2014年4月6日日曜日

「何のための人生ですか」

2014年4月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章35節~45節


人の子は仕えるために来た
 今日の福音書朗読においてイエス様は御自分についてこう言っておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。

 「人の子」すなわちメシアであるイエス様ご自身は何のためにこの世に「来た」のか。何のためにこの世に生まれ、何のためにこの世に生きているのか。それは「仕えるため」だと主は言われました。それは言い換えるならば、「命を献げるため(与えるため)」だと言うのです。この「命」は「永遠の命」と言う時には使われない言葉です。「魂」とも訳されますが、この世の命のことです。イエス様にとって「仕える」ということはこの世の命を与えることに他なりませんでした。

 今日の礼拝説教には「何のための人生ですか」という題を付けました。皆さんならば何と答えますか。「何のための人生ですか」。イエス様に問うならば、御自分についてこう答えられることでしょう。「仕えるための人生です。与えるための命です」と。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 イエス様の仕え方。イエス様の命の与え方。それはイエス様に固有の事柄であって、全ての人に共通のことではありません。イエス様の仕え方。主はそれを「多くの人の身代金として自分の命を献げる(与える)」と表現しました。「身代金」は解放するために払うお金です。言い換えるならば、その人を買い戻すための代価です。

 「身代金」といいますと誘拐された人の解放を思い浮かべてしまいますが、旧約聖書に出て来るのは、例えば貧しさのゆえに身売りした人を血縁の者が買い戻すために支払う買い戻し金です。その人を買い戻すということは、その人が負っている負債を代わりに支払うということでもあります。他の訳では「あがない」あるいは「贖いの代価」などと訳されています。イエス様の仕え方。それは多くの人の負債を代わりに支払うための代価として自分の命を与えるということでした。

 「多くの人」というのはユダヤ人の表現の仕方で「すべての人」という意味です。全ての人の負債。全ての人の負い目。それは罪の負い目に他なりません。私たち全ての人が負っている罪の負い目。その全てを代わりに支払うために命を与えるということは、全ての人の罪を代わりに負って苦しみを受け、十字架の上で死なれることを意味しました。イエス様はそのためにエルサレムに向かっておられたのです。主は今日の聖書箇所の直前においてもこう言っておられます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33‐34節)。それがイエス様の仕え方、イエス様の命の与え方でした。

 それはあくまでもイエス様に固有の事柄です。私たちはイエス様と同じように罪の贖いとして自分の命を与えることはできません。私たち自身が罪人ですから。自分自身の罪をさえ贖うことはできませんから。私たちはキリストではありません。しかし、「仕える」という点においては同じです。この「仕える」ということに関して、主はあえて自分自身を指し示して語られたのです。

 主は一同を呼び寄せてこう言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42‐44節)。キリストと同じではありませんが、私たちには私たちの「仕え方」があるのです。「命の与え方」があるのです。何のための人生ですか。仕えるための人生です。与えるための命です。

あなたがたの間では
 しかし、ここでイエス様が「あなたがたの間では」と言い、「あなたがたの中で」と語っておられることは重要です。主は一般論を語っておられるのではなくて、具体的な「あなたがた」ついて語っておられるのです。その「あなたがた」はどのような人たちだったのでしょう。

 今日の聖書箇所は、その「あなたがた」がどのような人たちだったかを大変よく表している一つの出来事を伝えています。事の発端は次のとおりです。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」(35‐37節)。

 「栄光をお受けになるとき」とは直訳すると「あなたの栄光の中で」と書かれているのですが、具体的にはイエス様が王となることを指しています。彼らはやがてイエスが王となることを確信していました。だから「一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」という願いが出て来るのです。弟子たちが、そう考えたのも無理はありません。それまでに数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから。とてつもない神の力がこの御方を通して現実に働くことを目撃してきたのです。しかも、この御方の周りに集まってくる人たちは数千人規模に膨れあがっていたのです。しかもイエス様はエルサレムに向かっておられる。待ち望んでいたことがついに実現するのだ!彼らの期待はいよいよ膨らみます。

 その期待の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたのです。ヤコブとヨハネ。兄弟で王座の左右を占めることを彼らは望んだ。いや、望んだだけでなくそれを口にしたのです。直接イエス様に対して。しかも、他の弟子たちの前で。考えてみれば不思議な光景です。普通抜け駆けに関することは裏で話すのであって、表だって話はしないでしょう。しかし、ここで彼らはあえてそれをしているのです。そこに彼らの意識がよく現れています。彼らは自分たちの望みがそれなりの妥当性を持っていると確信しているのです。

 そう思わせる根拠はありました。ヤイロの娘を生き返らせた時、そこに伴うことが許されたのはペトロとヤコブとヨハネの三人だけでした(5:37)。イエス様が高い山に連れて行って御自身の姿の変容をお見せになったのもこの三人でした(9:2)。この二人が他の弟子たちと自分たちを比べてある種の優越意識を持っていたとしても不思議ではありません。あるいはこの三人の中においても互いの比較があったとも言えるでしょう。その中でペトロを出し抜くために兄弟二人が手を組んだのですから。

 このような彼らに対して、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(41節)と書かれています。そう怒ったのです。それは単に出し抜かれたことに対する怒りではありません。明らかにヤコブとヨハネが自分たちの優位を当然として語ったことに対する怒りです。それは自分たちが下に見られたことに対する怒りとも言えます。そのように怒るのは、彼らもまた同じように他者と自分を比較しながら生きているからです。実際、前の章にも「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)と書かれています。皆同じです。これがイエス様の弟子たちです。そのような姿は私たちにも覚えがあります。人を見下してみたり、人をねたんでみたり、高く見られて喜んでみたり、低く見られて腹を立てたり、それがイエス様の言っていた「あなたがた」です。

 そしてさらに考えるならば、互いの比較が起こり、優劣や上下関係が問題となるのは、そこに多様性があるからです。異なるから比較が起こるのです。ものの見方や感じ方、考え方が異なって、時として対立が生じるからこそ、そこで優劣や上下が問題になるのです。そこで「だれがいちばん偉いか」ということが議論になるのです。対立がある時には、相手を従わせたくなるからです。違いが対立を生む時には、相手を同化したくなるからです。

 確かに弟子たちの集団は雑多な人々の集まりでした。そこには漁師もいれば元徴税人もいれば、元熱心党員の者もいたのです。どう考えても一色ではありません。それは後の教会においても同じです。そこにはユダヤ人がおりギリシア人がいる。奴隷がいれば自由な身分の者もいる。男もいれば女もいるのです。それはこの世界全体の縮図であるとも言えます。それがイエス様の言っていた「あなたがた」なのです。

仕え方を探し求める
 その「あなたがた」に対してイエス様は言われたのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43‐44節)。異なる者が共にいるならば、そこには常に分裂へと向かう力が働きます。そこで互いを比較し、優劣を競い合い、それぞれが上に立というとするならば、互いを支配して同化しようとするならば、分裂に至らざるを得ないでしょう。

 しかし、本来、異なる者には異なる「仕え方」があるのです。異なる者には異なる「命の与え方」があるのです。異なる者がお互いに比較するのではなく、優劣を競うのではなく、支配しようとするのではなく、それぞれが自分たちの「仕え方」を探し求めるならば結果は違ってくるのでしょう。「命の与え方」を見つけ出すならば、結果は違ってくるではありませんか。そこでは異なる者たちが対立していた者たちが一つとなれるのでしょう。

 もちろん、そんなことはきれい事だと言う人もいるでしょう。現実離れした理想論、子どもじみたナイーブな思想だと。しかし、私たちは忘れてはなりません。先に見たように、イエス様は御自分を指し示してこれを語られたのです。いわば十字架を指し示して語っておられるのです。十字架の上で血みどろになって自分の命を注ぎだしている姿、そうやって仕える姿を指し示して語っておられるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。それはきれい事ですよ、あまりにナイーブですよ、と言いたいなら、主の十字架の前で言わなくてはなりません。言えますか。


 何のための人生ですか。仕えるための人生です。与えるための命です。「仕え方」を探し出すこと、「命の与え方」を見つけ出すことこそが人生の課題です。ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人というのはピンとこなくても、例えば若者と高齢者、病気の人と元気な人、活気を好む人と静寂を好む人、様々な異なる家庭環境、様々な政治的立場、などなど、私たちにおいても互いの違いはいくらでも挙げることができるでしょう。しばしばそこに分裂へと向かう力が働くことも事実です。しかし、大切なことは、それぞれが「仕え方」を探すことなのです。「命の与え方」を見つけ出すことです。仕えるための人生です。与えるための命です。

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