2014年7月13日日曜日

「神による救いの計画の中で」

2014年7月13日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 13章13節~25節

    マルコによる福音書 6章14節~29節

聞いてください
 本日の使徒書の朗読では、パウロの伝道旅行の様子を伝える箇所が読まれました。第一回目の伝道旅行です。 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに到着し、さらにそこからピシディアの山を越えて一路アンティオキアに向かいます。そこにはユダヤ人居留民の共同体があり、安息日には会堂において礼拝が行われていました。パウロとバルナバは安息日に会堂に入って席に着きます。いつものように礼拝は進められ、聖書が朗読されました。そこで会堂長たちが人をよこしてパウロたちに励ましの言葉を語るよう促します。そこでパウロが立ち上がり語り出しました。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」(16節)。

 聖書が朗読された後に人が立って何かを語る。人々は何が語られることを期待していたのでしょう。皆さんだったら、何が語られることを期待しますか。今日お読みしたのは、そこで語られたパウロの言葉の一部ですが、一部だけを聞いても分かります。パウロがまず語り出したのは、聖書の言葉に従って生活しなさいということではありませんでした。神の戒めを守りなさいということでもありませんでした。パウロが開口一番語り出したのは、人間が何をすべきかということではなく、神が何をしてくださったのかということでした。主語は「わたしたち」ではなく「神」なのです。

 パウロはエジプト脱出の物語から語り出します。ユダヤ人の先祖はもともとエジプトにおける奴隷たちでした。その奴隷たちを率いてエジプトを脱出させたのはモーセという人物でした。しかしパウロは、偉大なる指導者モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したのだ、とは語らないのです。「この民イスラエルの神は、…導き出してくださいました」(17節)と言うのです。

 同じように、神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍ばれた。神はカナンの地を彼らに相続させてくださった。神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。「裁く者たち」というのは、聖書において「士師」と呼ばれていますが、特にイスラエルが危機に陥った時に現れてきた救済者たちです。しかし、パウロは「偉大な救済者が立ち上がってイスラエルを救ったのだ」とは言わないのです。

 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、サウルを王として与えました。これも、「人々は王を求め、王国を建設した」とは言わない。そして、神はサウルを退けダビデを王の位につけました。そのダビデの子孫から、神は約束に従って救い主イエスを送ってくださいました。

 そのように、パウロは人間が何をすべきかではなくて、神が何をしてくださったかについて語ります。そのように、神の救いの歴史について語るのです。神の救いの歴史を貫いている神の計画について語るのです。

神の救いの計画を知るからこそ
 これは先にも申しましたように、パウロの最初の伝道旅行の途中における出来事です。それは多くの困難が予想される旅であったに違いありません。実際、同行していたヨハネは早くもペルゲにて戦線離脱してしまいました。そのような困難な宣教旅行を、パウロは少なくとも三回行ったことが使徒言行録には記されています。その宣教旅行により小アジアからさらにはヨーロッパに至るまで、各地において教会の基礎が据えられていったのです。

 このパウロの働きなくして、キリスト教の歴史は語ることができません。そのように、まさに命がけで、自分自身を捧げ尽くして、神に仕えていたパウロであり、実際に大きな成果を残すことになるパウロです。しかし、そのパウロが開口一番に語ったのは「わたしたちは」ではありませんでした。そうではなく「神は」なのです。神がしてくださったこと、してくださっていることを語るのです。

 逆に言えば、そのようなパウロであるからこそ、困難な宣教旅行を続けることができたとも言えるのです。「わたしは」「わたしたちは」ということしか見えていなければ、人間のしていることしか考えられなければ、思い上がったり落ち込んだり、そんなことを繰り返して本当に為すべきこともできなくなるのです。神のなさっていることが先にあり、神の御業の中に自分がいるということを知るからこそ、安心して人の為し得るところを行うことができるのです。

 実際、このアンティオキアの宣教を見ると、そのことが良く分かります。一方において、パウロの宣教は豊かな実を結ぶことになります。パウロの話を聞いた人たちは、次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼みました。そして、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)と書かれています。その意味合いは、ユダヤ人ではない人たち、今まで会堂に足を踏み入れたことのないような人たちまでが大勢集まって来たということです。その結果、異邦人たちがイエス・キリストを信じるに至りました。その意味において、パウロの働きは実りを見たと言えます。

 しかし、もう一方において、ユダヤ人たちは口汚くののしって、パウロの話すことに反対しました。そして、町の有力者たちを扇動してパウロを迫害させたのです。パウロたちはその地方から追い出されることとなりました。

 そのように、アンティオキアの宣教には喜びがあり、そして悲しみがありました。そこには実り豊かな働きがあり、徒労に終わった働きがありました。しかし、そこでパウロは思い上がるでもなく、落ち込むでもなく、その両方を受け止めて前に進んでいくのです。なぜなら人間の働きが全てではないと知っているからです。「わたしたちは」ではなく、「神は」なのです。人間の働きの前に、神がしておられることがある。まず神の救いのご計画が先にあるのです。その中でパウロは働いているのです。だから安心して、為し得ることを行うために先に進むのです。彼は次なる宣教地、イコニオンへと向かって旅立ちます。

その方はわたしの後から来られる
 そして、パウロと同じように、神の救いのご計画に目を向けていたもう一人の名前が今日の聖書箇所には出てきます。洗礼者ヨハネです。パウロは次のように語っていました。「ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない』」(24‐25節)。

 洗礼者ヨハネは、まさに一世を風靡した預言者でした。「イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とパウロは言います。マルコによる福音書には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)と書かれています。いくらなんでも「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆…洗礼を受けた」というのは誇張だろうとは思いますが、それにしてもヨハネの洗礼運動が当時の社会に計り知れない影響を与えたことは間違いないでしょう。その意味において、ヨハネがたった一人で始めた働きは豊かな実を結んだと言うことができます。

 しかし、先のパウロの言葉には「その生涯を終えようとするとき」とありました。その生涯を終えようとするとき――どのように?まさに今日の福音書朗読において、ヨハネの生涯の最後の日がどのようなものであったかが読み上げられたのです。「そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した」(マルコ6:24‐25)。そのように、ヨハネは獄中で首をはねられて死んだのです。しかも、余興の口約束のために首をはねられて死んだのです。

 それがパウロの言うヨハネの生涯の終わりです。パウロも当然、ヨハネがどのように死んだかは知っているはずです。しかし、その生涯の終わりにおいて、ヨハネはこう言っていたというのです。「その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない」。もっとも実際にヨハネが口にしていたのは前々からでしょうが、パウロはあえて「その生涯を終えようとするとき」と語ります。なぜなら、その言葉はまさにその生涯を貫いてその最後に至るまで、彼にとって何が大事であったかを示しているからです。

 「その方はわたしの後から来られる」。イエス・キリストがわたしの後から来られる。神の救いのご計画によって、イエス・キリストが来られる。そのことだけがヨハネにとっては重要だったのです。神がしてくださったことがある。そして神がなさっていることがある。その中で、自分の働きが報われたか、自分がどれほど実りある働きをすることができたかはどうでも良いことだったのです。神がなさっていることに比べたら、自分のしていることなど全く取るに足りないことなのであって、神が遣わされた御方の「足の履物をお脱がせする値打ちもない」と言うのです。そのようなヨハネによって、自分がどのように生涯を終えるかということさえも、大して重要なことではなかったのでしょう。だからヨハネはただ為すべきことを行ったし、行い得たのです。安心して悔い改めを宣べ伝え、洗礼を授け、ヘロデ王をいさめもしたのです。


 今、私たちもまた、神の大きな救いのご計画の中にいることに思いを向けましょう。神の御業が先にあるのです。その中において、私たちは私たちの為すべきことを行うのです。私たちはまずここにおいて大いなる神の御業をほめたたえ、そして、安心して一週間の生活へと歩み出しましょう。

以前の記事