2014年7月6日日曜日

「キリストによって派遣されて」

2014年7月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 6章1節~13節


ここから派遣される私たち
 日曜日の礼拝は「招詞」から始まります。招きの言葉から始まるのです。それは私たちが主によって招かれて今ここにいることを意味します。私たちはそのように主によって招かれ集められた者として共に礼拝を捧げます。そして、礼拝の最後には「祝祷」が行われます。祝祷は派遣のための祈りです。私たちは、神の祝福を受け、ここから派遣されて出て行くのです。そして、一週間の生活を経て再び招かれてここに集まるのです。

 このことは、私たちの人生のホームがどこにあるかということと関わっています。私たちのホームはここにあるのです。日曜日の礼拝にあるのです。ここから遣わされるのです。そして、ここに帰ってくるのです。その意味で教会は「行くところ」ではありません。教会は帰ってくるところです。私たちの日常生活の場は、家であれ、職場であれ、学校であれ、すべて派遣先です。私たちは派遣されている者として生活するのです。それが信仰者としての日常生活です。

 では派遣先において、私たちはどのような意識をもって生活したらよいのでしょう。何を考えて生きたらよいのでしょう。そこで私たちが今日目を向けたいのは、主が弟子たちを派遣したという話です。主は派遣された者たちに、何を求められたのでしょうか。

汚れた霊を追い出すために
 主は弟子たちを二人ずつ組にして遣わされました。そこで目に留まりますのは、主が遣わす際に、彼らに「汚れた霊に対する権能」(7節)を授けられたというくだりです。そのような権能を授けたのは、もちろん「汚れた霊」を追い出すためです。そこに派遣の一つの目的が明確に表現されていると言えるでしょう。彼らは汚れた霊を追い出すために送り出されたのです。主によって派遣されるとはそういうことです。

 「汚れた霊を追い出す」と言いましても、私たちはそこでオカルト的な悪魔払いのようなことを考える必要はないでしょう。「汚れた霊」が何であれ、それが追い出されるということは、要するに生活が変わるということです。人々の生活が変わるということは、共同体に変化がもたらされるということです。それは家庭であるかもしれませんし、職場であるかもしれませんし、学校の友人関係かもしれませんし、あるいは社会全体、この世界全体を意味するかもしれません。いずれにせよ、汚れた霊が追い出されるということは、神の御心にかなった変化がもたらされるということです。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」と祈っているではありませんか。それが現実に様々な形で起こるということでしょう。

 私たちは変化をもたらすために送り出されるのです。「汚れた霊」に様々な名前を付けて考えてみてください。例えば「憎しみ」が追い出されたらどうなりますか。「敵意」が追い出されたらどうなりますか。「淫らな思い」が追い出されたらどうなりますか。それは具体的な変化をもたらすことでしょう。イエス様は別な箇所ではこう言っておられます。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)。「あなたがたは世の光である」(同14節)。これもまた同じです。塩を投入するのは変化をもたらすためです。灯を置くのも変化をもたらすためです。その人が存在することで周りが変わるのです。信仰者がこの世界に遣わされ、それぞれの場所に置かれるとはそういうことです。

神に対する信頼
 そこでさらに目に留まりますのは、遣わすに当たってイエス様が弟子たちに与えられた不思議な命令です。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8‐9節)と書かれているのです。要するに、送り出す際に弟子たちの持ち物を全部没収してしまったということです。

 なんとも無茶な話です。しかし、主があえてそうされたのは、遣わされて行く者にとってどうしても必要なことがあるからなのでしょう。それは何であるのか。主がなさったことから、少なくとも二つのことを考えることができます。それは「神に対する信頼」と「人に対するへりくだり」です。その二つはここから遣わされて行く私たちもまた忘れてはならないことなのでしょう。

 イエス様によって持ち物を取り上げられ、お金も取り上げられて、弟子たちは全く神に寄り頼まざるを得ない状況に追い込まれることとなりました。杖一本で出かけるとなったら、神が養ってくださることを信頼して出かけるしかないでしょう。弟子たちは、いつにもまして真剣に「日ごとの糧を与えたまえ」と祈ったに違いありません。

 そのように様々な欠乏は神への信頼と祈りを学ぶ学校となります。必ずしもあの弟子たちのように食べ物がない、お金がないという貧しさだけではありません。私たちが経験するのは、様々な具体的な問題に対する自分の無力さという「貧しさ」かもしれません。能力のなさ、資質のなさを思い知らされるような経験によって自分の「貧しさ」を知ることになるかもしれません。しかし、そこでこそ神への信頼と祈りとを学ぶことになるのでしょう。

 「汚れた霊に対する権能」を授けられた者として生きるなら、そのように遣わされた者として生きるなら、どうしても必要なのは神に対する信頼なのです。なぜなら与えられている権能の源は神にあるからです。自分の力によってこの世界を変えるようにと送り出されているのではないからです。まず大事なのは、あの弟子たちがそうであったように、いかなる困窮の中にあっても神に信頼して生きる人として、人々の間に存在することなのです。

人に対するへりくだり
 そして、もう一つ。それは「人に対するへりくだり」です。イエス様は弟子たちの持ち物とお金を没収してこう言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)。当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、信仰的な美徳と考えられておりましたので、決して珍しいことではありませんでした。イエス様は、そのような習慣を背景として語っているのです。要するに、「誰もがするように、旅先で誰かの世話になれ」と言っているのです。しかも、その土地にいるかぎり、「その家にとどまるように」と言っている。世話になり続けよ、と言っているのです。

 彼らは、新しい村に足を踏み入れる度に、繰り返し身を低くせざるを得なくなりました。まず泊めてもらわなくてはならない。食べさせてもらわなくてはならない。そのような弱い者として彼らは村に入っていくことになったのです。無一文ですから、何をするにも助けが必要なのです。

 そのように、イエス様は、弟子たちが何かを与える前に、まず何かを受ける者とされたのです。上の者が下の者に何かを教えるかのように、あるいは強い人間が弱い人間を助けるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを主はお許しになりませんでした。伝道がそのような形でなされることを主は望まれなかったということです。

 一般的に言いまして、使命感に燃えている人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌います。与える側だけに身を置こうとするのです。「わたしは人の世話にはなりたくない」「わたしは人に迷惑はかけたくない」――いつの間にか私たちも口にしているかもしれません。しかし、与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味で人と共に生きることはできないのです。同じ人間として、同じ地平に立って、他者と大切なものを分かち合うことができない。そういうものです。人の世話になりたくない人は、おそらく良き神の働き人にはなれないのです。

 弟子たちは、「汚れた霊に対する権能」を行使する前に、人に対してへりくだることを学ばねばなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちの中には、家族で一人だけのキリスト者という方も少なくないでしょう。ご家族に神様の恵みを伝えたい、福音を伝えたいと思っているに違いありません。しかし、もしかしたらその前に、まず家族に「助けてください」と素直に言える人にならねばならないのかもしれません。知らず知らずに自分を上に置いていることが、しばしば福音宣教の妨げになっていることがあるからです。


 さて、そのように弟子たちは物乞いのような仕方で村に入って行ったにもかかわらず、そして事実人々のお世話になっていたにもかかわらず、その働きについてはこう記されています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12節)。彼らが行ったところに悔い改めが起こりました。悪霊が出て行きました。癒しが起こりました。人々の生活に具体的な変化が起こりました。村々に神の御心にかなった変化が起こりました。御心の天になるごとく地にもなるのを彼らは実際に目の当たりにしました。

 それが彼ら自身に由来するものでないことは明らかでした。彼らは何も持っていない物乞いのようなありさまだったのですから。それはイエス様が授けてくださった「汚れた霊に対する権能」によるのです。そこに現れているのは神の御業に他ならないのです。それゆえに彼らは主の御名をあがめたことでしょう。そのことを私たちもまた期待してここから出て行くべきなのです。様々な形における私たちの貧しさにもかかわらず、私たちを通して神の御業が現れることを期待して、ここから遣わされてまいりましょう。

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