2014年6月8日日曜日

「壁を越えて行かれる神」

2014年6月8日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~11節


教会の誕生
 今日は「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。毎年祝われているこの日は、いわば「教会の誕生日」と言うことができます。教会がどのように誕生したのか、そして宣教の歴史がどのようにスタートしたのかは、使徒言行録2章に記されています。今日の第二朗読でお読みしました。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 ここに書かれているのは、およそ私たちの日常経験とはかけ離れた奇妙な出来事です。しかし、毎年毎年、聖霊降臨祭にはこの箇所が読まれます。なぜでしょうか。その一つの理由は、教会が何であるかを思い起こすためであると言えます。教会については忘れてはならない大切なことがあるのです。すべては神によって始まったということです。

 そこには「突然」と書かれていました。この言葉が既に「人間が計画したことではない」という事実を物語っています。人間が企画し、人間が用意周到に準備して実現したことではないのです。そして、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたのです。それは地上の風ではないし、地上の音でもありませんでした。「天から」と書かれているとおりです。

 そして、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ました。「舌」は人体の器官でありますが、そこから発せられる言葉をも意味します。この世の「舌」、一人の人間の炎のような「舌」によって人々が動かされることはあります。一人の「舌」が多くの「舌」に言葉を与えて、一つの運動が起こることはあります。しかし、教会はそのような人間の「舌」によって始まったのではないのです。それは神の側から「現れた」のであって、神によって「一人一人の上にとどまった」のです。そして、一人一人に与えられた言葉は、神の霊、聖霊によって与えられたのだとこの聖書箇所は伝えているのです。

 この前の章には既に120名ほどの人々が集まっていたことが伝えられています(1:15)。その120名の中で、既にペトロは指導的な役割を果たしていました。イスカリオテのユダに代わる人の選出を導いたのは彼でした。また、今日の箇所の後には、そのペトロが代表して使徒たちと共に立ち、人々に語っている姿を見ることになります。

 そのような事実があるゆえに、今日お読みした箇所は特に大きな意味を持っていると言えるでしょう。ペトロの指導力や使徒たちの働きによって教会が成立したのではないと聖書ははっきり伝えているのです。それは「突然」起こったことなのだ。神の介入によって始まったことなのだ、と。そして、教会はそのことを忘れなかったのです。

ほかの国々の言葉で
 そこで私たちは今日、特に「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という言葉を心に留めたいと思います。「聖霊に満たされた」ということと、「ほかの国々の言葉で話しだした」ということは、どのように関係しているのでしょう。

 今日お読みした箇所において強調されているのは、ただ彼らが「ほかの国々の言葉」を話したということだけではありません。彼らの語る「ほかの国々の言葉」を聞いていた人たちがいたのです。次のように書かれていました。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(5‐6節)。そして、彼らの「故郷」のリストが、「パルティア、メディア、エラム…」と延々と続くのです。殊更に様々な地名が並べられているのです。

 彼らの中にはローマからの滞在者もいたようですが、ほとんどは既にエルサレムに移住していた元ディアスポラ(離散)のユダヤ人であると思われます。彼らがエルサレムに移住してきたのはなぜか。そこには様々な理由があったでしょうが、大きな理由として考えられるのはイスラエルの王国復興の希望です。

 それはイエス様の弟子たちも抱いていた希望であって、それはイエス様が昇天される直前に弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)と尋ねていることからも分かります。イエス様から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(1:4)という言葉を聞いた時、弟子たちもまた、エルサレムへの移住が求められていると考えたかもしれません。いずれにせよ、そのようなメシア待望と結び着いた国家再建の希望を共有する人たちは決して少なくなかったのでしょう。

 そのようにエルサレムに移り住んできた人たちは、いわばパルティア、メディア、エラム、あるいはエジプトやキレネの住民であることよりも、ユダヤ人としてのアイデンティティを大切にし、まさにそのユダヤ人である「自分たちの国家」の再建を望んだ人たちなのです。彼らは「信心深いユダヤ人」ですから、エルサレムに集結することが神の御心と信じて移住したのでしょう。

 しかし、彼らがそこで目にしたのは、彼らとは全く逆方向に向かう姿だったのです。「ユダヤ人のために、エルサレムのために」と考えていた人々が耳にしたのは、彼らが後にしてきた故郷の言葉だったのです。そこに彼らが見たのは、いわばイスラエルから外へと向かおうとしておられる神の姿だったとも言えます。聖霊が語らせた言葉は、神がパルティア、メディア、エラム、さらにはエジプトやキレネに関心を向けておられる事実をはっきりと示していたのです。神はイスラエルという壁の外へと、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁の向こうへと向かおうとしておられたのです。

 では、神は何のために外に向かおうとしておられたのでしょう。彼らは自分たちの生まれ故郷の言葉で、何を聞いたのでしょう。彼らは驚いてこう叫んでいます。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)。そうです、彼らはほかの国々の言葉をもって「神の偉大な業」が語られるのを耳にしたのです。「神の偉大な業」とは、既にエルサレムにおいて起こった出来事です。すなわち、イエス・キリストを通して神が成し遂げられた救いの御業です。その内容は具体的に、2章の後半でペトロが最初の説教として語ることになるのです。

外へと向かう神と共に
 「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。これが人々の見た、最初の教会の姿でした。神によって始められ、やがては神と共に自らも外へと向かっていく教会の姿です。やがて地の果てまでも神の偉大な業を告げ知らせることになる教会の姿です。

 この出来事を伝える聖書箇所が、毎年ペンテコステになると読み上げられます。それは私たちにとって恵みです。この使徒言行録2章の伝えるところを念頭に置かなければ、私たちは教会を単なる人間の集まりにしてしまうかもしれませんから。

 単なる人間の集まりとして教会を考えるなら、私たちはそれを自分たちのニーズ、人間のニーズに応えるだけの集団にしてしまうことでしょう。教会生活は、ただ「自分の必要は満たされるか」ということに終始することになるでしょう。教会はひたすら「自分たちのための教会」を求め、自分たちにとって快適で居心地のよい、自分たちの欲求が満たされる教会の理想を追い求めることになるでしょう。ちょうど私たちは会堂建築の準備をしている時ですが、もし今日の聖書箇所を忘れるなら、教会堂建築にしても、自分たちの必要を満たしてくれる《自分たちのための教会堂》を建築しようとすることでしょう。

 しかし、代々の教会がそのような教会であったなら、日本に教会は存在しないはずなのです。ここに頌栄教会は存在しないはずなのです。神から遠く離れた異邦人だった私たちが今ここにいるのは、神がいかなる隔ての壁を越えて外に向かって行かれる神であったからに他なりません。そして、今度は私たちを用いて、私たちを通して、神はさらに進んで行こうとしておられるのです。

 その意味においても4節に語られている「一同は聖霊に満たされ」という言葉は重要です。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。そうです、聖霊に満たされた者たちが、「ほかの国々の言葉で話しだした」のです。しかも、「神の偉大な御業」を語り出したのです。

 使徒言行録には、この「聖霊に満たされ」という表現が繰り返し出てきます。「聖霊に満たされ」が繰り返される中で、福音がエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで伝えられていくのです。イエス様は天に挙げられる前に言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)。

 聖霊降臨祭において思い起こさなくてはならないのは、教会の誕生の姿だけではありません。彼らが「聖霊に満たされた」という事実です。それは私たちもまた聖霊に満たされることを求めるということでもあるのです。それは、ただ私たち自身の信仰生活のためではありません。むしろ「わたしの信仰生活」という壁を越えて出て行くために必要なのです。教会が聖霊の満たしを求めるのは、「私たちの教会」という壁を越えて出て行くために必要なことなのです。さらには私たちが様々な形で築いてしまっている様々な隔ての壁を越えていくために必要なことなのです。あらゆる壁を越えて進みゆかれる神と共に進んでいくために必要なことなのです。

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