2014年4月20日日曜日

「新しい命に生きるため」

2014年4月20日  イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 16章1節~8節

    ローマの信徒への手紙 6章3節~11節

あの方はここにはおられない
 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。イエス様が葬られているはずの墓に向かった婦人たちが、そこで耳にした言葉です。

 「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが…」。そうです。そのとおりです。彼女たちが求めていたのは、「十字架につけられたナザレのイエス」でした。遺体として墓に納められているはずのナザレのイエスでした。彼女たちは、死んだイエスに会うために墓に来たのです。彼女たちの手にあったのは香料と香油でした。それは十字架につけられて死んでしまったイエスの遺体に塗るためのものでした。

 イエス様が処刑された日は金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。なんとか安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりません。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤ出身の議員であったヨセフという人が遺体の引き取りを願い出て、岩に掘られた墓に主の遺体を葬ることになりました。しかし、時間切れです。とりあえず亜麻布を買って遺体を包み、墓に納めるところまでは済ませませしたが、香油や香料を塗る時間はありませんでした。マグダラのマリアとヨセの母マリアは心を痛め、安息日が明けたら香油を塗って遺体の処置をしたいと願って遺体が納められた墓を見つめていたのです。

 日曜日の朝、墓に向かっていた彼女たちは生前のイエスを思い起こしていたことでしょう。あの御方の語られた言葉。あの御方のなされた愛の業。あの御方は死んで過去の人になってしまったけれど、その生き様と教えとは今も心の中に生きている。あの御方は過去の人になってしまったけれども、これからもその教えに従って生きていきましょう。そのような決意を胸に墓に向かったのかもしれません。これからもあの方が納められている墓を度々訪れましょう。そこであの方のことを思い起こし、その教えを決して忘れないようにしましょう、と。

 しかし、あの婦人たちが墓に着いた時、そこに遺体となったイエス様はいなかったのです。過去の人となったナザレのイエスはいなかったのです。そこで彼女たちが聞いたのはこのような言葉だったのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。あの方はここにはおられない。墓の中にはおられない。死者の中にはおられない。そこから歩み出してしまった。復活したイエス・キリストは死の扉を打ち破って永遠に生きておられる。これが今日お読みした福音書が伝えていることです。

 ですから、教会は決してイエスを過去の人のひとりとして伝えてこなかったのです。今日、はじめて教会に来られた方もあるかもしれません。教会へようこそ!せっかくですからどうぞ心に留めてください。教会はイエス・キリストについて、「あの方は死んだけれどもその教えは今も生きている」というようには伝えてこなかったのです。そうではなくて、「主はよみがえられた」「イエスは生きておられる」と伝えてきたのです。

 キリスト教の歴史における最古の信仰告白の言葉は「イエスは主である」(1コリント12:3)だと言われます。「イエスは主であった」ではないのです。あくまでも「イエスは主である」。現在の主として伝えてきたのです。実際、教会の祭りとしてはクリスマスが良く知られていますが、クリスマスよりも復活を祝う「復活祭」の方がずっと古いのです。そもそも日曜日に礼拝を行うのは、それがキリスト復活の日だからです。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思ってここに集まっているのです。

私たちが新しい命に生きるため
 「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。そのようにあの御方は過去の人ではなく現在の主です。今ここにいる私たちを愛し、私たちを救ってくださる御方です。私たちが今ここに座っているということは、既に復活の主が私たちの人生に関わっていてくださるということでもあるのです。

 しかし、復活されたキリストを最も鮮やかに指し示しているのは、この後に行われる「洗礼式」であり「聖餐式」です。特に洗礼式については、今日の第二朗読において次のように語られていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(3‐4節)。

 この言葉などは、それこそキリストは生きておられるという信仰なくしてまったく意味をなさないでしょう。洗礼は何を意味しているのか。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と聖書は表現しているのです。洗礼は単なる形式的な儀式ではありません。もしそうならば遠の昔に失われてしまっていることでしょう。しかし実際には、教会は洗礼を二千年の長きに渡り、時には多くの殉教者の血が流される中、命がけで行い続けてきたのです。何のために。何のために人々は洗礼を受けてきたのでしょう。「キリスト・イエスに結ばれるため」。復活して生きておられる救い主と結ばれるためなのです。

 少し細かいことを申し上げます。「キリスト・イエスに結ばれるため」と書かれていますが、この翻訳は事柄の一面を表しているに過ぎません。原文では「キリスト・イエスの中へ」と書かれているのです。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」は、直訳するなら「キリスト・イエスの《中へ》バプテスマされた」となります。変な日本語です。しかし、この方がイメージとしては思い描きやすいかもしれません。「キリスト・イエスに結ばれる」のですが、それは「キリスト・イエスの中へ」という形でキリストに結ばれるのです。「キリスト・イエスの中へ」。そのように自分自身をいわばキリストの中に投げ込んで沈めてしまう。そのように自分自身を完全にキリストにゆだねてしまう。それがキリスト・イエスを信じる信仰です。その目に見える出来事が洗礼なのです。

 自分自身を投げ込んで完全にゆだねてしまえる。考えてみれば、それは何よりもありがたいことです。それはそうでしょう。世の中にやっかいなものは数あれど、一番やっかいなのは他ならぬ自分自身ですから。幼い子どもならいざしらず、ある程度長く生きていれば、自分が決して正しい人間でないことは分かります。自分の汚さや醜さに嫌気がさすこともあるでしょう。正しく生きようと思う人ならなおさら正しく生き得ない自分自身であることは骨身に染みて分かるものです。一生の間には幾度もそんな自分を葬ってしまいたいと思うこともあるのでしょう。

 しかし、そんな自分を丸ごとゆだねることのできる御方がいてくださる。そんな自分を丸ごと受け取ってくださる御方がいてくださる。それがイエス・キリストなのです。イエス・キリストについて、あの婦人たちが聞いた言葉はこうでした。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」。私たちが、やっかいな自分自身を安心してゆだねることができるのは、その御方が「十字架につけられたナザレのイエス」であるからです。その御方は、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったキリストです。私たちの罪を代わりに背負って死んでくださったキリストです。私たちに苦しみの源が他ならぬ私たち自身であり、私たちの罪であるならば、その私たち自身をゆだねることができるのはこの御方以外にはありません。

 このイエス・キリストの中において、イエス・キリストに起こったことが私たち自身にも起こるのです。すなわち、イエス・キリストが死んで葬られたように、私たちもまた葬られるのです。葬ってしまいたかった私たち自身の葬りが起こるのです。その意味で洗礼式は目に見ることのできる葬りの式でもあります。もちろん、葬りで終わりではありません。そこから新しく始まるのです。キリストが葬りで終わらなかったようにです。そこから新しい命に生き始める。その意味で洗礼式は目に見える復活の式であり新しい誕生の式でもあります。

 ですから、そこから新しい生活が始まります。「信仰生活」と呼ばれる新しい生活が始まります。キリストと共に生きる新しい生活が始まります。そのキリストは過去の人ではありません。教えだけが今も生きているというのではありません。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。その御方と共に生きる生活がここにあります。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思って私たちはここに集まっているのです。今、私たちがここに身を置いているのは、新しい生活の具体的な一齣に他ならないのです。

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