2014年6月29日日曜日

「汚れた霊、この人から出て行け!」

2014年6月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 5章1節~20節


汚れた霊に取りつかれた人
 神学校を卒業して大阪に赴任した時、最初の住まいは小さな賃貸マンションでした。そこに入居した時、すぐにトイレのドアの内側にいくつものくぼみがあることに気づきました。これは一体何だろう。しばらく気にかかっていましたが、やがてあまり考えなくなりました。ところが、半年ほど経ったある日、突然謎が解けたのです。トイレに座って手を伸ばすとちょうどドアに当たります。そして、拳の出っ張った部分が、ちょうどドアのくぼみとぴったり合うのです。アルミ製のドアを恐らく前の住人が何度も殴ったのでしょう。その跡が残っていたのです。結構固いドアですから、よほど強く殴ったものと思われますよほど腹が立ったのでしょう。やり場のない怒りをドアにぶつけたのでしょうか。

  これがドアでなくて人だったらどうなりますか。言葉の拳を人に打ち付けるという経験は誰にでもあるものでしょう。そんなことをしても何の解決にもならない時でさえ、そうせずにはいられない。ドアを殴れば自分の手も痛むように、他人を傷つければ自分も傷つくことになります。しかし、後で悔やむことが分かっているのに、止まらない。確かに、私たちは自分の意志に反する衝動によって動かされ、破壊的な行動を取ってしまう時があるものです。そのような衝動の代表はこのような怒りや憎しみから生ずるものでしょう。

 さて、今日お読みした箇所には「汚れた霊に取りつかれた人」が出てきます。墓場に住んでいるというのは極端な話ではあります。しかし、読んでいると自分にも思い当たることがある、そんな話でもあります。彼の姿は、ある意味では先に触れた私たちの日常の経験が凝縮したような姿でもあるからです。

 彼は墓の住人でした。当時の墓は洞穴ですから、人が住めなくはない。しかし、墓は本来人が生活する場所ではありません。彼を墓に追いやったのは汚れた霊でした。その汚れた霊の名前は「レギオン」でした。レギオンとはローマの一軍団を意味します。四千人から六千人の兵士によって構成されているものです。それだけ大勢の悪霊が彼の内に住み着いていたという意味でしょう。言い換えるならば、ありとあらゆる衝動が彼を振り回していたということでしょう。彼は自分で自分をコントロールできませんでした。

 この人は「墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしていた」と書かれています。彼は自分の思い通りにならない自分自身が赦せない。思い通りにならない自分のことが嫌で嫌でしょうがない。だから、彼は自分で自分を罰するのです。打ち叩き、傷つける。本当は自分を傷つけたって、自分を罰したって何の解決にもならないのです。そこには何の救いもないのです。しかし、分かっていても、そうせずにはいられない。この男の気持ち、分かる気がしませんか。程度の差こそあれ、私たちも同じようなことをしていることがあるのでしょう。あのトイレのドアを殴っていた住人も、もしかしたら自分に腹を立てていたのかもしれません。

かまわないでくれ!
 しかし、私たちは、今日の聖書箇所に私たち自身の姿を見るだけでなく、ここに私たちに与えられている希望をも見ることができるのです。今日の福音書朗読は何を伝えているでしょうか。この男は見捨てられていなかったということです。イエス様が、嵐に荒れ狂う湖を越えてこの男のところまで来てくださったのです。イエス様が「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言って来てくださったのです。

 イエス様が来てくださった時、この男は何をしましたか。いったい彼には何ができたのでしょう。聖書にはこう書かれています。「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」(6節)――そうです、汚れた霊に振り回されている自分、自らをコントロールすることのできない自分をそのままイエス様の前に投げ出したのです。不自由にする力に支配されていることを知るゆえに、解き放つ力をお持ちの方の前にひれ伏したのです。自分で自分を打ち叩いても、何の解決にもならないことを知っているからです。だからイエス様の前にひれ伏したのです。

 しかし、その一方で内側からもう一つの声があがります。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(7節)。聖書は人間の心を良く知っています。確かにこのようなことは起こります。救われたいからこそ、遠くから彼は走り寄ったのでしょう。しかし、汚れた霊は言うのです。かまわないでくれ、と。そのように人間の内で二つの思いが分かれ争うのです。変わりたいという思いとそのままでいたいという思い。その二つが分かれ争うのです。助けて欲しい。救って欲しい。でも、放っておいて欲しい。かまわないでくれ。苦しめないでくれ、と。

 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。「かまわないでくれ」というのは、「わたしとあなたに何の関わりがあるか」という意味の言葉です。あなたは関係ない。わたしがどう生きようと、何をしようと、あなたには関係ないじゃないか。わたしはわたし、あなたはあなただ。放って置いてくれ。そのように、変わりたくないという思いが彼の口から言葉となって発せられます。しかし、言葉として表れたのはこの人の口からですが、無言の内に同じことを語っているのは、実は彼だけではなかったのです。

 この場面は実に不気味な雰囲気が漂っているので、誰もいないところで起こった出来事であるかのように思いやすいのですが、後の方を見ると「成り行きを見ていた人たち」(16節)がそこにいたことがわかります。そこにいたのはイエスの一行と汚れた霊につかれた男だけではなかったのです。それはある意味では当然のことでしょう。福音書を読む限り、ここまでの時点で既にかなり広い範囲にわたってイエス様のしておられることは伝わっていたようですから(3:7以下)、イエスの一行が来たことを知って集まってきた人たちは少なからずいただろうと想像できるのです。

 しかし、そのような人々の中で、イエス様のもとにかけよってひれ伏したのはあの男しかいなかったのです。他の人たちはどうしていたか。外から見ていたのです。この人の身に起こったこと、そして豚に起こったこと。そうです、イエス様の内に神の権威が現れていることを彼らは確かに目撃したのです。しかし、そこに現れたイエスの権威こそ、自分たちをも解放するものであるとは考えませんでした。彼らはついぞイエス様の前にひれ伏すことはありませんでした。

 そのように、ひれ伏すことのなかった人々が事の成り行きを伝えます。これを聞いた人々はどうしたか。「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」(17節)。多くの豚がおぼれて死にました。それは大きな損失であったということもあるでしょう。しかし、彼らはそれ以上に、イエス・キリストという存在が彼らの地に大きな力が変化をもたらすことを予感したのです。彼らはそれを恐れたのです。村が変わってしまう。人が変わってしまう。基本的に人間は変わりたくないのです。そのままでいたいのです。それゆえに、自分たちが変わることよりも、キリストを遠ざける方を選んだのです。

味方となってくださる方
 そのことを考えますとき、この汚れた霊に取りつかれた人が遠くから走り寄ってきたことの大きな意味も見えてくるのです。確かに、この人は苦しんできました。自分で自分を治めることができないことを嫌というほど味わい知ってきました。しかし、そのことのゆえに彼はイエス様のもとに駆け寄ったのです。イエス様の声を聞くならば「かまわないでくれ」と答えてしまうような内なる声を宿しながらも、それでもなおその人は救い主の前にひれ伏さざるを得なくなっていたのです。そして、そこに既に救いは始まっていたのです。

 この箇所を読みますときにふとAA(アルコホーリックス・アノニマス)のことを思い起こしました。アルコール依存症の方々の回復のための自助グループです。頌栄教会も二つのグループの会場となっています。AAには回復のための12ステップと呼ばれるものがあります。その最初の二つはこのように書かれています。①私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。②自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。――ある意味では、イエス様の御前でこの人の内に起こったことは、まさにそういうことなのです。徹底的に自分の無力さを知った者が、より大きな力を持つ御方の御前に出る。そこにこそ救いの始まりがあるのです。

 そして、そのような人に対して、イエス様ははっきりと味方としてかかわられたのです。イエス様は言われました。「汚れた霊、この人から出て行け」と。あくまでもこの人の側に立って、この人の味方として、汚れた霊に命じてくださったのです。この人の味方として、汚れた霊と自ら戦ってくださったのです。これまで迷惑をかけるこの男を鎖で縛り付けようとする人はいくらでもいました。足枷をはめようとする人はいくらでもいました。しかし、そのように本当の意味で味方になってくれる人なんてどこにもいなかったのです。自分自身でさえ、自分の味方になれなかったのですから。しかし、イエス様は違っていました。主は彼の味方として悪霊に命じてくださいました。

 ここに教会の姿を見ることができます。教会とは、自分で自分を救うことができないことを知った者が、救い主のもとに駆け寄る場所です。私たちが主のもとに集まり礼拝しているとはそういうことです。だから私たちには希望があります。私たちは、もう一人で格闘する必要はないのです。どうにもならない自分と格闘し、破れ、嘆き、自分を打ちたたき、自分を傷つけ、自分を痛めつけながら生きる必要はないのです。イエス様が来てくださいました。神の国は近づきました。解き放つ力をお持ちの方が私たちの味方となってくださいます。私たちと真実に向き合い、私たちに関わり続けてくださるのです。その御方が、最終的に私たちを完全に救ってくださいます。私たちはその御方に自分をゆだねることができるのです。そこに私たちの希望があるのです。

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