2014年6月1日日曜日

「永遠の命とは」

2014年6月1日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~13節


永遠の命などいらない?
 ただいま唱和しました「使徒信条」の最後の言葉は「とこしえの命を信ず」でした。「とこしえの命」。今日の福音書朗読にも「永遠の命」という言葉が出てきました。ヨハネによる福音書には何度もこの言葉が出てきます。よく知られているのは3章16節でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

 イエス・キリストが来られたのは、私たちが「永遠の命」を得るためだと聖書は言います。しかし、「永遠の命などいらない」と仰る方がいました。そんなのまっぴらごめんだ、と。お分かりになりますでしょうか。その人は「永遠の命」をただ「ずっと長く生きること」と理解したのです。生きることが苦しみの連続である人にとっては、それが終わらないということは地獄以外の何ものでもないでしょう。「永遠の命」が「不死」を意味するならば、「そんなものいらない」と言う人がいても不思議ではありません。

 「不死」ではないにせよ、日本は世界一の長寿国です。様々な健康法が開発され、医学も進歩しました。昨今話題になっている再生医療が実用化するならば平均寿命は飛躍的に伸びるかもしれません。しかし、日本人は長寿であるから幸せかと問われるならば、必ずしもハイとは答えられないでしょう。明らかに、人間にとって重要なのは単に命の「長さ」ではないのです。そうではなくて命の「質」なのです。どのように生きているのか、ということなのです。

 「永遠の命」が単に「長さ」の話ならば、「そんなものいらない」となるのでしょう。しかし、聖書が「永遠の命」について語る時、それは「長さ」の問題ではないのです。それは「質」の問題なのです。どのように生きるのか。人はどのように生き得るのかということなのです。そこで心に留めたいのは、今日の福音書朗読の中で読まれたイエス様の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。

永遠の命とは神を知ること
 主はまず「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」と言われました。神を知ること。それは単に神についての知識を得ることではありません。神を知ること。それは愛と信頼における交わりです。神との交わりです。それが何を意味するのかは、この祈りそのものがよく表しています。

 これは最後の晩餐において最後に捧げられた祈りです。主は間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることを知っているのです。ですから主は祈りの中でこう言われます。「父よ、時が来ました」(1節)。それは十字架にかけられる時に他なりません。しかし、そこで主はこう続けるのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。

 これは驚くべき言葉ではありませんか。「時が来ました」。その十字架の時は、イエス様が最も惨めな姿で死んでいく時なのでしょう。しかし、イエス様にとって、それは父の栄光を現す時なのです。イエス様は父なる神への愛と信頼のゆえに、ただ父の栄光を現すことを願うのです。

 それはすなわち、自分に与えられた使命を果たすことでした。主は心の中で既に十字架にかけられた自分自身を見ています。否、既にその先を見ている。すべてを成し遂げて父のもとに帰って行く時を思いつつ祈っているのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。既に成し遂げた喜びに溢れているのです。

 十字架を前にして、しかし喜びに溢れて、愛と信頼をもって「父よ、父よ」と繰り返されるイエス様の祈りの姿。これが父を知る子の姿です。「知る」とはこういうことです。単なる知識ではありません。愛と信頼における交わりです。そのようにイエス様が見せてくださった父なる神との交わりに入れられること。そのように永遠なる神を「知る」こと。それが永遠の命だと言うのです。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

永遠の命とはイエス・キリストを知ること
 しかし、イエス様はただ「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」とは言われませんでした。続けて「あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われたのです。それはイエス様の中では切り離すことのできないことだったのです。

 イエス様は既に成し遂げられたかのように、喜びに溢れて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈りました。そして、福音書を読み進んでいきますと、その同じ言葉を人々は十字架の上から聞くことになるのです。イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。ヨハネによる福音書においては、これがイエス様の最後の言葉です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)。

 何が成し遂げられたのでしょう。「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは何なのでしょう。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となることでした。世の人の罪を代わって背負って死んでいく小羊となること、罪を贖う犠牲となることでした。何のためですか。私たちが、罪を赦された者として、神との交わりに入れられるためです。イエス様が見せてくださった父と子との交わりに、私たちもまた入れられるためだったのです。すなわち、神を知るためです。ですから、それはまた神が遣わされたイエス・キリストを知ることでもあるのです。

 そのように、人はイエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、赦された人として、永遠なる神との交わりに生きることができるのです。そのように永遠なる神を知ること。神が遣わされたイエス・キリストを知ること。それが永遠の命です。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

 そして、その命を主が与えるならば、何ものもそれを奪うことはできないのです。それはいかなるこの世の権力によっても、あるいは病によっても死によっても奪われることのない命です。なぜなら、何ものもイエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。神との交わりを奪うことはできないからです。それが「永遠の命」です。

互いの愛の完成に向かって
 そして、「永遠の命」について、さらに一つのことに目を向けたいと思います。主はこのように祈られました。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。

 既に見てきたように、イエス様は父なる神を知るということがいかなることかを地上において示してくださいました。父と子との間における愛と信頼における交わり。それはまさに永遠の命そのものでした。イエス様は永遠の命を見せてくださいました。そして、私たちをその交わりに招いてくださいました。しかし、今主は、その父と子との交わりが、私たちお互いの間にも実現するようにと祈っておられるのです。「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。しかし、それは私たちと神との関係に留まりません。私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知るということは、父と子が一つであることを知ることです。そして、父と子が一つであることを知るということは、そのように私たちもまた一つとなることでもあるのです。私たちお互いの間にも愛と信頼における交わりが実現していくことでもあるのです。私たちはその愛の完成へと向かっているのです。

 私たちが見ているのはまだ一部分でしかありません。私たちは救いについても永遠の命についても部分的に知るに過ぎません。私たちはやがて完全な救いにあずかる時が来るでしょう。私たちは既に与えられている永遠の命が何であるかをはっきりと知る時が来るでしょう。それはただ神との完全な交わりの中に入れられるということではありません。そうではなく、お互いの愛が完成する時でもあるのです。

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