2014年6月22日日曜日

「心を合わせて祈るとき」

2014年6月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章13節~31節


人からか神からか
 今日の聖書箇所の前半は、ペトロとヨハネが議会で尋問を受けている場面です。彼らが投獄されたことについては、この章のはじめに次のように記されています。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」(1‐3節)。

 そこで翌日、彼らは引き出されて尋問を受けることとなりました。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(5‐7節)。そこで、「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあるように、答弁を始めるという流れです。今日はその部分には触れませんが、結果的には、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)ということとなりました。

 さて、「ペトロとヨハネの大胆な態度」とありますが、私たちは今読んでいる使徒言行録がルカによる福音書に続く二巻目であることを思い起こさねばなりません。そして、6節の「大祭司アンナスとカイアファ」は一巻目のルカによる福音書にも出てきたことを思い出す必要があります。それはイエス・キリストが捕らえられた場面です。主がまず連れて行かれたのは大祭司の家だったのです。

 あの時、ペトロは遠く離れて後からついていったのでした。彼が中庭にまで入っていった時、ある女中が目にして「この人も一緒にいました」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまうのです。三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。そして、次のように書かれています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)。

 これが生来のペトロでした。しかし、今日の箇所に出て来るペトロは明らかに違います。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペトロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19節)。

 あの時とこの時の間に何が起こったのか。それはイエス・キリストの十字架刑とキリストの復活。そして、聖霊の降臨です。ここに見るのは「聖霊に満たされた」ペトロの姿なのです。それはペトロが「もっと強くならねば」と思って努力して強い人間になったということではないのです。

 そして、「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」と書かれています。無学な者というのは、律法の専門教育を受けてはいないということです。普通の人というのは、無資格の者ということです。つまり彼らが見たのは、この世の教育や資格に由来するものではなかったというおとです。また、人間の能力や経験に由来するものでもなかったということです。

 それは既にキリストが言っておられたことでした。主はかつて弟子たちにこう言っておられたのです。「…人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12‐15)。そのように、彼らが耳にしたのは人からの知恵や知識ではなく神からの知恵であり知識だったのです。

 さて、この箇所を読みます時に、私たちは教会としても、また個々の信仰者としても一つの問いを突きつけられているように思います。私たちが見たいと思うのは、神のために一生懸命行った私たちの業でしょうか。それとも、私たちを通して実現される神の御業でしょうか。人間に由来するものでしょうか。それとも神に由来するものでしょうか。私たちが願っているのはどちらでしょう。それは私たちが神のために何かを成し遂げることですか。それとも、神が私たちを通して何かを成し遂げてくださることでしょうか。

皆、聖霊に満たされて
 もし教会の歩みにおいても私たちの人生においても神の御業を見たいと思うなら、決定的に重要なことは「わたしが、わたしが」と言って「わたし」が満ちていることではなくて、ペトロがそうであったように、「聖霊に満たされて」いることなのでしょう。そして、今日の聖書箇所は、ペトロだけではなく、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(31節)と締めくくられているのです。

 そこに書かれている「皆」というのは、ペトロとヨハネが釈放された後に向かった仲間たちです。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)と書かれているとおりです。

 それを聞いた彼らはどうしたでしょうか。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」(24節)。すなわち、彼らは祈ったのです。心を一つにして祈ったのです。そのような彼らが聖霊に満たされたのです。そして、ペトロと同じように大胆に御言葉を語る者とされたのです。

 祈るとはどういうことか。今日の聖書箇所ははっきりと私たちに示しています。彼らはこのように祈り始めました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。このように祈りとは、まず神へと目を転じることから始まります。

 現実には彼らは大きな問題に直面していたのでしょう。ペトロとヨハネが捕らえられて脅迫されたということは、すなわち彼らもまた脅迫の対象であるということです。ユダヤ人当局がペトロとヨハネに対して「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」ということならば、当然、教会もまたその規制の対象となるのでしょう。それは誕生したばかりの教会にとっては大きな打撃です。

 しかし、彼らは直面している問題の大きさではなく、神の偉大さに目を向けるのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方への信仰を告白したのです。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と。

 小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それが世界の全てを覆い隠して見えなくするように、私たちの直面している問題もまた目の前に置かれれば世界の全てを覆い隠します。しかし、私たちは目を転じなくてはなりません。創り主の偉大さに目を向ける時に、今まで世界の全てであるかのように思えた問題もまた、神が支配するこの世界に起こっている一つの出来事に過ぎないことを知るのです。それは決して神の御手の外に出てしまうようなことではないと知るのです。

 そして、もう一つ。彼らはこう祈っています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29‐30節)。彼らは直面している問題をそのまま単純素朴に神様に語ります。神様の前にすべてを広げるのです。「目を留めてください」と。

 その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」彼らは、脅迫されているという現状を神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありませんでした。また、「脅迫がなくなるように」と祈ったのでもありませんでした。彼らが求めたのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもなかったのです。そうではなくて、恐れを取り除かれることを願ったのです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と。

 そして、そこに神の御業が現れることを願い求めたのです。「御手を伸ばしてください」と彼らは祈ります。もちろん、実際に手を伸ばすのは彼らなのです。しかし、彼らが望んでいるのは神が手を伸ばしてくださることなのです。彼らの手を通して、神が御手を伸ばしてくださることなのです。神が彼らを用いて御業をなしてくださることなのです。「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」とはそういうことです。

 そのように、祈るとは神の御業のために自分自身を差し出すことでもあるのです。その時に、もはやそこに満ちているのは「わたしが、わたしが」と主張する「わたし」ではないのでしょう。そこに神の霊が満ちるのです。主が支配し、主が御業をなしてくださるのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。

 そのように共に祈ることを大切にしましょう。神に目を転じ、貧しい私たち自身を差し出して、私たち自身を通して神の御業が現れることを期待しましょう。そのように聖霊に満たされた教会となることを共に求めてまいりましょう。

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