2014年5月18日日曜日

「わたしにつながっていなさい」

2014年5月18日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章1節~11節


人を見ないで、イエス様を見なさい?
 私はキリスト者である両親のもとに生まれ育ちました。母の胎にいる時から教会に通っていたとも言えます。幼い頃から教会の中を走り回って育ちました。教会に集まる大人たちの姿を見て大きくなりました。そのような私が中学生から高校生になった頃、教会の人たちからしばしば聞かされた言葉がありました。「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。

 教会に行ったことのない人の中には、教会を天使のような人たちの集まりだと思っている人もいるようですが、教会の中を駆け回って育った子どもはそうは思っていません。中学生ぐらいになれば分かります。教会は必ずしも天使の集まりではない。むしろ天使から相当遠い人もけっこういたりする。分かっているのです。ですから教会の大人たちが口にする「人を見ないで、イエス様を見なさい」という言葉が大嫌いでした。どう聞いても言い訳にしか聞こえませんでしたから。「人を見てつまずいてはいけないよ」なんて言う前に、見られて大丈夫な人になるべきでしょう。「人を見ないで」なんて言わないで、まず皆さんが見られて大丈夫な人になってくださいよ。そんなことを心の中でつぶやいていたものです。

 それは生意気盛りな年頃の私が、自分自身いいかげんな生活をしていることを棚に上げて言っていたことなので、今考えるとお恥ずかしい限りなのですが、ある意味では正しいことを言っていたと思うのです。キリストを信じる信仰は生活において目に見える形を取るのであって、それを次の世代に見せることができることは大事なことなのです。パウロは言っています。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(フィリピ3:17)。少なくともパウロは「人を見てはいけないよ」などとは言いません。

 しかし、もう一方において「イエス様を見なさい」と言うこと自体は正しいことです。それは今日の福音書朗読からも分かります。イエス様は言われるのです。「わたしにつながっていなさい」(4節)。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

内実が問われる時
 今日お読みしたのは、最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。実は、最後の晩餐におけるイエス様の言葉は14章で一旦終わっているのです。「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っていますから。にもかかわらず15章にはこの「ぶどうの木のたとえ」が続きます。この話はヨハネによる福音書にしか出てきません。話の流れとしては不自然ですけれど、ヨハネとしては、やはりどうしても書かずにはいられなかったのでしょう。イエス様につながることが、どれほど大事なことかを知るゆえに。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中では一番最後に書かれたものです。紀元一世紀も終わり頃に書かれたと言われます。つまり教会が誕生してから既に60年ほどの時を経ているのです。この間に、聖霊降臨から始まった教会の爆発的な伝道の働きによって、特にパウロによる三回の伝道旅行によって、ローマ帝国におけるかなり広い地域に福音が宣べ伝えられ、教会の基礎が据えられていきました。さらにこの間に、教会の秩序、職制なども次第に整えられていったことを新約聖書の多くの書簡から読み取ることができます。教会は確かに成長していきました。

 しかし、その一方で教会にはその初期から分裂や争いがありました。間違った教えによる混乱もありました。教会が誕生して60年も経てば、イエス様の直弟子たち、復活したイエス様にお会いした人たちのほとんどはもう生きてはいません。第一世代を失う中で教会の様々な営みにおける形骸化も起こってきたことでしょう。初期にはなかったような指導者たちの腐敗や堕落も起こってきたことでしょう。そしてさらに、そこには迫害もありました。ヨハネによる福音書が書かれた頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。それはユダヤ人の迫害の対象となることを意味しただけでなく、ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象となることをも意味していました。教会は大きな試練に直面することになりました。教会は大きく揺さぶられることとなりました。そのような中で教会を去って行く人々も少なからずいたのです。

 そのように考えますと、ヨハネによる福音書が書かれた頃は、まさにキリスト者がキリスト者であることの内実を問われた時代でもあったと言えるでしょう。教会に集う人たちが、いったい何につながっているのか、いったい誰につながっているのかを問われる時代でもあったのです。だからこそヨハネは書いたのです。イエス様あの時、十字架にかかられる直前、最後の晩餐の席においてこう言われたではないか。「わたしにつながっていなさい」と。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

主につながるために
 そこで私たちは改めて、これが最後の晩餐におけるイエス様の言葉であることを意識しなくてはなりません。最後の晩餐と言えば、すぐに思い起こされるのは聖餐式でしょう。聖餐式の時には、最後の晩餐においてイエス様がなさったことと語られたことがいつも読み上げられます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:23‐26)。

 私たちの行っている聖餐式、さらには聖餐卓を中心において行っている礼拝は、この主の制定の言葉に基づいて行っているのです。代々の教会は、この主の言葉に基づいて、パンを裂き、杯を飲んできたのです。しかし、ヨハネによる福音書の最後の晩餐の部分を読んでみてください。このイエス様の言葉は書かれていないのです。代わりに何が書かれていますか。イエス様が弟子たちの足を洗った話です。そして、イエス様の長い説話です。

 イエス様が言われた「これはあなたがたのためのわたしの体である」という言葉は恐らく誰でも知っていた言葉なのです。しかし、ヨハネはここで、聖餐の起源となる言葉ではなく、いわばその意味を伝えようとしているのです。イエス様が語られた多くの言葉をもう一度書き記しながら、私たちが何のために集められているのかを再確認しようとしているのです。その中に今日お読みした言葉もあるのです。「わたしにつながっていなさい」と最後の晩餐の時に主は言われた。そのように、今、主は「わたしにつながっていなさい」と言って、主は聖餐卓のまわりに私たちを集めてくださるのです。主は「わたしにつながっていなさい」と言って、「主の死が告げ知らされる」場所に集めていてくださるのです。罪の赦しの十字架が語られる場所に集めていてくださるのです。

豊かな実を結ぶ
 「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。そのような言葉が言い訳として使われるならば確かにそれは間違いです。しかし、「人を見てつまずいてはいけないよ」という言葉そのものは間違ってはいません。人を見てつまずくのは、そこに信仰の実りが見られないと思えるからでしょう。しかし、実りを判断するのは私たちのすることではありません。イエス様は「わたしの父は農夫である」と言われます。実りを判断するのは農夫である父がすることです。他の枝に実が見られないからと言って、自分が幹から離れてしまうというのは、考えてみればおかしな話です。大事なことは他の人に信仰の実りを求めることではなくて、自分が実を結ぶことなのでしょう。

 ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会はどうだったのでしょう。そこには混乱もあったでしょう。堕落も見られたことでしょう。つながっているように見えながら実を結ばない、形だけになった様々な営みもあったことでしょう。教会が様々な試練によって揺さぶられる時、教会から離れて行った人たちもあったことでしょう。しかし、それらすべてについて判断するのは農夫のすることです。自分の実りについてすら、判断するのは農夫のすることであって、私たち自身のすることではありません。主はただ「わたしにつながっていなさい」と主は言っておられるのです。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と励ましていてくださるのです。

 私たちが考えなくてはならないのは他者の実りのことではありません。自分の実りのことですらありません。そうではなくて、つながっていることです。枝は自分で実を結ぶことはできないのですから。イエス様も言っておられます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と。

 「わたしにつながっていなさい」。イエス様につながっていることをひたすら求めていったらよいのです。そのためにイエス様が集めてくださっている場所を大切にしたらよいのです。福音が語られている場所を大切にしたらよいのです。主が「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」と言って分け与えてくださるパンと杯を大切にしてそれにあずかったらよいのです。実は命によって結ばれます。命が通うならば自ずと実は結ばれます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」これが私たちに与えられている主の約束です。

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