2014年4月27日日曜日

「あなたは宝を宿す土の器です」

2014年4月27日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7節~18節


宝を宿す土の器
 私たちは宝を内に宿す土の器です。本日の第二朗読において次のような言葉が読まれました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)。

 わたしたちは「土の器」です。それが意味するのは弱さであり脆さです。最終的には壊れてしまう。それが土の器です。土の器であることを意識するのは、特に苦しみの中に置かれた時でしょう。困難の中に置かれた時です。強さを要求される時です。強さを要求される時、人はまた自らの弱さや脆さをも知ることになります。

 しかし、単なる土の器ではありません。宝を内に宿す土の器です。宝とは何か。イエス・キリストです。この直前にパウロはこう言っています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)。宣べ伝えるパウロ自身は土の器です。彼はそのことを良く知っているのです。しかし、彼は宝を内に持っています。宣べ伝えられるのは器ではなく宝の方です。それはイエス・キリストです。

 先週、私たちは復活祭を共に祝いました。そこにおいて読まれたのは、主が十字架につけられて三日目の朝の出来事を伝える聖書箇所でした。あの朝、三人の婦人たちが墓に向かいました。イエスの遺体に香油を塗るためでした。しかし、墓に着いた時、墓を塞ぐ石は取りのけられていました。そして、中にいた白い衣を着た若者がこう言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)。

 「十字架につけられたナザレのイエス」。その御方は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったキリストです。私たちの罪が赦されるために、贖いの犠牲として死んでくださったキリストです。その御方が復活なさったのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。あの方は墓の中にはおられない。復活して永遠に生きておられる救い主です。その御方こそ、今日に至るまで宣べ伝えられてきたイエス・キリストです。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とパウロが言っていたイエス・キリストです。

 しかし、イエス・キリストが宣べ伝えられるということは、ただキリストについての知識が伝えられるということではありません。私たちは、あの御方が私たちに代わって十字架についてくださったという知識を内に宿すだけではありません。聖霊のお働きによって復活されたイエス・キリスト御自身が宿ってくださるのです。パウロは別の手紙で次のように語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。今日の朗読箇所においても「イエスの命がこの体に現れる」「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」という表現が出てきます。

 私たちが単にキリストについての知識を持つだけならば、教会はキリストについての知識を与える学校のようなものでしかありません。しかし、教会は聖霊降臨によって誕生したのです。私たちの内には神の霊が生きて働いておられるのです。聖霊のお働きによってキリストが私たちに宿ってくださるのです。そして、キリストが私たちのこの体を通して生きて働かれるのです。教会という共同体を通してキリストが働かれるのです。それゆえに私たちは「キリストの体」とも呼ばれているのです。

 その私たち自身は土の器です。先ほど申しましたように、土の器であることを意識するのは、特に苦しみの中に置かれた時です。困難の中に置かれた時です。しかし、そこで私たちは自分の弱さや脆さに意識を留めてはならないのです。自分が土の器であることに目を向け続けていてはならないのです。キリストという宝が土の器に宿ってくださるのは何のためなのか。4章7節をもう一度お読みします。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。

 そうです。それは「並外れて偉大な力が神のもの」であることが明らかになるためなのです。私たちから出たのではないことが明らかになるためなのです。キリストが私たちの内に、私たちを通して働かれます。それは神の力によるのです。私たちの人生は、私たちを通してキリストが働かれる舞台となるのです。神の並外れて偉大な力が現れるための舞台となるのです。

 ならば私たちは、自分の弱さや脆さから目を転じなくてはなりません。土の器のあちらこちらが欠け始めて、壊れつつある現実にばかり目を向けていてはなりません。そこから目を転じなくてはなりません。私たちを通して働かれる神の並外れて偉大な力に、期待の目を向けなくてはならないのです。

イエスの命が現れるために
 その意味において、ここにパウロ自身の経験が記されていることは、私たちが期待の目を神の御業に向けるための大きな助けとなります。彼は言います。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8)。

 伝道者として彼がどれほどの苦難に遭ってきたか。それは恐らく私たちの想像を絶するものでしょう。「四方から苦しめられても」と彼は言います。この手紙の後の方で彼は次のように書いています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(11:24‐27)。しかし、彼は行き詰まることはありませんでした。

 それだけではありません。「途方に暮れても」と彼は言います。先ほど引用した聖書箇所はこう続きます。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(同28‐29節)。外側からの迫害だけではありません。教会内の混乱。だれかが弱っている時に助ける術が見つからず、一緒に弱るしかないもどかしさ。途方に暮れざるを得ないことはいくらでもあったに違いない。しかし、かれは望みを失うことはなかったのです。

 それはなぜか。土の器に宝を宿しているからです。キリストが生きておられるからです。ならばイエスの命が現れてくるのです。苦しみが深くなり、キリストの十字架の苦しみ、そして死と一つになればなるほど、復活の命も現れてくるのです。それをパウロは次のように書いています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10‐11節)。

 そしてパウロはこれを自分一人の特殊な体験として語っているのではありません。あくまでも「わたしたち」と彼は語ります。それは同労の伝道者たちを念頭に置いてとも言えますし、さらには同じように土の器に宝を宿している人すべてに共通することであるとも言えます。キリストがおられるならば、その復活の命は神の偉大な力として現れてくるのです。そこでは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」ということが起こってくるのです。

 もちろん、私たちが置かれている状況はパウロの置かれている状況とは異なります。しかし、私たちは私たちとして「四方から苦しめられる」ということもあるのでしょう。「途方に暮れる」こともあるのでしょう。「虐げられる」ことも「打ち倒される」こともあるのでしょう。しかし、その時こそ私たちはイエスの命が、復活の命が、豊かに現れることを期待すべきなのでしょう。私たちは行き詰まることはありません。望みを失うことはありません。見捨てられることはありません。滅びることはありません。それはイエスの命が豊かに現れる時に他ならないのです。

 そして、最後にもう一つのことに目を向けましょう。続くパウロの言葉は非常に興味深いものです。11節から続けてお読みします。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」(11‐12節)。

 先ほど、「その時こそ私たちはイエスの命が、復活の命が、豊かに現れることを期待すべき」と言いました。しかし、イエスの命が現れるのは、それはただ私たち自身のためではありません。「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」とパウロは言うのです。イエスの命が現れるのは、「あなたがた」すなわち他の人のために命が働くためなのです。私たちの信仰生活は他の人のためにあるのです。他の人にイエスの命が働くためなのです。

 ですから、パウロは土の器に宿した宝をただ自分の内に留めてはおかないのです。パウロが言っていた言葉を思い起こしてください。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)。これはただパウロなどの伝道者だけの話ではありません。土の器に宝を宿す全ての人に言えることです。

 「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになる」のは特にどのような時なのでしょう。イエスの命が他の人に働くのを見るのはどのような時なのでしょう。それは福音を伝える時ではありませんか。土の器に過ぎない私たちが、他の人の救いのために用いられる時ではありませんか。

 私たちはその意味においても、土の器である私たちを通して神の御業が現れることを期待しましょう。イエスの命が現れて生き生きと働かれることを期待しようではありませんか。私たちは宝を宿す土の器なのですから。

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