日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章12節~17節
肉に従って生きるのではなく
今日の礼拝では次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12‐13)。
「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」とは何でしょう。聖書が「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲に従って生きなければならないという、肉欲に対する義務」と言っているのではありません。もろもろの欲望に従って生きている人は、何もそれが義務だからということで、そのように生きているわけではありませんから。
ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。信仰者となる以前の私たち、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。信仰者となって後も、古い自分は生きています。ですから同じ原理で生きようとする。ただ自分の力で神の御心に従って生きようとするのです。ですからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。
では「肉に対する義務」でないとするならば、いったい何に対する義務なのでしょう。実は、この文は途中で終わっているのです。(パウロの手紙では時々このようなことがあります。)しかし、パウロが本来意図していた続きは明らかです。「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。そうではなく、霊に従って生きなければならないという、霊に対する義務です」。その後に霊と肉を対比して次のように語っていることからも分かります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。
では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはさらにこう続けます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。
キリスト者にはキリスト者としての生き方があるべきだ。それは誰でも考えることでしょう。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とは言わないでしょう。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の力を振り絞って神の御心に従って生きることでもないのです。そんなことをしたら「死にます」と彼は言うのです。これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのでしょう。人間の内にある罪の問題は、人間の頑張りではどうにもならないほど深刻なものだということが分かっているからこそ言うのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。
大事なことは、「霊に従って生きる」ことなのです。それはすなわち、神の子どもとして生きることなのです。そのように生きてこそ、「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)と書かれていることも実現していくのです。体を通して現れる罪深い行いが絶たれるのです。それは肉によってではなく「霊によって」なのです。
霊に従って生きる
では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。
ここには二つの大事な認識があります。「霊に従って」生きる時に決定的に重要になるのは、この二つの認識なのです。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷になることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。
この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては非常に身近なイメージとして捉えられたと思います。奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。
私たちの信仰生活が、そのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かに起こり得ることでしょう。従順でないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的に救われないかもしれない。神の国にも入れてもらえないかもしれない。だから神様の言いつけを守る。従順に生きる。いつ神様に怒られるか、神様に認めてもらえるか、ビクビクしながら神様に従う。――もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。
そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、恐ろしい神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。
そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。
私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと言うのです。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。
ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。これは神の特別な恵みなのです。だから、特別な手続きによって養子とされたのです。養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、何が起こったのかを私たちは知らされているではありませんか。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださったから、私たちの罪を贖ってくださったから、だからこそ私たちは安心して養子となることができるのです。これは神がなさったことだからです。
そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、もといた家の子どもとしての権利は完全に失いますが、同時に新しい家の権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。
これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。
それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですからこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。
「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。
このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。
私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは肉に従って生きることになってしまうでしょう。そして、罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうことでしょう。あるいは表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するかしかないでしょう。
その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは父を呼びながら生きていくのです。そのようにして父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、生きたらよいのです。祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。