2014年7月20日日曜日

「神の恵みの豊かさに目を向けよう」

2014年7月20日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章14節~21節


パンを忘れた弟子たち
 「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)。そう書かれていました。小さなミスです。そのミスによって困ったことになりました。パンは一個しかありません。全員が食べるには足りません。そのように誰かのミスによって、あるいは全員のミスによって、何かが不足したり欠乏したりするということは起こります。それは私たちが置かれている様々な人間関係にも起こりますし、教会にもそのようなことは起こります。

 もっとも今日お読みした場面においては大したことが起こっているわけではありません。パンを忘れたからと言ってその後の旅に重大な支障をきたすわけではありません。事実、その後は何事もなかったかのように話は続きます。皆が少し我慢すればよいだけの話です。しかし、この出来事は後に弟子たちが教会として宣教していく時にもまた起こり得ることを指し示していたとも言えます。ですから、その場面でイエス様が言われた言葉は、後々の弟子たちにとっても、さらには今日の私たちにも大きな意味を持っていると言えるでしょう。

 その時、イエス様は何と言われたでしょうか。こう書かれています。「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(15節)と書かれています。そうです、そのような時こそ気をつけなくてはならないことがあるのです。そのように全員にパンが一個しかないような事態になった時こそ、明らかに困窮や不足が生じているような時こそ、気をつけなくてはならないパン種があるのです。パン種は小さくても、全体を膨らませてしまいます。そのように小さく入り込んで全体に悪い影響を及ぼしてしまうパン種があるのです。

ファリサイ派のパン種に気をつけなさい
 実際、困窮や不足がある時に何が入り込んでくるでしょう。まず可能性として考えられるのは裁き合いです。そもそも、いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まるのです。そして、それぞれが自分を正当化しはじめます。これこそがファリサイ派のパン種です。

 今日の箇所の直前にはファリサイ派の人々が来て、天からのしるしを求め、議論をしかけたという話が書かれています(11節)。明らかに悪意をもって議論をふっかけてきたのは、以前にファリサイ派の人々とイエス様の一行との間で一悶着あったからです。

 7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(7:1‐2)。「見た」と書かれていますが、要するに「気になった」ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(同5節)。

 なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(同3‐4節)。

 こういう人は、他の人のことが気になるものです。喜んで守っている人は別でしょうが、義務感から、仕方なく守っている人や、あるいは自分はこれだけ一生懸命に何かを行っていると日頃から思っている人は、守っていない人が気になるものです。自分と同じように行っていない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。また、当然のことながら、そのように他人の行動を批判的に見る人は、自分も批判されているのではないかと気になるものです。批判されないように一生懸命になる。ですから他人の行動ばかりではなく自分の行動も気になります。どう見えているか。どう判断されているか、と。結果的に自分の正しさを一生懸命にアピールするようになります。表向きの正しさを繕うようになります。それが攻撃されれば自分も攻撃的になります。その結果、律法主義の世界は裁き合いの世界ともなるのです。

 そのようなファリサイ派のパン種が困窮と不足の中に入り込むとどうなるでしょう。皆が互いの行動を問題にします。いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まります。皆が自分を正当化し、自分は正しいと主張し始めます。裁き合いが起こります。そのようなパン種は共同体を崩壊させることとなるでしょう。イエス様は言われました。「ファリサイ派のパン種によく気をつけなさい」。

ヘロデのパン種に気をつけなさい
 そして、困窮や不足が生じたとき、可能性としてもう一つ考えられることがあります。それは正しさを問題にするファリサイ派のパン種とは対極にあるものです。すなわち、そこでは善悪ではなく、ただ力関係がモノを言うようになる。そのような可能性は確かにあります。困窮や不足を解決する力を持った人、不足を満たすことができる人がいたら、その人の善悪は全く問題にされることなく人々から持ち上げられることになるかも知れません。その結果、能力にせよモノにせよ、何かを持っている者が周りを支配する共同体となっていきます。しかし、それこそが「ヘロデのパン種」なのです。

 ヘロデについては洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねた人物として6章に出てきます。ヘロデ・アンティパスというガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、この福音書では「ヘロデ王」と呼ばれています。実際には王ではない人物を「王」と呼ぶのはある意味では皮肉です。王でもないのに王のように振る舞っていた人物であったということです。彼は酒の席で踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。実はこれは有名な言葉で、かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にした言葉なのです。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、その王権を示すために、洗礼者ヨハネの首をはねたのです。

 そのような神をも畏れぬ傲岸不遜な人物を、それでもなお支持するユダヤ人の一団がありました。彼らはこの福音書において「ヘロデ派」と呼ばれています。宗教的な一派ではなく政治的なグループです。彼らがヘロデを支持したのはヘロデが正しいからではなく、ヘロデの権力の恩恵にあずかっているからです。ヘロデが支配することによって益を受ける人々だからです。

 先にも申しましたように、そのようなヘロデ派の精神、ヘロデのパン種が共同体の中に入ってくることがあり得ます。正しいか否かはどうでもよいのです。神に対してどのような態度であるかも別にいい。ただ不足を満たし困窮を解決してくれさえすればよい。そのようなヘロデのパン種が教会に入り込むなら、教会という麦粉全体を損なってしまいます。もはや教会ではなくなります。ですからイエス様は前もって弟子たちに言っておられたのです。「ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。

まだ悟らないのか
 さて、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて思いました。「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」。よほどパンを忘れたことを気にしていたのでしょう。そこでイエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(17‐19節)。

 もちろん弟子たちは覚えていました。「十二です」と彼らは答えます。イエス様はさらに問いました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは答えます。「七つです」。そこでイエス様は言われました。「まだ悟らないのか」。

 そうです、彼らは既に悟っていなくてはならないのです。五千人に五つのパンは明らかに足らなかったのです。彼らは困窮していたのです。しかし、イエス様がおられるところにおいては、その困窮は神の豊かさを知る機会となったのです。十二の籠に有り余るほどの神の豊かさです。四千人に七つのパンの時にも、明らかに足らなかったのです。しかし、それは七つの籠に有り余るほどの神の豊かさを知る契機となったのです。

 困窮のあるところ、それは互いに自分の正しさを主張し、裁き合い、悪人捜しをする場所にもなり得ます。困窮のあるところ、それはただ力を持つものが支配し、力ない者が隷属するような場所にもなり得ます。しかし、そこにはもう一つの可能性があるのです。それは皆が既に来られた救い主に目を向け、救い主を送られた神の限りない慈しみに目を注ぐことです。そして、それは神の豊かさを経験する場所となるのです。

 パウロが後に手紙に書いています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。その御子が共におられる。窮乏の舟の中にも御子イエス様が共におられる。それがどれほど大きな意味を持っているかを彼らは悟らなくてはならなかったのです。そこでパンが一個しかなくても、全く問題ではない。むしろ一個のパンが既に与えられているではないか、と語ることができるのです。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。大事なことはパン種を持ち込んでしまわないことです。ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種を外に放り出し、まず神の御業に目を向け喜び祝う。私たちはいつもそのような教会でありたいと思うのです。

2014年7月6日日曜日

「キリストによって派遣されて」

2014年7月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 6章1節~13節


ここから派遣される私たち
 日曜日の礼拝は「招詞」から始まります。招きの言葉から始まるのです。それは私たちが主によって招かれて今ここにいることを意味します。私たちはそのように主によって招かれ集められた者として共に礼拝を捧げます。そして、礼拝の最後には「祝祷」が行われます。祝祷は派遣のための祈りです。私たちは、神の祝福を受け、ここから派遣されて出て行くのです。そして、一週間の生活を経て再び招かれてここに集まるのです。

 このことは、私たちの人生のホームがどこにあるかということと関わっています。私たちのホームはここにあるのです。日曜日の礼拝にあるのです。ここから遣わされるのです。そして、ここに帰ってくるのです。その意味で教会は「行くところ」ではありません。教会は帰ってくるところです。私たちの日常生活の場は、家であれ、職場であれ、学校であれ、すべて派遣先です。私たちは派遣されている者として生活するのです。それが信仰者としての日常生活です。

 では派遣先において、私たちはどのような意識をもって生活したらよいのでしょう。何を考えて生きたらよいのでしょう。そこで私たちが今日目を向けたいのは、主が弟子たちを派遣したという話です。主は派遣された者たちに、何を求められたのでしょうか。

汚れた霊を追い出すために
 主は弟子たちを二人ずつ組にして遣わされました。そこで目に留まりますのは、主が遣わす際に、彼らに「汚れた霊に対する権能」(7節)を授けられたというくだりです。そのような権能を授けたのは、もちろん「汚れた霊」を追い出すためです。そこに派遣の一つの目的が明確に表現されていると言えるでしょう。彼らは汚れた霊を追い出すために送り出されたのです。主によって派遣されるとはそういうことです。

 「汚れた霊を追い出す」と言いましても、私たちはそこでオカルト的な悪魔払いのようなことを考える必要はないでしょう。「汚れた霊」が何であれ、それが追い出されるということは、要するに生活が変わるということです。人々の生活が変わるということは、共同体に変化がもたらされるということです。それは家庭であるかもしれませんし、職場であるかもしれませんし、学校の友人関係かもしれませんし、あるいは社会全体、この世界全体を意味するかもしれません。いずれにせよ、汚れた霊が追い出されるということは、神の御心にかなった変化がもたらされるということです。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」と祈っているではありませんか。それが現実に様々な形で起こるということでしょう。

 私たちは変化をもたらすために送り出されるのです。「汚れた霊」に様々な名前を付けて考えてみてください。例えば「憎しみ」が追い出されたらどうなりますか。「敵意」が追い出されたらどうなりますか。「淫らな思い」が追い出されたらどうなりますか。それは具体的な変化をもたらすことでしょう。イエス様は別な箇所ではこう言っておられます。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)。「あなたがたは世の光である」(同14節)。これもまた同じです。塩を投入するのは変化をもたらすためです。灯を置くのも変化をもたらすためです。その人が存在することで周りが変わるのです。信仰者がこの世界に遣わされ、それぞれの場所に置かれるとはそういうことです。

神に対する信頼
 そこでさらに目に留まりますのは、遣わすに当たってイエス様が弟子たちに与えられた不思議な命令です。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8‐9節)と書かれているのです。要するに、送り出す際に弟子たちの持ち物を全部没収してしまったということです。

 なんとも無茶な話です。しかし、主があえてそうされたのは、遣わされて行く者にとってどうしても必要なことがあるからなのでしょう。それは何であるのか。主がなさったことから、少なくとも二つのことを考えることができます。それは「神に対する信頼」と「人に対するへりくだり」です。その二つはここから遣わされて行く私たちもまた忘れてはならないことなのでしょう。

 イエス様によって持ち物を取り上げられ、お金も取り上げられて、弟子たちは全く神に寄り頼まざるを得ない状況に追い込まれることとなりました。杖一本で出かけるとなったら、神が養ってくださることを信頼して出かけるしかないでしょう。弟子たちは、いつにもまして真剣に「日ごとの糧を与えたまえ」と祈ったに違いありません。

 そのように様々な欠乏は神への信頼と祈りを学ぶ学校となります。必ずしもあの弟子たちのように食べ物がない、お金がないという貧しさだけではありません。私たちが経験するのは、様々な具体的な問題に対する自分の無力さという「貧しさ」かもしれません。能力のなさ、資質のなさを思い知らされるような経験によって自分の「貧しさ」を知ることになるかもしれません。しかし、そこでこそ神への信頼と祈りとを学ぶことになるのでしょう。

 「汚れた霊に対する権能」を授けられた者として生きるなら、そのように遣わされた者として生きるなら、どうしても必要なのは神に対する信頼なのです。なぜなら与えられている権能の源は神にあるからです。自分の力によってこの世界を変えるようにと送り出されているのではないからです。まず大事なのは、あの弟子たちがそうであったように、いかなる困窮の中にあっても神に信頼して生きる人として、人々の間に存在することなのです。

人に対するへりくだり
 そして、もう一つ。それは「人に対するへりくだり」です。イエス様は弟子たちの持ち物とお金を没収してこう言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)。当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、信仰的な美徳と考えられておりましたので、決して珍しいことではありませんでした。イエス様は、そのような習慣を背景として語っているのです。要するに、「誰もがするように、旅先で誰かの世話になれ」と言っているのです。しかも、その土地にいるかぎり、「その家にとどまるように」と言っている。世話になり続けよ、と言っているのです。

 彼らは、新しい村に足を踏み入れる度に、繰り返し身を低くせざるを得なくなりました。まず泊めてもらわなくてはならない。食べさせてもらわなくてはならない。そのような弱い者として彼らは村に入っていくことになったのです。無一文ですから、何をするにも助けが必要なのです。

 そのように、イエス様は、弟子たちが何かを与える前に、まず何かを受ける者とされたのです。上の者が下の者に何かを教えるかのように、あるいは強い人間が弱い人間を助けるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを主はお許しになりませんでした。伝道がそのような形でなされることを主は望まれなかったということです。

 一般的に言いまして、使命感に燃えている人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌います。与える側だけに身を置こうとするのです。「わたしは人の世話にはなりたくない」「わたしは人に迷惑はかけたくない」――いつの間にか私たちも口にしているかもしれません。しかし、与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味で人と共に生きることはできないのです。同じ人間として、同じ地平に立って、他者と大切なものを分かち合うことができない。そういうものです。人の世話になりたくない人は、おそらく良き神の働き人にはなれないのです。

 弟子たちは、「汚れた霊に対する権能」を行使する前に、人に対してへりくだることを学ばねばなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちの中には、家族で一人だけのキリスト者という方も少なくないでしょう。ご家族に神様の恵みを伝えたい、福音を伝えたいと思っているに違いありません。しかし、もしかしたらその前に、まず家族に「助けてください」と素直に言える人にならねばならないのかもしれません。知らず知らずに自分を上に置いていることが、しばしば福音宣教の妨げになっていることがあるからです。


 さて、そのように弟子たちは物乞いのような仕方で村に入って行ったにもかかわらず、そして事実人々のお世話になっていたにもかかわらず、その働きについてはこう記されています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12節)。彼らが行ったところに悔い改めが起こりました。悪霊が出て行きました。癒しが起こりました。人々の生活に具体的な変化が起こりました。村々に神の御心にかなった変化が起こりました。御心の天になるごとく地にもなるのを彼らは実際に目の当たりにしました。

 それが彼ら自身に由来するものでないことは明らかでした。彼らは何も持っていない物乞いのようなありさまだったのですから。それはイエス様が授けてくださった「汚れた霊に対する権能」によるのです。そこに現れているのは神の御業に他ならないのです。それゆえに彼らは主の御名をあがめたことでしょう。そのことを私たちもまた期待してここから出て行くべきなのです。様々な形における私たちの貧しさにもかかわらず、私たちを通して神の御業が現れることを期待して、ここから遣わされてまいりましょう。

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