2014年3月9日日曜日

「荒れ野に追いやられたなら」

2014年3月9日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章12~15節


荒れ野に追いやられて
 去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はマルコによる福音書の当該箇所をお読みしました。マタイとルカによる各福音書には、特に悪魔から三つの誘惑を受けた話が書かれています。しかし、今日お読みしたマルコによる福音書の記述は極めてシンプルです。たった2節しかありません。神様はこの短い箇所を通して私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。

 マルコによる福音書における「荒野の誘惑」の箇所においてまず特徴的なのは「イエスを荒れ野に送り出した」という表現です。「送り出した」と訳されているこの言葉、この福音書に何度も出てきます。しかし、ほとんどの場合「追い出す」と訳されているのです。悪霊を「追い出す」という言葉です。そのような激しい言葉がイエス様について用いられているのです。イエス様は追い出されたのです。荒れ野へと。あるいは「追いやられた」と言ってもよいでしょう。ということで、今日の説教題は「荒れ野に追いやられたなら」となっています。

 「追い出す」にせよ「追いやる」にせよ、そこに表現されているのは強制です。本人の意志とは関係なくということです。そのように本人の意志や願望とは無関係にある場所に置かれることはあります。追いやられることはあります。人間の経験としては、むしろその方が多いかもしれません。しかし、その言葉がイエス様について用いられていると何かとても不思議な気がします。きっと違和感を軽減するために「送り出した」と柔らかく訳したのでしょう。

 しかし、この違和感ある言葉がイエス様について用いられていることは嬉しいことでもあります。イエス様が遠いところにではなく、私たちのすぐ側に身を置いてくださっているように思えるからです。イエス様も「追いやられた」のです。「荒れ野に追いやられたなら」という説教題、皆さんならどのように言葉を続けますか。わたしはこう続けたいと思います。「荒れ野に追いやられたなら、荒れ野に追いやられたイエス様のことを思い起こしましょう」と。

聖霊によって追いやられて
 荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、そこに様々なことが見えてきます。第一に、イエス様を荒れ野に「追いやった」のは聖霊であるということ。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)。

 「それから」と書かれていますが、これは「それからすぐに」という意味です。つまりその前に書かれている洗礼の場面と結びつけられているのです。イエス様を荒れ野に追いやった“霊”については、10節にこう書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」それは次のような天からの宣言の言葉と共に降ってきたのでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この神の愛の宣言と共に降って来た神の霊、まさに我が子を愛する父の心そのものであるとも言える神の霊が、その御子を荒れ野へと追いやったのです。

 何を意味しますか。荒れ野に追いやられることは、愛されていないことを意味しない。見捨てられているからではない。そういうことでしょう。「荒れ野」から連想されるのはいくつものネガティブな言葉です。欠乏、飢え、渇き、危険、苦痛、などなど。それらは「愛」という言葉とはどうしても結び着き難い。ですから、欠乏や苦痛の中に追いやられる時、人は神から愛されていない、見捨てられていると感じます。しかし、その時にこそイエス様を荒れ野に追いやったのは、「あなたはわたしの愛する子」と宣言された方の霊であることを思い出さねばなりません。「荒れ野に追いやられたなら」――イエス様が聖霊によって荒れ野に追いやられたことを思い起こしましょう。

サタンから誘惑を受けられて
 そして、荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、次に見えてくるのは、そこでイエス様がサタンの誘惑を受けられたということです。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(13節前半)。

 私たちが生きている限り、誘惑は避け得ません。しかし、今日の箇所では特にイエス様が荒れ野において「サタンから誘惑を受けられた」と書かれているのです。荒れ野には荒れ野ならではの誘惑が待っているということです。

 荒れ野に追いやられたという話で思い起こすのは、エジプトから脱出したイスラエルの人たちが荒れ野へと導かれた話です。彼らは自分たちの意志や願望とは無関係に、とにかく荒れ野を旅せざるを得なかったのです。イエス様が四十日間とどまったということも、イスラエルの人たちが四十年荒れ野を旅したことを思い起こさせます。

 彼らが荒れ野を通らされたのは、明らかに神から見捨てられたからではありません。彼らは神によって救われた人たちです。昼は雲の柱によって夜は火の柱によって導かれていたのです。神がそのように彼らを離れてはいないゆえに、彼らは荒れ野を旅していたのです。確かに荒れ野には欠乏があります。危険があります。苦痛があります。しかし、そこはまた神への信仰が養われ、神の恵みを知る場でもあったのです。荒れ野はまた、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ということを学ぶ場でもあったのです。それは人が真に生きるものとなるためです。

 しかし、そこにはまた誘惑もありました。私たちは彼らが荒れ野における欠乏の中で不満を抱き続け、不平を言い続けたことを知っています。人は欠乏の中にあるからこそ神に思いを向け、神の言葉を求めることもできる。しかし、もう一方において、人は欠乏の中にあるからこそ欠乏に思いを向け、神に背を向けることもできるのです。悪魔はもちろん私たちが後者となることを望んでいるのでしょう。悪魔は私たちを神から引き離すために、私たちに対する誘惑として、欠乏や苦痛や危険をいくらでも用いることができるでしょう。

 マタイとルカによる二つの福音書に書かれているサタンの誘惑は、まさにイスラエルが経験した荒れ野での出来事を思い起こさせるものでした。この福音書には書かれていませんが、他の福音書ではイエス様が四十日間断食したこと、そして空腹を覚えられたことが記されています。そこでサタンはこう言ったのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。

 そうです。空腹の時には食べ物のことしか考えられなくなる。石がパンに見えてくる。そのようにサタンが誘惑してきます。欠乏している時には欠乏が満たされることしか考えられなくなる。悩みがある時にはその悩みがどうしたら解決されるかということしか考えられなくなる。サタンの誘惑です。それゆえにイエス様はあの申命記の言葉を引用して誘惑を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4:4)と。「荒れ野に追いやられたなら」――荒れ野においてイエス様が誘惑を受けられたことを思い起こしましょう。

天使に仕えられて
 そのように誘惑を受けられたイエス様に目を向ける時、次に見えてくるのは、野獣がイエス様と共にいただけでなく、天使たちがイエス様に仕えている光景です。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節後半)。

 荒れ野には野獣がいます。危害を加える存在がいます。イエス様は野獣と共にいました。野獣と共にいるのは荒れ野に追いやられたからです。それが目に見える現実です。しかし、目に見えている現実だけが全てではありません。そこには「天使たちが仕えていた」と書かれています。それは目に見えない現実です。イエス様は野獣と一緒にいました。それは避けられないことでした。しかし、野獣はイエス様を害することができません。なぜなら目に見えない天使が仕えているからです。

 荒れ野に追いやられたなら、天使たちに取り囲まれているイエス様の姿を思い起こしましょう。天使と言っても森永のマークを思い浮かべてはなりません。聖書に出て来る天使は軍隊のイメージですから。しかし、「天使」という言葉に抵抗を覚えるようでしたら、「神のお働き」と言い換えても良いでしょう。どのように表現されるにせよ、大事なことは神がこの世界にも私たちの人生にも関わっておられ、生きて働いておられるということです。

 さて、ここまでイエス様が荒れ野に追いやられたという話を読んできましたが、考えてみれば、これはイエス様の全生涯を象徴している出来事であるとも言えます。天に属する御方がこの世に来られるとは、まさに荒れ野に身を置くことに他ならないでしょう。そこには野獣がいます。確かにいました。イエス様を断罪して十字架にかけてしまう野獣が。祭司長たち。律法学者たち。いや、すべての人間がイエス様にとっては野獣であるとも言えます。

 その野獣によってイエス様は十字架にかけられて殺されてしまいました。野獣しかいなければ、それで話は終わりです。しかし、そこには天使たちが仕えていた。言い換えるならば、神様の御業が進んでいたのです。悪魔の業を打ち砕き、野獣と化している人間を救うための御業が進んでいたのです。そして、確かに神の御業が確実に進んでいたことは、三日目に明らかにされました。

 そのような神の御業の中に私たちもいるのです。たとえ荒れ野に追いやられたとしても。たとえ荒れ野に長く身を置いていたとしても。野獣にしか目を向けられない人は気の毒な人です。荒れ野に置かれている時こそ、神の大いなる御業の中にあることに目を向けなくてはなりません。「荒れ野に追いやられたなら」――荒れ野においてイエス様が御自分に仕える天使たちに取り囲まれていたことを思い起こしましょう。

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