2014年5月4日日曜日

「命を捨てるほどの愛」

2014年5月4日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 10章7節~18節


羊を知っている羊飼い
 イエス様は言われます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(14‐15節)。

 イエス様がなぜこのようなことを言われたのか。それはもう一方に羊飼いならぬ「盗人」がいるからです。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(10節)。この「盗人」が何を指すのかは定かではありません。偽メシアと考える人もいますし、ユダヤの権力者を考える人もいます。いずれにせよ、それは羊を滅ぼそうとする力です。そのように、人を苦しめ、神から引き離し、滅ぼそうとする力は形を変えて常にこの世界に働いています。そのような中に羊である信仰者は生きているのです。

 羊であるということは無力だということでもあります。だから不安や恐れを覚えざるを得ない。実際に私たち自身もそうでしょう。何か大きな力が働いたら、大きな苦しみが襲ったら、あるいは大きな力による迫害にあったら、自分は簡単に神から引き離されてしまうのではないか。自分の信仰など簡単に失われてしまうのではないか、と。しかし、そのような私たちに主は言われるのです。「わたしは良い羊飼いである」。

 「良い羊飼」。それは羊を知っている羊飼いです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。

 羊飼いは羊と共に生活をしていました。羊の一匹一匹に名前をつけて養っていたと言います。今日の朗読箇所には入っていませんでしたが、3節には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれています。私たちから見ると羊は皆同じように見えますが、羊飼いは羊の一匹一匹を見分けることができるのです。羊飼いにとって羊たちは、あくまでも単なる《羊の群れ》ではなく、一匹の羊が他の羊の代わりには絶対になれない、それぞれかけがえのない羊なのです。

 イエス様が、「わたしは良い羊飼いである」と言われたとき、念頭に置いておられたのは、そのような羊飼いと羊の関係です。羊飼いが羊を知っていると言う場合、それは羊について知っているという意味ではありません。個々の羊を知っているということです。イエス様は、私を知っておられ、あなたを知っておられるのです。

 実際、イエス様と弟子たちの物語は、イエス様の言葉が真実であることを証しています。確かにイエス様は彼らのことを知っておられました。彼らの内側に潜んでいる弱さや罪深さまでも知っていました。弟子たちが自分を知る以上に、イエス様の方が彼らのことを知っていました。やがて弟子たちが御自分を見捨てて逃げ去っていくことまでイエス様は知っていました。ペトロが御自分を三度否むであろうことまでも知っておられました。ペトロも弟子たちも、自分で自分のことが分かっていませんでした。しかし、弟子たちはやがて、イエス様に《知られていたこと》を知ることになるのです。

 「わたしは良い羊飼いである」と主は言われます。主は羊飼いとして、私たちを知っていてくださいます。主に背いてきた私たちの罪も、私たちが決して外に現そうとしない、内に秘められた弱さも、主は知っておられます。

羊のために命を捨てる羊飼い
 そのように御自分の羊を知り尽くした上で、主はさらに言われるのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。「良い羊飼い」は羊を知っているだけでなく、羊のために命を捨てる羊飼いです。

 羊飼いが羊を守るために命を捨てるとするならば、それは羊を愛しているからです。羊が自分の命よりも大事だからです。「わたしは良い羊のために命を捨てる」と言っているのではありません。良いのは羊飼いであって羊ではありません。イエス様は、やがて御自分を見捨てて逃げていくような、そんな弟子たちを前にして、この言葉を語られたのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。

 「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人が一人でもいますでしょうか。もしかしたら、いるかもしれません。いたらそれは幸せな人です。しかし、人間の愛にはやはり限界があります。あなたのすべてを知り尽くした上で、あなたが内に秘めている弱さも、表には現われていない諸々の罪も、すべてを知り尽くした上で、なお「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人となると、どうでしょう。自分のことを考えると、「それはありえないだろう」と言わざるを得ない。

 しかし、イエス様はそのあり得ないようなことを語っておられるのです。やがて弟子たちは知ることになるのです。十字架にかけられたイエス様を目の当たりにして、一つの事実を知ることになるのです。あの御方は、私たちの弱さをご存知だった。私たちがあの御方を見捨てて逃げ去ることもご存知だった。結局は我が身のことしか考えない者であることもご存知だった。しかし、そんな私たちのためにあの御方は命を捨ててくださった。「わたしの羊たちよ、お前たちはわたしの命より大事なのだ」と、あの御方は本気でそう言っておられたのだ、と。

 そのことが、ヨハネの手紙にはこう表現されています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3:16)。そこまで愛してくださった方が、復活して、今も生きておられて、永遠に良き羊飼いでいてくださる。世々の教会はそのことを信じ、宣べ伝えてきたのです。だから今日もなお、この言葉が礼拝の中で朗読されているのです。

 イエス様は、私たちを知っていてくださいます。ここにいる私たち一人ひとりを、その弱さも、その罪も、何もかも知り尽くしておられます。その御方はまた、私たちの罪を贖うために、私たちを救うために命を捨ててくださった御方です。その御方が、今日も私たちに言っておられます。「わたしは良い羊飼いである」と。

 ならばもはや恐れる必要はありません。弱い羊であっても恐れる必要はありません。人を苦しめ、神から引き離し、滅ぼそうとする力が形を変えて常にこの世界に働いていたとしても恐れる必要はありません。良い羊飼いがいてくださるからです。

囲いの外に向かう羊飼い
 そして、私たちはその「良い羊飼い」がさらにこのように言われるのを耳にします。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)

 イエス様は、既に集められている羊の群れだけでなく、囲いの外の広い世界のことを考えておられます。主はまだ囲いに入っていないほかの羊のことを考えておられます。主は「その羊をも導かなければならない」と言われるのです。それゆえに、羊飼いは囲いの外の羊を求めて出て行かれます。御自分の羊を捜し求めて出て行かれます。羊飼いは羊を呼び求めて声を上げます。そして、羊はその声を聞き分けて、羊飼いのもとに集まってくるのです。

 それがこの二千年間、世界の歴史の中に起こってきたことでした。羊飼いであるイエス様の声が、今や全世界に響き渡っているのです。そして、羊の群れは全世界に広がる群れとなりました。だからこの国にも教会があるのです。だから私たちも今ここにいるのです。

 考えてみてください。私たちはもともと囲いの外にいた羊でした。囲いの外をさまよっていた者でした。しかし、私たちの耳に、キリストの呼び声が届いたのです。私たちを捜し求めるキリストの呼び声が聞こえてきました。皆さんは、御自分の意志で教会に足を運んだと思っておられるかもしれません。御自分の決断によって求道し、洗礼を受けたと思っておられるかもしれません。しかし、それは伝えてくれた誰かがいたから実現したことなのです。すなわち、その前にキリストが私たちを呼び続けておられたのです。この日本にも、キリストの呼び声が響き渡っていたのです。そして、その声を耳にした時、私たちの魂がその声を聞き分けたのです。懐かしい声、私を愛してくださる御方の声、良き羊飼いの声――その声を聞いて、その声に導かれて、私たちは羊飼いのもとにやって来たのです。

 そのような私たちにイエス様は言ってくださいました。「あなたは囲いの中にいなかったけれど、あなたは確かに私の羊です。私はあなたを知っています。あなたのすべてを知っています。そして、私はあなたのために命を捨てました。私はあなたに永遠の命を与えます。あなたは決して滅びない。だれもあなたをわたしの手から奪うことはできません」と。だから、私たちはイエス様のもとにあって、イエス様の羊として主と共に永遠に生きるのです。

 そして、イエス様は私たちにも改めてこう言われるのです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」。私たちは、そのようなイエス様の後に従うのです。今度は私たちがこの世にあって、羊飼いの呼び声になるのです。私たちが伝道するとはそういうことです。羊飼いの呼び声になるのです。また誰かが、良い羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いのもとに来るためです。「こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)のです。

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