たちがいたからです。多くの労苦や誤解や中傷を受ける中にあっても、神の僕としての実を示して仕えて来られた多くの人たちがいたからです。そのようにして私たちもまた神の恵みをいただいたのです。

無駄にしてはいけません
 そのように、私たちもまた《どのような恵みをいただいたか》そして、《どのように恵みをいただいたか》を思い起こしたいと思うのです。その上で、今日の御言葉をもう一度しっかりと受け止めたいと思うのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。ならば、その意味するところは明らかででしょう。

 私たちは、ただ神の一方的な恵みによって和解させていただいたのです。本来なら園の木の間に身を隠さざるを得ないような私たちが、罪を赦された者として、安心して神に祈り、神を礼拝して生きることができるのです。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。私たちは神と共に生きるのです。この世界がどう変わろうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、信仰を放棄してはなりません。神と共に生きるのです。その意味において、神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 しかし、それだけではありません。神からいただいた恵みは、実際には「和解の言葉」を託された人たちの愛と労苦によって私たちに伝えられたものでした。そのようにして、神と和解させていただいた私たちが、今度は「和解の言葉」を託されているのです。パウロたちが自分たちの労苦を語るのは、ただ同情を求めてのことではありませんでした。そうではなくて、彼らとの関係を確かなものとして、コリントの人たちと共に教会を建て上げたかったからでしょう。そして、共に労苦し、共に神の僕として生き、共に「和解の言葉」を伝えていきたかったからでしょう。求められていることは私たちにおいても同じです。その意味においても私たちは聖書の言葉を聞かなくてはなりません。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

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