2014年3月2日日曜日

「向こう岸へ渡ろう」

2014年3月2日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 4章35~41節


向こう岸へ渡ろう
 「その日の夕方になって」と書かれていました。場面はガリラヤ湖畔です。その日、イエス様は集まってきたおびただしい群衆にたとえをもって神の国について教えておられました。イエス様は舟に乗って腰を下ろし、湖の上から語りかけます。群衆は皆、湖畔にいてそれを聞いていました。その日の夕方になると、イエス様は弟子たちに言われます。「向こう岸へ渡ろう」。

 暗くなってから舟を出すこと自体は珍しいことではありません。夜通し漁をすることもあるのですから。また、漁師ですから舟を出して良い日かどうかもある程度はわかります。その日、漁師としての経験からも、舟を出しても良い日と判断したのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と言っても、はるか彼方へ舟を出すわけではありません。せいぜい10キロから20キロの間です。ですからイエス様は無理な要求をしているわけではありません。

 しかし、それでもなお弟子たちにとって、心情的にはそれほど気が進まない話だったと思います。というのも、イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言って指さしていた先は、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている土地だったからです。それは異邦人が住んでいる地方です。5章を見るとその地方の人たちはどうも豚を飼っていたらしい。つまりイエス様が言う「向こう岸」とは、ユダヤ人の感覚からすると汚れた人々が汚れたことをして生活している、そのような土地だったのです。そんなところには行きたくないし、そんな人々とは関わりたくない。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

イエスを起こして
 主がそう言われるので舟を出しました。群衆を後に残し、イエス様を舟に乗せたまま彼らは漕ぎ出します。すると、やがて激しい突風に見舞われることとなりました。経験を積んだ漁師たちでも予測を誤るときがあります。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」(37節)。ちなみに「水浸し」というのは「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、ついに事態は舟が沈みそうになるほどに深刻だったのです。しかし、その嵐の中にあってイエス様は艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちはイエス様を起こして言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」これが今日の福音書朗読の前半部分です。

 おかしいと思いませんか?嵐なのにイエス様が寝ていることではありません。嵐なのでイエス様を起こした、ということです。ガリラヤ湖と舟に関して彼らは専門家なのでしょう。一方、イエス様と言えば、大工の息子ですから舟に関してはド素人ではありませんか。

 実際、彼らは起こす直前まではそう考えていたと思われます。「眠っておられた」と書かれていました。言い換えるならば、誰もそれまで起こそうとはしなかった、ということです。舟はいきなり水でいっぱいにはなりません。かき出しても水が入るから一杯になるのでしょう。彼らがなんとか舟が沈まないように努力して対処していたとき、イエス様は「眠っておられた」のです。必要ではなかった。素人ですから。嵐の中で格闘している時には、それがファリサイ派のラビであろうがナザレのイエスであろうが大差ないのです。

 ところが、この場面において彼らはそのド素人のイエス様を起こしてこう言っているのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。おかしい。そうです。ここに書かれていることは、それ自体は異常な光景なのです。

わたしたちがおぼれてもかまわないのですか
 しかし、もう一方で彼らの気持ちはよく分かります。なぜなら多かれ少なかれ私たちにも身に覚えがありますから。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのは、実際おぼれそうになったからです。長年の経験と自分たちの持っている技術と持ち前の根性で対処できていたなら、こうは言わなかったのです。おぼれそうになった時には、このようなことは起こります。

 想像してみてください。イエス様が群衆に語りかけていた時、彼らは舟の中にいたのです。一番近いところでイエス様の話を聞いていたのです。神の国の話を聞いていたのです。神の支配について聞いていた。百倍にもなる御言葉の種の話も聞いていた。(特別に解説までしてもらっていた!)そのように、神のなさることについて聞いていた。しかし、嵐の中にあっては、そんな話はどこかへ飛んでしまっています。神の話は神の話。現実は現実。今は現実の方が大事なのであって、神様関係の御方は寝ていてもらっていたほうがいい。素人は足手まといですから。

 このようなことは、私たちにもあるのでしょう。神の話は神の話。現実は現実。この大変な時に神様どころじゃないですよ。聖書や教会の話をしている時じゃないんだ!こんな時に信仰の話でもないでしょう!礼拝どころじゃないでしょう!そうやって、自分の経験や技術や根性で一生懸命に対処しようとしている時には神様のことは後回しになります。しかし、どうにもならなくなった時に気づくのです。そこにおられるのがどのような御方であるか。

 彼らも思い出したに違いないのです。イエス様を通して神の権威が現れていたことを。カファルナウムの会堂で起こった出来事を。汚れた霊に取りつかれた男が叫び出した時、主が「黙れ。この人から出て行け」と命じると汚れた霊が出て行ったのです。また現実に神の権威と力は病気の癒しにおいても現されていたことを彼らは思い起こしたのでしょう。だから、自分の力や頑張りではどうにもならなくなった時、彼らはナザレのイエスというこの御方を通して現れた神の権威を求めたのです。「神の話は神の話。現実は現実」ではなくて、現実の中に神の権威と力が現れることを求めたのです。ならばイエス様を起こさなくてはなりません。おぼれそうなのですから。彼らはイエス様を起こして言いました。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

まだ信じないのか
 するとイエス様はにわかに起き上がり、あのカファルナウムの会堂の時のように「黙れ。静まれ」と命じられました。そして話は「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)と続きます。ここから始まる一連の奇跡物語の最初の話です。しかし、奇跡を伝えたいだけならば、話はこれで終わりでしょう。しかし、実際にはまだ続きます。大事なのはその後です。「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(40節)。

 「なぜ怖がるのか」と主は問われます。それは「怖がる必要ないではないか」ということです。風がやんで凪ぎになったから怖がる必要ないのではなくて、まだ突風が吹いているときでも、波をかぶって舟が沈みそうになっているそのときでも、本当は怖がる必要などなかったということなのです。本当に目を向けるべきところに目を向けていたならば!

 そうです。彼らが必死で自分たちの力で対処しようとしていた時に、同じ舟の中にイエス様はおられたのです。「神の話は神の話。現実は現実」と思っていた時に、実はそこにイエス様はおられたのです。そこでイエス様は安らかに眠っておられたのです。何もなさらなかったのです。そうです、奇跡や力ある業によってのみ神の権威と力とは現されるのではないのです。そうではなく、イエス様は眠っていることによって、何もなさらないことによって、奇跡や力ある業を行う以上に、神の圧倒的な権威と力を現しておられたのです。そして、彼らに必要だったのは、ただ信じることだけだったのです。主は言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

イエス様と共に向こう岸へ
 さて、最初の話に戻ります。そもそも、これらのことは「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉に従って漕ぎ出した舟の中での出来事でした。主が指さしていたのは異邦人の地でした。そこには出会いたくない、関わりたくない人々がいるのです。しかし、主は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」。

 教会の歴史は、この「向こう岸へ渡ろう」というイエス様の言葉によって導かれてきた歴史でした。イエス様はユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、ある時から異邦人伝道が始まったからです。

 もともとユダヤ人は異邦人とは一緒に食事はしませんでした。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってくるのです。また当然、全然馴染みのない習慣やものの考え方も入ってくる。感じ方も違う。そういう人たちと共にいることになる。当然、教会の雰囲気そのものも変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、イエス様は言われたのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会は向こう岸へと渡ったのです。

 私たちはどうでしょう。私たちはいつだって安全なところに留まりたいと思っています。自分たちの慣れ親しんだところ、今までの慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟を出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、イエス様は先へと、向こう岸へと行こうとしておられるのです。自分一人ではなく、私たちと共に!ですから私たちにも言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 そこでこそ、あの弟子たちが舟の中において身をもって学んだことを私たちもまた知っておく必要があるのでしょう。舟を出せばいろいろなことは起こってくる。嵐に遭うかもしれません。舟は沈みそうになるかもしれません。しかし、その時こそ、キリストが共におられることに目を向けなくてはならないのです。そして、求められているのは信仰であることを思い起こさなくてはならないのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」そこでこそ、「主よ、私たちは信じます。私たちは、あなたと同じ舟の中にいるのですから」と言える者でありたいと思うのです。

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