2014年3月16日日曜日

「主の偉大な力によって強くなりなさい」

2014年3月16日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 6章10~20節


本当の敵と戦うために
 「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(20節)と書かれていました。パウロは獄中において鎖につながれています。彼は自由を奪われています。束縛の苦痛を強いられているのです。

 いや、私たちが知る限り、これはパウロが強いられてきた苦しみのごく一部でしかありません。別の手紙にはこう書かれています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:24-27)。

 幾多の苦しみをパウロは味わってきました。すべて他の人間がパウロに対してしたことです。ユダヤ人がしたことであり、異邦人がしたことであり、盗賊がしたことであり、偽兄弟たちがしたことです。人から受けた傷は残ります。時として何年も何年も。そのように人々から受けてきた夥しい数の傷跡は何年経っても一日たりとも忘れ得ないほどに、彼の肉体にそして彼の心に深々と刻まれていたに違いありません。

 しかし、そのパウロが言うのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12節)。「血肉」というのは人間のことです。私たちの戦いは人間を相手にするものではないのだ、と彼は言うのです。人間相手に戦っていては駄目なんだ、と。

 彼はまさに本当の敵と戦うことの大切さを、その身をもって学んできた人なのでしょう。幾度となく不当な仕打ちに遭ってきました。人間相手の戦いに巻き込まれそうになる場面に繰り返し置かれてきました。しかし、そこからキリストを仰いで、主の受けられた御苦しみを思いつつ、キリストが向かっていた本当の敵が誰であったかを繰り返し確認して生きてきたのでしょう。

 本当の敵とは誰か。それは聖書の用いている表現によるならば「悪魔」です。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)。パウロはここで「悪魔の策略」という言葉を使っています。この世界には悪魔の策略がしかけられている。いつの間にか人間同士の戦いにされてしまうのもその一つです。その策略がいかに巧妙であるかは、人類の歴史を見れば明らかです。人類の歴史は戦争の歴史です。そうです、私たちもまた、人間相手に戦っている時点で既に悪魔に負けているのです。

 しかし、考えてみれば、私たちが往々にして戦ってしまっている「血肉」は、他人ばかりではありません。自分という「血肉」との戦いに巻き込まれていることもまたあるのです。パウロという人は、その意味でも人がいかに「血肉」との戦いに陥ってしまうかを知っている人だったと言えます。彼はこのようなことを書いています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。神の律法に従って正しく生きようとしていた彼が直面していた現実です。言い換えるならば、彼は自分の望むとおりに動こうとしない自分自身と必死になって戦っていたということです。そして惨めに敗れてきたのです。かつてのパウロの姿です。

 それは私たちにも覚えがあります。思い通りにならない自分自身、言うことを聞かない自分自身が現実にいるのです。ですからそんな自分が嫌でたまらない。だから打ち叩いて、ある時には叩きのめすようなことをするのでしょう。しかし、それで服従させられるかと思うとそうもいかない。何も変わらない。それは当然のことなのです。なぜなら本当の敵は自分ではないからです。

 本当の敵は血肉ではありません。悪魔です。ならば本当の強さが必要です。悪魔と戦える強さが必要です。ですからパウロは言うのです。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)。依り頼むべきは自分の強さではありません。主とその偉大なる力です。信仰から来る力と言ってもいいでしょう。それは信仰生活において身につけるべきものです。ですから、身に着けるべき「武具」として表現されているのです。

立って武具を身に着けよ
 その武具とは何か。信仰生活において身に着けなくてはならない武具とは何であるのか。パウロは6つの武具をここで列挙しています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(14‐17節)。

 ここで個々の武具については簡単に触れるに留めます。むしろ、最初に「立って」と書かれていることに注目したいと思うのです。その前に「しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と書かれていますから、いささかくどいようにも思えます。11節にも出てきますし。しかし、それだけまた「立つ」ということにこだわっているとも言えるでしょう。「立つ」というのは11節に「対抗して立つ」と書かれていますように、戦いの姿勢です。主の偉大な力によって強くなることを求め、神の武具を身に着けるとするならば、当然のことながら「戦う」つもりで立たなくてはならない。私たちの戦いとは悪魔との戦いなのだと認識し、まずは立ち上がることです。人間との戦いをやめて、自分との戦いもやめて、悪魔と戦うつもりで立ち上がることです。

 3世紀初頭に書かれた「ヒッポリトスの使徒伝承」という文書があります。それによると古代の洗礼式においては洗礼の前に悪霊追放の塗油が行われていたらしい。そこで洗礼を受ける者は司祭の右に立ってこう宣言することになっています。「サタン、わたしはおまえと、おまえの一切の虚栄と、おまえの一切のわざを捨てる」。すると司祭は油を塗りながらこう唱える。「一切の悪霊があなたから離れ去りますように」。

 つまり洗礼を受けるということは、罪の赦しを受け、死んで甦った者として新しい命に生きることを意味するのですが、その新しい命に生きるとは、悪魔に反旗をひるがえして戦う者として生きることを意味したのです。パウロもこう言っています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ1:13‐14)。つまり属する軍隊が替わったのです。キリストの支配に置かれたとはそういうことです。

 ですから、古代の教会において洗礼式は「入隊式」とも見なされたのです。洗礼や聖餐を「サクラメント」と言いますが、「サクラメント」とはもともとラテン語でローマの軍隊への入隊式を意味する言葉だったのです。もちろん、反旗を翻したわけですから、悪魔は攻撃してくるでしょう。再び自分の支配下に置こうとするでしょう。神から引き離そうとするでしょう。教会からも信仰からも引き離そうとするでしょう。しかし、私たちはキリストの側にいるのだということを認識して立つのです。そのようにして神の武具を身に着けるのです。ここに書かれているように、それは六つあります。

 第一は「真理の帯」です。真理とはこの場合「正しい教え(正しい教理)」のことです。教会はその始めから教えること、そして学ぶことを大切にしてきたのです。もちろん、信仰生活には体験をもってしか知り得ない事柄があります。しかし、体験を過度に重んじるところに真理からの逸脱が起こってくるのです。私たちは、自分が何を伝えられ、何を信じているのかを明確にし、真理の帯をしっかりと身に付けなくてはなりません。

 第二は「正義の胸当」です。「正義」は他の箇所では単に「義」と訳されています。胸当にすべきは人間の正しさである正義ではありません。神の義です。キリストの十字架を通して罪人を義とし給う神の義です。人間の義は悪魔の前に役には立ちません。悪魔は告発者であって私たちの義に挑戦して来るからです。「おまえは罪人ではないか。神に裁かれて滅びるばかりのものではないか。どこに神の前に立つ資格があるか」と。確かに悪魔の告発の言葉は間違っていません。私たちは自分の正しさをもって神の御前に立つことはできません。だからこそ神の義を胸当としなくてはならないのです。キリストによって救われ、罪をゆるされ、神に義とされた者として、そのように義の胸当てを付けて悪魔に立ち向かうのです。

 第三は「平和の福音を告げる準備」です。これは履物です。履物は動くために履くのです。すなわち行動するためにです。その行動とは平和の福音を告げることです。悪魔は神と人との間に、そして人と人との間に断絶をもたらします。しかし、キリストの十字架は神との間に平和をもたらし、そして人と人との間に平和をもたらしてくださいます。その福音が私たちには与えられているのです。私たちは平和の福音の備えという履物をしっかりと身につけねばなりません。

 第四は「信仰の盾」です。これは体がすっぽりと入る大盾を意味します。神への信頼こそ私たちを守る大楯です。悪魔は様々な火の矢を放ってくることでしょう。それは避けられないことです。しかし、その火の矢で火だるまになる必要もありません。火の矢の火は消すことができるのです。何をもってですか。信仰をもってです。信仰に留まるとき、火の矢の火は消されるのです。

 第五は「救いの兜」です。他の手紙では「救いの希望を兜としてかぶり」と表現されています(1テサロニケ5:8)。この「救い」とは最終的に与えられる救いの完成です。今、私たちはまだ戦いの中にあり、傷つきながら苦闘しているのですが、この戦いは永遠に続くのではありません。勝利の日が来るのです。その希望をしっかりとかぶっていなくてはなりません。

 第六は「霊の剣」すなわち神の言葉です。神の言葉が語られ、神の言葉が聞かれるところに聖霊が働かれます。私たちの生活が御言葉から離れない時、私たちは戦いのための剣を持つのです。

 これらの武具を身に着けるということは、言い換えるならば健全な信仰生活、教会生活を身に着けるということです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」そのように主に向き、主に依り頼む生活をしっかりと身に着けることです。私たちは人間と戦うのではありません。自分と戦うのでもありません。真に思いを向けるべきは苦しみをもたらす誰か他の人でも自分でもありません。本当の敵を認識し、信仰生活を身に着けて悪魔に対抗してしっかりと立てるようになることをこそ求めるべきなのです。

2014年3月9日日曜日

「荒れ野に追いやられたなら」

2014年3月9日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章12~15節


荒れ野に追いやられて
 去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はマルコによる福音書の当該箇所をお読みしました。マタイとルカによる各福音書には、特に悪魔から三つの誘惑を受けた話が書かれています。しかし、今日お読みしたマルコによる福音書の記述は極めてシンプルです。たった2節しかありません。神様はこの短い箇所を通して私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。

 マルコによる福音書における「荒野の誘惑」の箇所においてまず特徴的なのは「イエスを荒れ野に送り出した」という表現です。「送り出した」と訳されているこの言葉、この福音書に何度も出てきます。しかし、ほとんどの場合「追い出す」と訳されているのです。悪霊を「追い出す」という言葉です。そのような激しい言葉がイエス様について用いられているのです。イエス様は追い出されたのです。荒れ野へと。あるいは「追いやられた」と言ってもよいでしょう。ということで、今日の説教題は「荒れ野に追いやられたなら」となっています。

 「追い出す」にせよ「追いやる」にせよ、そこに表現されているのは強制です。本人の意志とは関係なくということです。そのように本人の意志や願望とは無関係にある場所に置かれることはあります。追いやられることはあります。人間の経験としては、むしろその方が多いかもしれません。しかし、その言葉がイエス様について用いられていると何かとても不思議な気がします。きっと違和感を軽減するために「送り出した」と柔らかく訳したのでしょう。

 しかし、この違和感ある言葉がイエス様について用いられていることは嬉しいことでもあります。イエス様が遠いところにではなく、私たちのすぐ側に身を置いてくださっているように思えるからです。イエス様も「追いやられた」のです。「荒れ野に追いやられたなら」という説教題、皆さんならどのように言葉を続けますか。わたしはこう続けたいと思います。「荒れ野に追いやられたなら、荒れ野に追いやられたイエス様のことを思い起こしましょう」と。

聖霊によって追いやられて
 荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、そこに様々なことが見えてきます。第一に、イエス様を荒れ野に「追いやった」のは聖霊であるということ。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)。

 「それから」と書かれていますが、これは「それからすぐに」という意味です。つまりその前に書かれている洗礼の場面と結びつけられているのです。イエス様を荒れ野に追いやった“霊”については、10節にこう書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」それは次のような天からの宣言の言葉と共に降ってきたのでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この神の愛の宣言と共に降って来た神の霊、まさに我が子を愛する父の心そのものであるとも言える神の霊が、その御子を荒れ野へと追いやったのです。

 何を意味しますか。荒れ野に追いやられることは、愛されていないことを意味しない。見捨てられているからではない。そういうことでしょう。「荒れ野」から連想されるのはいくつものネガティブな言葉です。欠乏、飢え、渇き、危険、苦痛、などなど。それらは「愛」という言葉とはどうしても結び着き難い。ですから、欠乏や苦痛の中に追いやられる時、人は神から愛されていない、見捨てられていると感じます。しかし、その時にこそイエス様を荒れ野に追いやったのは、「あなたはわたしの愛する子」と宣言された方の霊であることを思い出さねばなりません。「荒れ野に追いやられたなら」――イエス様が聖霊によって荒れ野に追いやられたことを思い起こしましょう。

サタンから誘惑を受けられて
 そして、荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、次に見えてくるのは、そこでイエス様がサタンの誘惑を受けられたということです。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(13節前半)。

 私たちが生きている限り、誘惑は避け得ません。しかし、今日の箇所では特にイエス様が荒れ野において「サタンから誘惑を受けられた」と書かれているのです。荒れ野には荒れ野ならではの誘惑が待っているということです。

 荒れ野に追いやられたという話で思い起こすのは、エジプトから脱出したイスラエルの人たちが荒れ野へと導かれた話です。彼らは自分たちの意志や願望とは無関係に、とにかく荒れ野を旅せざるを得なかったのです。イエス様が四十日間とどまったということも、イスラエルの人たちが四十年荒れ野を旅したことを思い起こさせます。

 彼らが荒れ野を通らされたのは、明らかに神から見捨てられたからではありません。彼らは神によって救われた人たちです。昼は雲の柱によって夜は火の柱によって導かれていたのです。神がそのように彼らを離れてはいないゆえに、彼らは荒れ野を旅していたのです。確かに荒れ野には欠乏があります。危険があります。苦痛があります。しかし、そこはまた神への信仰が養われ、神の恵みを知る場でもあったのです。荒れ野はまた、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ということを学ぶ場でもあったのです。それは人が真に生きるものとなるためです。

 しかし、そこにはまた誘惑もありました。私たちは彼らが荒れ野における欠乏の中で不満を抱き続け、不平を言い続けたことを知っています。人は欠乏の中にあるからこそ神に思いを向け、神の言葉を求めることもできる。しかし、もう一方において、人は欠乏の中にあるからこそ欠乏に思いを向け、神に背を向けることもできるのです。悪魔はもちろん私たちが後者となることを望んでいるのでしょう。悪魔は私たちを神から引き離すために、私たちに対する誘惑として、欠乏や苦痛や危険をいくらでも用いることができるでしょう。

 マタイとルカによる二つの福音書に書かれているサタンの誘惑は、まさにイスラエルが経験した荒れ野での出来事を思い起こさせるものでした。この福音書には書かれていませんが、他の福音書ではイエス様が四十日間断食したこと、そして空腹を覚えられたことが記されています。そこでサタンはこう言ったのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)。

 そうです。空腹の時には食べ物のことしか考えられなくなる。石がパンに見えてくる。そのようにサタンが誘惑してきます。欠乏している時には欠乏が満たされることしか考えられなくなる。悩みがある時にはその悩みがどうしたら解決されるかということしか考えられなくなる。サタンの誘惑です。それゆえにイエス様はあの申命記の言葉を引用して誘惑を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4:4)と。「荒れ野に追いやられたなら」――荒れ野においてイエス様が誘惑を受けられたことを思い起こしましょう。

天使に仕えられて
 そのように誘惑を受けられたイエス様に目を向ける時、次に見えてくるのは、野獣がイエス様と共にいただけでなく、天使たちがイエス様に仕えている光景です。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節後半)。

 荒れ野には野獣がいます。危害を加える存在がいます。イエス様は野獣と共にいました。野獣と共にいるのは荒れ野に追いやられたからです。それが目に見える現実です。しかし、目に見えている現実だけが全てではありません。そこには「天使たちが仕えていた」と書かれています。それは目に見えない現実です。イエス様は野獣と一緒にいました。それは避けられないことでした。しかし、野獣はイエス様を害することができません。なぜなら目に見えない天使が仕えているからです。

 荒れ野に追いやられたなら、天使たちに取り囲まれているイエス様の姿を思い起こしましょう。天使と言っても森永のマークを思い浮かべてはなりません。聖書に出て来る天使は軍隊のイメージですから。しかし、「天使」という言葉に抵抗を覚えるようでしたら、「神のお働き」と言い換えても良いでしょう。どのように表現されるにせよ、大事なことは神がこの世界にも私たちの人生にも関わっておられ、生きて働いておられるということです。

 さて、ここまでイエス様が荒れ野に追いやられたという話を読んできましたが、考えてみれば、これはイエス様の全生涯を象徴している出来事であるとも言えます。天に属する御方がこの世に来られるとは、まさに荒れ野に身を置くことに他ならないでしょう。そこには野獣がいます。確かにいました。イエス様を断罪して十字架にかけてしまう野獣が。祭司長たち。律法学者たち。いや、すべての人間がイエス様にとっては野獣であるとも言えます。

 その野獣によってイエス様は十字架にかけられて殺されてしまいました。野獣しかいなければ、それで話は終わりです。しかし、そこには天使たちが仕えていた。言い換えるならば、神様の御業が進んでいたのです。悪魔の業を打ち砕き、野獣と化している人間を救うための御業が進んでいたのです。そして、確かに神の御業が確実に進んでいたことは、三日目に明らかにされました。

 そのような神の御業の中に私たちもいるのです。たとえ荒れ野に追いやられたとしても。たとえ荒れ野に長く身を置いていたとしても。野獣にしか目を向けられない人は気の毒な人です。荒れ野に置かれている時こそ、神の大いなる御業の中にあることに目を向けなくてはなりません。「荒れ野に追いやられたなら」――荒れ野においてイエス様が御自分に仕える天使たちに取り囲まれていたことを思い起こしましょう。

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