日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章14節~21節
パンを忘れた弟子たち
「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)。そう書かれていました。小さなミスです。そのミスによって困ったことになりました。パンは一個しかありません。全員が食べるには足りません。そのように誰かのミスによって、あるいは全員のミスによって、何かが不足したり欠乏したりするということは起こります。それは私たちが置かれている様々な人間関係にも起こりますし、教会にもそのようなことは起こります。
もっとも今日お読みした場面においては大したことが起こっているわけではありません。パンを忘れたからと言ってその後の旅に重大な支障をきたすわけではありません。事実、その後は何事もなかったかのように話は続きます。皆が少し我慢すればよいだけの話です。しかし、この出来事は後に弟子たちが教会として宣教していく時にもまた起こり得ることを指し示していたとも言えます。ですから、その場面でイエス様が言われた言葉は、後々の弟子たちにとっても、さらには今日の私たちにも大きな意味を持っていると言えるでしょう。
その時、イエス様は何と言われたでしょうか。こう書かれています。「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(15節)と書かれています。そうです、そのような時こそ気をつけなくてはならないことがあるのです。そのように全員にパンが一個しかないような事態になった時こそ、明らかに困窮や不足が生じているような時こそ、気をつけなくてはならないパン種があるのです。パン種は小さくても、全体を膨らませてしまいます。そのように小さく入り込んで全体に悪い影響を及ぼしてしまうパン種があるのです。
ファリサイ派のパン種に気をつけなさい
実際、困窮や不足がある時に何が入り込んでくるでしょう。まず可能性として考えられるのは裁き合いです。そもそも、いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まるのです。そして、それぞれが自分を正当化しはじめます。これこそがファリサイ派のパン種です。
今日の箇所の直前にはファリサイ派の人々が来て、天からのしるしを求め、議論をしかけたという話が書かれています(11節)。明らかに悪意をもって議論をふっかけてきたのは、以前にファリサイ派の人々とイエス様の一行との間で一悶着あったからです。
7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(7:1‐2)。「見た」と書かれていますが、要するに「気になった」ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(同5節)。
なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(同3‐4節)。
こういう人は、他の人のことが気になるものです。喜んで守っている人は別でしょうが、義務感から、仕方なく守っている人や、あるいは自分はこれだけ一生懸命に何かを行っていると日頃から思っている人は、守っていない人が気になるものです。自分と同じように行っていない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。また、当然のことながら、そのように他人の行動を批判的に見る人は、自分も批判されているのではないかと気になるものです。批判されないように一生懸命になる。ですから他人の行動ばかりではなく自分の行動も気になります。どう見えているか。どう判断されているか、と。結果的に自分の正しさを一生懸命にアピールするようになります。表向きの正しさを繕うようになります。それが攻撃されれば自分も攻撃的になります。その結果、律法主義の世界は裁き合いの世界ともなるのです。
そのようなファリサイ派のパン種が困窮と不足の中に入り込むとどうなるでしょう。皆が互いの行動を問題にします。いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まります。皆が自分を正当化し、自分は正しいと主張し始めます。裁き合いが起こります。そのようなパン種は共同体を崩壊させることとなるでしょう。イエス様は言われました。「ファリサイ派のパン種によく気をつけなさい」。
ヘロデのパン種に気をつけなさい
そして、困窮や不足が生じたとき、可能性としてもう一つ考えられることがあります。それは正しさを問題にするファリサイ派のパン種とは対極にあるものです。すなわち、そこでは善悪ではなく、ただ力関係がモノを言うようになる。そのような可能性は確かにあります。困窮や不足を解決する力を持った人、不足を満たすことができる人がいたら、その人の善悪は全く問題にされることなく人々から持ち上げられることになるかも知れません。その結果、能力にせよモノにせよ、何かを持っている者が周りを支配する共同体となっていきます。しかし、それこそが「ヘロデのパン種」なのです。
ヘロデについては洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねた人物として6章に出てきます。ヘロデ・アンティパスというガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、この福音書では「ヘロデ王」と呼ばれています。実際には王ではない人物を「王」と呼ぶのはある意味では皮肉です。王でもないのに王のように振る舞っていた人物であったということです。彼は酒の席で踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。実はこれは有名な言葉で、かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にした言葉なのです。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、その王権を示すために、洗礼者ヨハネの首をはねたのです。
そのような神をも畏れぬ傲岸不遜な人物を、それでもなお支持するユダヤ人の一団がありました。彼らはこの福音書において「ヘロデ派」と呼ばれています。宗教的な一派ではなく政治的なグループです。彼らがヘロデを支持したのはヘロデが正しいからではなく、ヘロデの権力の恩恵にあずかっているからです。ヘロデが支配することによって益を受ける人々だからです。
先にも申しましたように、そのようなヘロデ派の精神、ヘロデのパン種が共同体の中に入ってくることがあり得ます。正しいか否かはどうでもよいのです。神に対してどのような態度であるかも別にいい。ただ不足を満たし困窮を解決してくれさえすればよい。そのようなヘロデのパン種が教会に入り込むなら、教会という麦粉全体を損なってしまいます。もはや教会ではなくなります。ですからイエス様は前もって弟子たちに言っておられたのです。「ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。
まだ悟らないのか
さて、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて思いました。「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」。よほどパンを忘れたことを気にしていたのでしょう。そこでイエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(17‐19節)。
もちろん弟子たちは覚えていました。「十二です」と彼らは答えます。イエス様はさらに問いました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは答えます。「七つです」。そこでイエス様は言われました。「まだ悟らないのか」。
そうです、彼らは既に悟っていなくてはならないのです。五千人に五つのパンは明らかに足らなかったのです。彼らは困窮していたのです。しかし、イエス様がおられるところにおいては、その困窮は神の豊かさを知る機会となったのです。十二の籠に有り余るほどの神の豊かさです。四千人に七つのパンの時にも、明らかに足らなかったのです。しかし、それは七つの籠に有り余るほどの神の豊かさを知る契機となったのです。
困窮のあるところ、それは互いに自分の正しさを主張し、裁き合い、悪人捜しをする場所にもなり得ます。困窮のあるところ、それはただ力を持つものが支配し、力ない者が隷属するような場所にもなり得ます。しかし、そこにはもう一つの可能性があるのです。それは皆が既に来られた救い主に目を向け、救い主を送られた神の限りない慈しみに目を注ぐことです。そして、それは神の豊かさを経験する場所となるのです。
パウロが後に手紙に書いています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。その御子が共におられる。窮乏の舟の中にも御子イエス様が共におられる。それがどれほど大きな意味を持っているかを彼らは悟らなくてはならなかったのです。そこでパンが一個しかなくても、全く問題ではない。むしろ一個のパンが既に与えられているではないか、と語ることができるのです。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。大事なことはパン種を持ち込んでしまわないことです。ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種を外に放り出し、まず神の御業に目を向け喜び祝う。私たちはいつもそのような教会でありたいと思うのです。