2014年5月11日日曜日

「私たちに求められていること」

2014年5月11日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 13章31節~35節


今や、栄光を受けた
 今日の福音書朗読は、最後の晩餐の部屋からユダが出て行ったという場面です。その直前にはイエス様がユダにパン切れを渡して、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われたことが書かれていました(27節)。ユダがしようとしていたこと、それはイエスを裏切ってユダヤ人たちに引き渡すことでした。「この御方は私が裏切ろうとしていることを知っている」――ユダにははっきり分かったと思います。そう、ユダとイエス様だけが知っていた。他の弟子たちには何のことか分かりませんでした。「祭りに必要な物を買いなさい」と言われたのだと思った人がいました。貧しい人に何か施すようにと言われたのだと思った人もいました。ただユダとイエス様だけが知っていました。そして、ユダは出て行きました。

 そこでイエス様は言われたのです。「今や、人の子は栄光を受けた」。――いや、それはおかしいでしょう。イエス様はこう言うべきではありませんか。「今や、人の子は辱めを受けた」。信頼していた弟子に裏切られたのですから。ユダが出て行ったことで、ちょうど時限爆弾のスイッチが入れられたように、確実に十字架刑に向かって時計の針は動き始めていたのです。それゆえにまもなく自分が捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられることも、イエス様には分かっていたのです。

 しかし、そこでイエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われたのです。いや、それだけではありません。「神も人の子によって栄光をお受けになった」というのです。神の遣わされた独り子が裏切られるならば、神御自身も侮辱を受けたことになるではありませんか。御子は人間によって有罪とされるのです。御子が人間によって鞭打たれてボロボロにされるのです。十字架につけられて殺されるのです。それは神御自身が人間によって辱めを受けることではありませんか。ユダが出て行った。今やそうなることが決定的になったのです。しかし、イエス様は言われたのです。「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。

 いったい栄光とは何なのでしょう。イエス様が「栄光」と呼んでおられるものについては、少なくとも一つのことがはっきりしています。それは人間から何を受けるかということとは関係ないということです。この世から何を受けるかということとは全く関係ないということです。人間から裏切りを受けようが、侮辱を受けようが、どう扱われようが、全く関係ないということです。

 むしろイエス様が言われる「栄光」は、何を受けたかではなくて何を与えたかに関わっています。それは愛であり命です。イエス様は愛するために来られたのです。イエス様の命は愛のゆえに与えるための命だったのです。イエス様は後にこう言っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。まさにその愛が実現する時、それが十字架にかかられる時なのです。だからそれは栄光の時なのです。なぜならそれは愛が全うされる時だからです。

 それは父なる神においてもそうなのです。神は独り子をこの世に遣わされました。それは神の愛のゆえでした。その愛は、一方において人間によって踏みにじられたと言えます。そうです、人間は神の愛を踏みにじったのです。しかし、それでも神は栄光を受けられたのです。神の愛の計画は全うされたからです。御子において全うされたからです。人間が侮辱しようが、十字架にかけて殺そうが、神の愛の業は全うされたのです。神の愛は貫かれたのです。御子によって御父が栄光を受けることを人間はいかなる仕方においても妨げることはできませんでした。御子によって神は栄光を受けられたのです。

 改めて思います。私たちが日頃「栄光」と呼んでいるものとはいったい何なのでしょう。人間が必死に求めてきた「栄光」とは何なのでしょう。十字架の時の到来において、イエス様は宣言されたのです。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と。それはこの世から何を受けるかということとは全く関係ありませんでした。誰からどういう扱いを受けようが全く関係ありませんでした。それはただ愛することのみと関わっていたのです。命を与えることのみと関わっていたのです。

互いに愛し合いなさい
 そして、そのように十字架へと向かわれる主がこう言われたのです。そのように愛を全うして父のもとに帰ろうとしている主がこう言われたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。

 本日の第一朗読でこのような言葉が読まれました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)。隣人を愛すること、それは古くから伝えられてきた主の命令です。しかし、主は弟子たちに「新しい掟」を与えられます。その新しさとは、キリストがしてくださったことによる新しさです。神が御子を通して実現してくださったことによる新しさです。すなわち、既に見てきたように、御子を通して神が御自身の愛を完全に現してくださったということです。

 主はもはや「自分自身を愛するように」とは言われません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。主が言っておられるのは十字架の愛です。命を捨てる愛です。しかし、ここである変換が起こっています。主は「わたしが命を捨てたように、互いに命を捨てなさい」という意味で言っておられるのではないのです。原文では「わたしがあなたがたを愛したように」とは一回限り決定的に起こったこととして表現されています。それに対して、「互いに愛し合いなさい」は継続的なこととして表現されているのです。

 イエス様が私たちを愛してくださいました。それは一回限りの決定的な出来事として起こりました。私たちの罪の贖いのために命を捨ててくださいました。そのように愛しなさいと言われます。しかし、私たちはイエス様が命を捨てたのと同じ意味において命を捨てることはできません。私たちはいかなる意味においても誰か他の人の罪の贖いとして自分の命を差し出すことはできません。イエス様は命を捨ててくださいました。その事実を私たちの内において変換しなくてはなりません。ただ一度決定的な仕方で起こったことを、私たちの毎日の事柄に、継続的な事柄に変換しなくてはなりません。私たちは命の捨て方ではなくて、命の用い方、日々繰り返される命の与え方を見出さねばならないのです。

 そのように「互いに愛し合いなさい」と主は言われます。「互いに」という言葉は、自分以外に誰か少なくとも一人共に存在していることを前提としています。自分一人では「互いに」は成り立ちません。誰かが他にいるということです。その他にいる「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちは往々にして他にいる「誰か」を見る時に、何かを求める対象としてしか見ていません。自分に与えてくれる人。自分を愛してくれる人。自分を守ってくれる人。自分を幸せにしてくれる人。親にしても、子どもにしても、夫にしても、妻にしても、友人にしても、コンビニの店員にしても、私たちは誰かがそこにいるならば、何らかの要求をもってその人を見ているものです。「わたしの望んでいるもの、与えてよ。わたしの願っているようにしてよ」。そして、しばしば要求が満たされない。欲しいものが与えられない。すると腹が立つ。怒りが起こる。そうやって争いが起こります。そうしている限り「互いに愛し合う」ということは起こりません。

 自分の他に誰かがいる。その「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちが何かを要求するためではなく、私たちが愛することができるようにと、神はその人を共に置かれたのです。私たちが命を与えることができるように、神はその「誰か」を与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉が実現するために、「互い」が存在しているのです。

 そして、既にお気づきのことと思いますが、この「互いに」が第一に意味しているのは、親子でもなければ、友人関係でもなければ、店員さんと客との関係でもありません。それは教会です。主は言われました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。牧師と信徒との関係においても、信徒同志の関係においても、教会の「お互い」をただ要求の対象としか見ていないならば、そこからは欲求不満と怒りと争いしか生まれてきません。そのようにしている限り「互いに愛し合う」ということは起こらないでしょう。

 弟子たちはイエス様によって集められました。そのようにして、彼らは互いのために命を与える機会を与えられたのです。互いを愛する機会を与えられたのです。仕える機会を与えられたのです。時には赦しを与えなくてはならない。そのような機会を与えられたのです。イエス様はあえて互いに異なる人々を集められました。そこには漁師もいれば徴税人もいれば熱心党出身者もいたのです。お互いが違えば違うほど、与える機会は多くなります。仕える機会も多くなります。赦し合う機会も多くなるでしょう。そのようにして命を与える機会は多くなるのです。そのように弟子たちはイエス様のもとに集められました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が目に見える形で実現するためでした。

 そのように私たちもここに集められております。主は私たちにも言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そして、さらに言われます。「 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。これが私たちに求められていることです。

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