2014年1月19日日曜日

「キリストが招いておられます」

2014年1月19日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章14~20節


人々の期待、弟子たちの期待
 「ヨハネが捕らえられた!」そのニュースは多くの人々に大きなショックを与えたに違いありません。ユダヤの全地方から夥しい人々がヨハネのもとに訪れ、罪の赦しを求めて洗礼を受けていたのですから。彼らの中には「この人こそメシアであるに違いない」と思っていた人もいたことでしょう。あるいは旧約聖書に出て来るエリヤを思い起こしていた人がいたかもしれません。しかし、そのヨハネが正しいことを語ったがゆえに捕らえられてしまったのです。

 捕らえたのはヘロデでした。ヨハネがヘロデによって捕らえられ、やがて獄中で首をはねられて殺されるに至った次第はこの福音書の6章に記されています。ヘロデがヨハネを捕らえたことは誰の目にも正しいことではありませんでした。しかし、ヘロデの強大な権力の前にはどうすることもできません。人々はこの世の権力の悪なることを思って嘆くことしかできませんでした。

 そのような時代のただ中にあって、ヨハネと入れ替わるかのように、あのナザレのイエスが声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。ヨハネを捕らえたヘロデの強大な権力を前にして、さらに言うならば、その背後にあるローマ皇帝の権力が支配するそのただ中において、「神の国は近づいた」と宣べ伝えるということが、当時の人々の耳にどれほど過激に聞こえたか想像してみてください。既存の王国のただ中で、もう一つの王国の到来が語られているのです。いやそれは究極の王国の到来なのであって、その支配者はヘロデやローマ皇帝の上にあると宣言されているのです。「神の王国」なのですから。

 人々はかつての洗礼者ヨハネの説教を思い起こしながら、あらためて期待に胸を膨らませたに違いありません。神の正義の支配が目に見える形で実現する!それはまさにあのダビデの王座の回復、イスラエルの王国の復興に他ならない。そして、あの男は「良い知らせを信じろ」と言っている。それはヨハネから洗礼を受けた人々や洗礼者ヨハネの弟子を自認する人々にとっては期待を喚起するに十分なメッセージだったことでしょう。この福音書を読んでいきますと、確かにそのような政治的な期待やその他の様々な期待を抱いた集団がなんと数千人の規模に膨れあがっていく様子が描かれているのです。

 しかも、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き…」(14節)と書かれていました。ヨハネの洗礼活動を引き継ぐのではなく、宣教活動の拠点をあえてガリラヤに移した。そのこともまた人々の期待に拍車をかけることとなったのかも知れません。というのも、ガリラヤは反ローマ武装闘争である熱心党運動の発祥の地であり拠点であったからです。後にイエスの弟子となる人々の中に「熱心党のシモン」と呼ばれた熱心党出身者がいたこともうなずけます。ガリラヤという、まさに反権力思想が息づいている地域において、あの方は声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」と。

 そして、ナザレのイエスはガリラヤにおいて独自の活動集団を作り始めているのを人々は目にしたのです。それは明らかに通常のラビとタルミード(弟子)の関係ではありませんでした。イエスは「わたしに従え」と言って声をかけ、自分に従う者の集団を形成し始めたのです。今日の朗読箇所に書かれていたようにです。

 イエスがまず目を留めたのは網を打っている漁師たちでした。シモンとその兄弟アンデレ。イエスは彼らに言います。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。すると二人はすぐに網を捨てて従った。それだけを読むとこの話は実に極端に見えます。しかし、私たちはここで彼らが初めて相まみえたと考える必要はありません。ヨハネによる福音書を読みますと、アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネを通してイエスに出会っていることが書かれていますから。そして、そのアンデレを通してペトロも既に出会っていたようです。また「網を捨てて」と言いましても、実際には後でイエスとその一向がシモンとアンデレの家に行ったことが出てきますので(29節)、別に家と断絶したわけでもありません。いずれにせよ、「すると二人はすぐに網を捨てて従った」という言葉には、既に相当な期待が彼らの内にも存在していたことを見ることができるでしょう。

 そして、同じことがゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネについても言えます。イエスは網の手入れをしていました。彼らも呼ばれます。言葉は書かれていませんが、同じことを言われたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。そして、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)と書かれています。

 「神の国は近づいた」と語るこの男はメシアなのか。そうではないのか。その時点でまだ彼らには確かなことは言えなかったに違いありません。まだわからない。しかし、神の国の到来に向かって何かが起こっている。この人を中心に何かが起こっている。そのような期待に胸を膨らませながら彼らはついていったのでしょう。

 そして、ついて行った人々が目にした数々の出来事は、その期待が間違っていないことを裏付けるように見えたはずです。というのも、彼らを招いたこのナザレのイエスはとてつもない力の持ち主であることが次第に明らかにされていったからです。人々がそこに見たのは「権威」でした。そこに現れていたのは神の権威だったのです。その人の言葉によって汚れた霊は大声をあげて出て行く。今日は読みませんでしたが28節にはこう書かれています。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」と。

主は十字架を経て再びガリラヤへ
 さて、そのように人々の期待が渦巻く中で四人の漁師が一人の男についていったこの話。今ここで読んでいる私たちにとって何を意味するのでしょう。マルコによる福音書の著者は、これを読んでいる私たちに何を伝えたいのでしょう。この書を通して、神は私たちに何を語りかけておられるのでしょう。そのことを考えながら、もう一度今日の朗読箇所に目を向けていきましょう。

 最初に見ましたように、今日の朗読箇所は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まりました。これはもともと「引き渡す」という言葉です。「ヨハネが引き渡された後」。この同じ言葉はこの後に何度も、特に14章と15章に集中して現れます。そこにおいて引き渡されるのは誰ですか。イエス様です。14章と15章だけで10回にも及びます(「引き渡す」の他、ユダについては「裏切る」などと訳されています)。例えば、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」(15:15)

 イエス様について人々が抱いていた期待、あの漁師たちが抱いていた期待については既に述べました。しかし、マルコによる福音書が本当に伝えたいのは、「引き渡された」洗礼者ヨハネの後を追う形で、イエス様が公の宣教がスタートしたのだ、ということなのです。そして、やがてその御方が「引き渡される」ことになる。すなわち、人々の期待とは逆方向の結末へと向かうキリストをマルコは伝えようとしているのです。

 この福音書のちょうど真ん中あたり、8章において、あの時イエス様についていった弟子たちの期待はピークに達します。そこでペトロがイエス様に「あなたはメシアです」とはっきり言い表している場面があるのです。それは弟子たちの共通した見解でした。しかし、そこでイエス様は自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。そして、聖書はこう伝えているのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)。

 そして、事実イエス様はそのように歩まれ、やがて十字架にかけられることとなります。そこで弟子たちはどうしたでしょう。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)と書かれています。ペトロについては、三回もイエスを否んだ話が別に伝えられています。あの日、期待をもってついていったペトロです。「あなたはメシアです」と語ったペトロです。

 しかし、だからこそ今日読まれた箇所において「イエスはガリラヤへ行き」と書かれていたことが大きな意味を持つのです。そして、他ならぬガリラヤにおいてペトロたちが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが意味を持つのです。というのも、あの時と同じようにイエス様は再びガリラヤに行かれることになるからです。ペトロたちはもう一度、キリストによって招かれたこのガリラヤの場面に戻ってくることになるのです。

 十字架にかけられたキリストが復活した時、空になった墓において婦人たちはこのような言葉を聞いたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:7)。

 イエス様を見捨てたペトロたちです。もう弟子であるなどと言えない彼らでした。しかし、彼らのためにも十字架にかかられ復活されたキリストが、再び出会ってくださった。そして、彼らを再び招いてくださった。だからこそ、後の「使徒ペトロが」や「使徒ヨハネ」がいるのでしょう。彼らはガリラヤにおいて、あの初めの時のことをはっきりと思い出したに違いありません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その言葉は新たな力をもって彼らに迫ってきたことでしょう。そして、後々まで語り続けたに違いありません。マルコによる福音書はペトロの説教がもとになったとも言われます。ペトロが語り続けたからこそ、その言葉がこうして記されているのです。

 ここまで来てようやく、福音書を読んでいる私たちもまた弟子たちと同じところに立つことになります。ガリラヤにおいて彼らと出会い、彼らを赦し、彼らを招いた復活のキリストこそ、私たちを招いてくださったキリストだからです。復活された主が私たちにも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってくださったのです。

 十字架と復活を経たキリストに招かれた者として聞くならば、「人間をとる漁師にしよう」という意味ははっきり見えてきます。それこそがキリストに招かれた者がなすべきことだからです。

 洗礼者ヨハネが捕らえられた時、人々はこの世の権力の悪なることを思ったことでしょう。だからこそその支配を覆してくれるメシアを待ち望んだのでしょう。しかし、彼らが本当に戦わなくてはならなかった相手はヘロデでもローマ皇帝でもありませんでした。本当の敵はこの世の権力ではなくて、権力者のみならず全ての人を神から引き離してがっちり捕らえている罪の支配なのです。本当の戦いは罪との戦いなのです。

 そこにおいて必要なことは、一人の人間が神に立ち帰り、罪の赦しを得て神と共に生きる者となり、神と共に生き続けるようになることなのです。そこにこそ罪の支配に代わるもう一つの支配が到来するのです。神の支配。神の国。そこでは、どうしても一人一人の「人間」に目が向けられなくてはなりません。まことに愚かに見えるかもしれないけれど、一人一人の「人間」に対して、神の愛と赦し、神の招きを伝えていくしかないのです。だから「人間をとる漁師」と呼ばれているのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その御言葉によって召され、集められ、この世に遣わされているのが教会なのです。

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