2014年6月29日日曜日

「汚れた霊、この人から出て行け!」

2014年6月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 5章1節~20節


汚れた霊に取りつかれた人
 神学校を卒業して大阪に赴任した時、最初の住まいは小さな賃貸マンションでした。そこに入居した時、すぐにトイレのドアの内側にいくつものくぼみがあることに気づきました。これは一体何だろう。しばらく気にかかっていましたが、やがてあまり考えなくなりました。ところが、半年ほど経ったある日、突然謎が解けたのです。トイレに座って手を伸ばすとちょうどドアに当たります。そして、拳の出っ張った部分が、ちょうどドアのくぼみとぴったり合うのです。アルミ製のドアを恐らく前の住人が何度も殴ったのでしょう。その跡が残っていたのです。結構固いドアですから、よほど強く殴ったものと思われますよほど腹が立ったのでしょう。やり場のない怒りをドアにぶつけたのでしょうか。

  これがドアでなくて人だったらどうなりますか。言葉の拳を人に打ち付けるという経験は誰にでもあるものでしょう。そんなことをしても何の解決にもならない時でさえ、そうせずにはいられない。ドアを殴れば自分の手も痛むように、他人を傷つければ自分も傷つくことになります。しかし、後で悔やむことが分かっているのに、止まらない。確かに、私たちは自分の意志に反する衝動によって動かされ、破壊的な行動を取ってしまう時があるものです。そのような衝動の代表はこのような怒りや憎しみから生ずるものでしょう。

 さて、今日お読みした箇所には「汚れた霊に取りつかれた人」が出てきます。墓場に住んでいるというのは極端な話ではあります。しかし、読んでいると自分にも思い当たることがある、そんな話でもあります。彼の姿は、ある意味では先に触れた私たちの日常の経験が凝縮したような姿でもあるからです。

 彼は墓の住人でした。当時の墓は洞穴ですから、人が住めなくはない。しかし、墓は本来人が生活する場所ではありません。彼を墓に追いやったのは汚れた霊でした。その汚れた霊の名前は「レギオン」でした。レギオンとはローマの一軍団を意味します。四千人から六千人の兵士によって構成されているものです。それだけ大勢の悪霊が彼の内に住み着いていたという意味でしょう。言い換えるならば、ありとあらゆる衝動が彼を振り回していたということでしょう。彼は自分で自分をコントロールできませんでした。

 この人は「墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしていた」と書かれています。彼は自分の思い通りにならない自分自身が赦せない。思い通りにならない自分のことが嫌で嫌でしょうがない。だから、彼は自分で自分を罰するのです。打ち叩き、傷つける。本当は自分を傷つけたって、自分を罰したって何の解決にもならないのです。そこには何の救いもないのです。しかし、分かっていても、そうせずにはいられない。この男の気持ち、分かる気がしませんか。程度の差こそあれ、私たちも同じようなことをしていることがあるのでしょう。あのトイレのドアを殴っていた住人も、もしかしたら自分に腹を立てていたのかもしれません。

かまわないでくれ!
 しかし、私たちは、今日の聖書箇所に私たち自身の姿を見るだけでなく、ここに私たちに与えられている希望をも見ることができるのです。今日の福音書朗読は何を伝えているでしょうか。この男は見捨てられていなかったということです。イエス様が、嵐に荒れ狂う湖を越えてこの男のところまで来てくださったのです。イエス様が「向こう岸に渡ろう」(4:35)と言って来てくださったのです。

 イエス様が来てくださった時、この男は何をしましたか。いったい彼には何ができたのでしょう。聖書にはこう書かれています。「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」(6節)――そうです、汚れた霊に振り回されている自分、自らをコントロールすることのできない自分をそのままイエス様の前に投げ出したのです。不自由にする力に支配されていることを知るゆえに、解き放つ力をお持ちの方の前にひれ伏したのです。自分で自分を打ち叩いても、何の解決にもならないことを知っているからです。だからイエス様の前にひれ伏したのです。

 しかし、その一方で内側からもう一つの声があがります。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(7節)。聖書は人間の心を良く知っています。確かにこのようなことは起こります。救われたいからこそ、遠くから彼は走り寄ったのでしょう。しかし、汚れた霊は言うのです。かまわないでくれ、と。そのように人間の内で二つの思いが分かれ争うのです。変わりたいという思いとそのままでいたいという思い。その二つが分かれ争うのです。助けて欲しい。救って欲しい。でも、放っておいて欲しい。かまわないでくれ。苦しめないでくれ、と。

 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。「かまわないでくれ」というのは、「わたしとあなたに何の関わりがあるか」という意味の言葉です。あなたは関係ない。わたしがどう生きようと、何をしようと、あなたには関係ないじゃないか。わたしはわたし、あなたはあなただ。放って置いてくれ。そのように、変わりたくないという思いが彼の口から言葉となって発せられます。しかし、言葉として表れたのはこの人の口からですが、無言の内に同じことを語っているのは、実は彼だけではなかったのです。

 この場面は実に不気味な雰囲気が漂っているので、誰もいないところで起こった出来事であるかのように思いやすいのですが、後の方を見ると「成り行きを見ていた人たち」(16節)がそこにいたことがわかります。そこにいたのはイエスの一行と汚れた霊につかれた男だけではなかったのです。それはある意味では当然のことでしょう。福音書を読む限り、ここまでの時点で既にかなり広い範囲にわたってイエス様のしておられることは伝わっていたようですから(3:7以下)、イエスの一行が来たことを知って集まってきた人たちは少なからずいただろうと想像できるのです。

 しかし、そのような人々の中で、イエス様のもとにかけよってひれ伏したのはあの男しかいなかったのです。他の人たちはどうしていたか。外から見ていたのです。この人の身に起こったこと、そして豚に起こったこと。そうです、イエス様の内に神の権威が現れていることを彼らは確かに目撃したのです。しかし、そこに現れたイエスの権威こそ、自分たちをも解放するものであるとは考えませんでした。彼らはついぞイエス様の前にひれ伏すことはありませんでした。

 そのように、ひれ伏すことのなかった人々が事の成り行きを伝えます。これを聞いた人々はどうしたか。「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」(17節)。多くの豚がおぼれて死にました。それは大きな損失であったということもあるでしょう。しかし、彼らはそれ以上に、イエス・キリストという存在が彼らの地に大きな力が変化をもたらすことを予感したのです。彼らはそれを恐れたのです。村が変わってしまう。人が変わってしまう。基本的に人間は変わりたくないのです。そのままでいたいのです。それゆえに、自分たちが変わることよりも、キリストを遠ざける方を選んだのです。

味方となってくださる方
 そのことを考えますとき、この汚れた霊に取りつかれた人が遠くから走り寄ってきたことの大きな意味も見えてくるのです。確かに、この人は苦しんできました。自分で自分を治めることができないことを嫌というほど味わい知ってきました。しかし、そのことのゆえに彼はイエス様のもとに駆け寄ったのです。イエス様の声を聞くならば「かまわないでくれ」と答えてしまうような内なる声を宿しながらも、それでもなおその人は救い主の前にひれ伏さざるを得なくなっていたのです。そして、そこに既に救いは始まっていたのです。

 この箇所を読みますときにふとAA(アルコホーリックス・アノニマス)のことを思い起こしました。アルコール依存症の方々の回復のための自助グループです。頌栄教会も二つのグループの会場となっています。AAには回復のための12ステップと呼ばれるものがあります。その最初の二つはこのように書かれています。①私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。②自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。――ある意味では、イエス様の御前でこの人の内に起こったことは、まさにそういうことなのです。徹底的に自分の無力さを知った者が、より大きな力を持つ御方の御前に出る。そこにこそ救いの始まりがあるのです。

 そして、そのような人に対して、イエス様ははっきりと味方としてかかわられたのです。イエス様は言われました。「汚れた霊、この人から出て行け」と。あくまでもこの人の側に立って、この人の味方として、汚れた霊に命じてくださったのです。この人の味方として、汚れた霊と自ら戦ってくださったのです。これまで迷惑をかけるこの男を鎖で縛り付けようとする人はいくらでもいました。足枷をはめようとする人はいくらでもいました。しかし、そのように本当の意味で味方になってくれる人なんてどこにもいなかったのです。自分自身でさえ、自分の味方になれなかったのですから。しかし、イエス様は違っていました。主は彼の味方として悪霊に命じてくださいました。

 ここに教会の姿を見ることができます。教会とは、自分で自分を救うことができないことを知った者が、救い主のもとに駆け寄る場所です。私たちが主のもとに集まり礼拝しているとはそういうことです。だから私たちには希望があります。私たちは、もう一人で格闘する必要はないのです。どうにもならない自分と格闘し、破れ、嘆き、自分を打ちたたき、自分を傷つけ、自分を痛めつけながら生きる必要はないのです。イエス様が来てくださいました。神の国は近づきました。解き放つ力をお持ちの方が私たちの味方となってくださいます。私たちと真実に向き合い、私たちに関わり続けてくださるのです。その御方が、最終的に私たちを完全に救ってくださいます。私たちはその御方に自分をゆだねることができるのです。そこに私たちの希望があるのです。

2014年6月22日日曜日

「心を合わせて祈るとき」

2014年6月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章13節~31節


人からか神からか
 今日の聖書箇所の前半は、ペトロとヨハネが議会で尋問を受けている場面です。彼らが投獄されたことについては、この章のはじめに次のように記されています。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」(1‐3節)。

 そこで翌日、彼らは引き出されて尋問を受けることとなりました。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(5‐7節)。そこで、「ペトロは聖霊に満たされて言った」とあるように、答弁を始めるという流れです。今日はその部分には触れませんが、結果的には、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)ということとなりました。

 さて、「ペトロとヨハネの大胆な態度」とありますが、私たちは今読んでいる使徒言行録がルカによる福音書に続く二巻目であることを思い起こさねばなりません。そして、6節の「大祭司アンナスとカイアファ」は一巻目のルカによる福音書にも出てきたことを思い出す必要があります。それはイエス・キリストが捕らえられた場面です。主がまず連れて行かれたのは大祭司の家だったのです。

 あの時、ペトロは遠く離れて後からついていったのでした。彼が中庭にまで入っていった時、ある女中が目にして「この人も一緒にいました」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまうのです。三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。そして、次のように書かれています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)。

 これが生来のペトロでした。しかし、今日の箇所に出て来るペトロは明らかに違います。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペトロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19節)。

 あの時とこの時の間に何が起こったのか。それはイエス・キリストの十字架刑とキリストの復活。そして、聖霊の降臨です。ここに見るのは「聖霊に満たされた」ペトロの姿なのです。それはペトロが「もっと強くならねば」と思って努力して強い人間になったということではないのです。

 そして、「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」と書かれています。無学な者というのは、律法の専門教育を受けてはいないということです。普通の人というのは、無資格の者ということです。つまり彼らが見たのは、この世の教育や資格に由来するものではなかったというおとです。また、人間の能力や経験に由来するものでもなかったということです。

 それは既にキリストが言っておられたことでした。主はかつて弟子たちにこう言っておられたのです。「…人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12‐15)。そのように、彼らが耳にしたのは人からの知恵や知識ではなく神からの知恵であり知識だったのです。

 さて、この箇所を読みます時に、私たちは教会としても、また個々の信仰者としても一つの問いを突きつけられているように思います。私たちが見たいと思うのは、神のために一生懸命行った私たちの業でしょうか。それとも、私たちを通して実現される神の御業でしょうか。人間に由来するものでしょうか。それとも神に由来するものでしょうか。私たちが願っているのはどちらでしょう。それは私たちが神のために何かを成し遂げることですか。それとも、神が私たちを通して何かを成し遂げてくださることでしょうか。

皆、聖霊に満たされて
 もし教会の歩みにおいても私たちの人生においても神の御業を見たいと思うなら、決定的に重要なことは「わたしが、わたしが」と言って「わたし」が満ちていることではなくて、ペトロがそうであったように、「聖霊に満たされて」いることなのでしょう。そして、今日の聖書箇所は、ペトロだけではなく、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(31節)と締めくくられているのです。

 そこに書かれている「皆」というのは、ペトロとヨハネが釈放された後に向かった仲間たちです。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)と書かれているとおりです。

 それを聞いた彼らはどうしたでしょうか。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」(24節)。すなわち、彼らは祈ったのです。心を一つにして祈ったのです。そのような彼らが聖霊に満たされたのです。そして、ペトロと同じように大胆に御言葉を語る者とされたのです。

 祈るとはどういうことか。今日の聖書箇所ははっきりと私たちに示しています。彼らはこのように祈り始めました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。このように祈りとは、まず神へと目を転じることから始まります。

 現実には彼らは大きな問題に直面していたのでしょう。ペトロとヨハネが捕らえられて脅迫されたということは、すなわち彼らもまた脅迫の対象であるということです。ユダヤ人当局がペトロとヨハネに対して「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」ということならば、当然、教会もまたその規制の対象となるのでしょう。それは誕生したばかりの教会にとっては大きな打撃です。

 しかし、彼らは直面している問題の大きさではなく、神の偉大さに目を向けるのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方への信仰を告白したのです。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と。

 小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それが世界の全てを覆い隠して見えなくするように、私たちの直面している問題もまた目の前に置かれれば世界の全てを覆い隠します。しかし、私たちは目を転じなくてはなりません。創り主の偉大さに目を向ける時に、今まで世界の全てであるかのように思えた問題もまた、神が支配するこの世界に起こっている一つの出来事に過ぎないことを知るのです。それは決して神の御手の外に出てしまうようなことではないと知るのです。

 そして、もう一つ。彼らはこう祈っています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29‐30節)。彼らは直面している問題をそのまま単純素朴に神様に語ります。神様の前にすべてを広げるのです。「目を留めてください」と。

 その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」彼らは、脅迫されているという現状を神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありませんでした。また、「脅迫がなくなるように」と祈ったのでもありませんでした。彼らが求めたのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもなかったのです。そうではなくて、恐れを取り除かれることを願ったのです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と。

 そして、そこに神の御業が現れることを願い求めたのです。「御手を伸ばしてください」と彼らは祈ります。もちろん、実際に手を伸ばすのは彼らなのです。しかし、彼らが望んでいるのは神が手を伸ばしてくださることなのです。彼らの手を通して、神が御手を伸ばしてくださることなのです。神が彼らを用いて御業をなしてくださることなのです。「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」とはそういうことです。

 そのように、祈るとは神の御業のために自分自身を差し出すことでもあるのです。その時に、もはやそこに満ちているのは「わたしが、わたしが」と主張する「わたし」ではないのでしょう。そこに神の霊が満ちるのです。主が支配し、主が御業をなしてくださるのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。

 そのように共に祈ることを大切にしましょう。神に目を転じ、貧しい私たち自身を差し出して、私たち自身を通して神の御業が現れることを期待しましょう。そのように聖霊に満たされた教会となることを共に求めてまいりましょう。

2014年6月15日日曜日

「神の子どもとして生きる」

2014年6月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章12節~17節


肉に従って生きるのではなく
 今日の礼拝では次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12‐13)。

 「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」とは何でしょう。聖書が「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲に従って生きなければならないという、肉欲に対する義務」と言っているのではありません。もろもろの欲望に従って生きている人は、何もそれが義務だからということで、そのように生きているわけではありませんから。

 ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。信仰者となる以前の私たち、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。信仰者となって後も、古い自分は生きています。ですから同じ原理で生きようとする。ただ自分の力で神の御心に従って生きようとするのです。ですからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。

 では「肉に対する義務」でないとするならば、いったい何に対する義務なのでしょう。実は、この文は途中で終わっているのです。(パウロの手紙では時々このようなことがあります。)しかし、パウロが本来意図していた続きは明らかです。「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。そうではなく、霊に従って生きなければならないという、霊に対する義務です」。その後に霊と肉を対比して次のように語っていることからも分かります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。

 では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはさらにこう続けます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。

 キリスト者にはキリスト者としての生き方があるべきだ。それは誰でも考えることでしょう。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とは言わないでしょう。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の力を振り絞って神の御心に従って生きることでもないのです。そんなことをしたら「死にます」と彼は言うのです。これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのでしょう。人間の内にある罪の問題は、人間の頑張りではどうにもならないほど深刻なものだということが分かっているからこそ言うのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。

 大事なことは、「霊に従って生きる」ことなのです。それはすなわち、神の子どもとして生きることなのです。そのように生きてこそ、「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)と書かれていることも実現していくのです。体を通して現れる罪深い行いが絶たれるのです。それは肉によってではなく「霊によって」なのです。

霊に従って生きる
 では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。

 ここには二つの大事な認識があります。「霊に従って」生きる時に決定的に重要になるのは、この二つの認識なのです。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷になることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。

 この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては非常に身近なイメージとして捉えられたと思います。奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。

 私たちの信仰生活が、そのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かに起こり得ることでしょう。従順でないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的に救われないかもしれない。神の国にも入れてもらえないかもしれない。だから神様の言いつけを守る。従順に生きる。いつ神様に怒られるか、神様に認めてもらえるか、ビクビクしながら神様に従う。――もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。

 そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、恐ろしい神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。

 そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。

 私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと言うのです。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。

 ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。これは神の特別な恵みなのです。だから、特別な手続きによって養子とされたのです。養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、何が起こったのかを私たちは知らされているではありませんか。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださったから、私たちの罪を贖ってくださったから、だからこそ私たちは安心して養子となることができるのです。これは神がなさったことだからです。

 そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、もといた家の子どもとしての権利は完全に失いますが、同時に新しい家の権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。

 これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。

 それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですからこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。

 「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。

 このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。

 私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは肉に従って生きることになってしまうでしょう。そして、罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうことでしょう。あるいは表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するかしかないでしょう。

 その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは父を呼びながら生きていくのです。そのようにして父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、生きたらよいのです。祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。

2014年6月1日日曜日

「永遠の命とは」

2014年6月1日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~13節


永遠の命などいらない?
 ただいま唱和しました「使徒信条」の最後の言葉は「とこしえの命を信ず」でした。「とこしえの命」。今日の福音書朗読にも「永遠の命」という言葉が出てきました。ヨハネによる福音書には何度もこの言葉が出てきます。よく知られているのは3章16節でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

 イエス・キリストが来られたのは、私たちが「永遠の命」を得るためだと聖書は言います。しかし、「永遠の命などいらない」と仰る方がいました。そんなのまっぴらごめんだ、と。お分かりになりますでしょうか。その人は「永遠の命」をただ「ずっと長く生きること」と理解したのです。生きることが苦しみの連続である人にとっては、それが終わらないということは地獄以外の何ものでもないでしょう。「永遠の命」が「不死」を意味するならば、「そんなものいらない」と言う人がいても不思議ではありません。

 「不死」ではないにせよ、日本は世界一の長寿国です。様々な健康法が開発され、医学も進歩しました。昨今話題になっている再生医療が実用化するならば平均寿命は飛躍的に伸びるかもしれません。しかし、日本人は長寿であるから幸せかと問われるならば、必ずしもハイとは答えられないでしょう。明らかに、人間にとって重要なのは単に命の「長さ」ではないのです。そうではなくて命の「質」なのです。どのように生きているのか、ということなのです。

 「永遠の命」が単に「長さ」の話ならば、「そんなものいらない」となるのでしょう。しかし、聖書が「永遠の命」について語る時、それは「長さ」の問題ではないのです。それは「質」の問題なのです。どのように生きるのか。人はどのように生き得るのかということなのです。そこで心に留めたいのは、今日の福音書朗読の中で読まれたイエス様の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。

永遠の命とは神を知ること
 主はまず「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」と言われました。神を知ること。それは単に神についての知識を得ることではありません。神を知ること。それは愛と信頼における交わりです。神との交わりです。それが何を意味するのかは、この祈りそのものがよく表しています。

 これは最後の晩餐において最後に捧げられた祈りです。主は間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることを知っているのです。ですから主は祈りの中でこう言われます。「父よ、時が来ました」(1節)。それは十字架にかけられる時に他なりません。しかし、そこで主はこう続けるのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。

 これは驚くべき言葉ではありませんか。「時が来ました」。その十字架の時は、イエス様が最も惨めな姿で死んでいく時なのでしょう。しかし、イエス様にとって、それは父の栄光を現す時なのです。イエス様は父なる神への愛と信頼のゆえに、ただ父の栄光を現すことを願うのです。

 それはすなわち、自分に与えられた使命を果たすことでした。主は心の中で既に十字架にかけられた自分自身を見ています。否、既にその先を見ている。すべてを成し遂げて父のもとに帰って行く時を思いつつ祈っているのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。既に成し遂げた喜びに溢れているのです。

 十字架を前にして、しかし喜びに溢れて、愛と信頼をもって「父よ、父よ」と繰り返されるイエス様の祈りの姿。これが父を知る子の姿です。「知る」とはこういうことです。単なる知識ではありません。愛と信頼における交わりです。そのようにイエス様が見せてくださった父なる神との交わりに入れられること。そのように永遠なる神を「知る」こと。それが永遠の命だと言うのです。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

永遠の命とはイエス・キリストを知ること
 しかし、イエス様はただ「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」とは言われませんでした。続けて「あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われたのです。それはイエス様の中では切り離すことのできないことだったのです。

 イエス様は既に成し遂げられたかのように、喜びに溢れて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈りました。そして、福音書を読み進んでいきますと、その同じ言葉を人々は十字架の上から聞くことになるのです。イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。ヨハネによる福音書においては、これがイエス様の最後の言葉です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)。

 何が成し遂げられたのでしょう。「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは何なのでしょう。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となることでした。世の人の罪を代わって背負って死んでいく小羊となること、罪を贖う犠牲となることでした。何のためですか。私たちが、罪を赦された者として、神との交わりに入れられるためです。イエス様が見せてくださった父と子との交わりに、私たちもまた入れられるためだったのです。すなわち、神を知るためです。ですから、それはまた神が遣わされたイエス・キリストを知ることでもあるのです。

 そのように、人はイエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、赦された人として、永遠なる神との交わりに生きることができるのです。そのように永遠なる神を知ること。神が遣わされたイエス・キリストを知ること。それが永遠の命です。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

 そして、その命を主が与えるならば、何ものもそれを奪うことはできないのです。それはいかなるこの世の権力によっても、あるいは病によっても死によっても奪われることのない命です。なぜなら、何ものもイエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。神との交わりを奪うことはできないからです。それが「永遠の命」です。

互いの愛の完成に向かって
 そして、「永遠の命」について、さらに一つのことに目を向けたいと思います。主はこのように祈られました。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。

 既に見てきたように、イエス様は父なる神を知るということがいかなることかを地上において示してくださいました。父と子との間における愛と信頼における交わり。それはまさに永遠の命そのものでした。イエス様は永遠の命を見せてくださいました。そして、私たちをその交わりに招いてくださいました。しかし、今主は、その父と子との交わりが、私たちお互いの間にも実現するようにと祈っておられるのです。「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。しかし、それは私たちと神との関係に留まりません。私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知るということは、父と子が一つであることを知ることです。そして、父と子が一つであることを知るということは、そのように私たちもまた一つとなることでもあるのです。私たちお互いの間にも愛と信頼における交わりが実現していくことでもあるのです。私たちはその愛の完成へと向かっているのです。

 私たちが見ているのはまだ一部分でしかありません。私たちは救いについても永遠の命についても部分的に知るに過ぎません。私たちはやがて完全な救いにあずかる時が来るでしょう。私たちは既に与えられている永遠の命が何であるかをはっきりと知る時が来るでしょう。それはただ神との完全な交わりの中に入れられるということではありません。そうではなく、お互いの愛が完成する時でもあるのです。

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