2014年1月12日日曜日

「天から響く父の声」

2014年1月12日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章9~11節


神の子イエス・キリスト
 マルコによる福音書は次のような言葉で始まります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。この書の表題です。この書は「福音」と呼ばれています。良い知らせです。その良い知らせの中心にいるのは「神の子イエス・キリスト」です。その御方が初めて登場する場面を今日はお読みしました。

 「神の子イエス・キリスト」。この「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味です。ヘブライ語では「メシア」です。油注ぎは神による天からの任職を象徴する行為です。そのように任職されるのは第一には王です。その他にも祭司や預言者が油注ぎによって任職されます。しかし、この福音書において重要になってくるのは「王」のイメージです。イエス様が登場する頃、人々が待ち望んでいたのは何よりも力ある王でした。かつてのダビデのような力ある王。正しい裁きを行ってくれる王でした。そのようなメシア待望の中でイエス様が登場するのです。

 人々が力ある王を待ち望んでいたのは、現実にはローマ皇帝の支配下にあったからです。ユダヤ人からすれば異教徒の支配下にあった。だから力ある王が異教徒の支配を打ち破り、彼らを解放し、失われたダビデの王座を回復し、イスラエルの王国を建て直してくれることを待ち望んでいたのです。また、彼らが正しい審きを行ってくれる王を待ち望んでいたのは、現実には正しくない審きのもとに置かれていたからです。正義が実現していなかったからです。不義なる力によって彼らは抑圧され、苦しめられ泣いていたからです。彼らを苦しめる者を誰も裁いてくれなかったからです。だから、義なる王が現れて正しい審きを行い、正義を回復してくださることを待ち望んでいたのです。

 「イエス・キリスト」という表現は、それ自体が、「イエスこそ人々が待ち望んでいたキリスト=メシアである」という理解を言い表したものです。しかも、そこには「神の子」という言葉が加えられています。「神の子イエス・キリスト」という言葉は今日の朗読箇所と直接つながります。そこではイエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という声を聞いたと書かれていましたから。

 「あなたはわたしの愛する子」。イエス様はそう語られる神の声を聞きました。もちろんそこには三位一体における「父なる神」と「子なる神」の関係があります。私たちはこの御方が父なる神と本質において一つである子なる神であると信じています。しかし、ここに語られているのは、単にそのような意味での父と子の関係ではありません。三位一体の話はいったん横に置いておく必要があります。

 これに似た言葉は詩編2編に出て来ます。「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』」(詩編2:7)。細かい話は割愛しますが、そこに歌われているのは王の即位についてなのです。神が任職し王が即位する。その王が神によって「わたしの子」と語られているのです。

 要するに「神の子」も「キリスト」も同じことを言っているのです。それは神によって油注がれたまことの王です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。そうです、この書物に記されているのは、そのような神の子でありキリストである御方が到来したという話です。その神の子でありキリストである御方が初めて表舞台に登場する。それが今日の朗読箇所なのです。

洗礼を受ける人々の中に
 しかし、その御方は私たちの期待を裏切る衝撃的な形で登場することになります。読者は驚くべき仕方でメシアに出会うことになるのです。神の子はどこにおられますか。メシアはどこにおられますか。――その御方は、なんと洗礼を受ける人々の列に並んでいるではありませんか!

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。

 この洗礼は4節において「悔い改めの洗礼」と呼ばれていたものです。洗礼者ヨハネがこの洗礼を授けていたのは「罪の赦しを得させるため」(同)と書かれていました。このヨハネの洗礼については「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5節)と書かれていました。しかし、これは明らかに誇張です。実際にはヨハネのもとに来なかった人もいたのです。「悔い改めの洗礼」ですから、悔い改める必要はないと思っている人は来なかった。「罪の赦しを得させるため」ですから、自分は赦される必要があると思っていない人は来なかったのです。

 しかし、そこにイエス様が来られたのです。遠くガリラヤから来られた。「わたしは正しい」「わたしは赦される必要などない」と言っている人たちの間を通り過ぎて、その御方はヨハネのもとに来られたのです。罪を裁く権能を与えられているはずの王が、「神の子」であり「メシア」であるはずの方が、「悔い改めの洗礼」を受けるために来られたのです。

 洗礼を受ける罪人たちの列に並んでいるイエス様は、どう見ても「神の子」「キリスト」には見えなかったに違いありません。それはまだ隠されていたことでした。ただ洗礼者ヨハネには分かっていた。別の福音書には、ヨハネがイエス様に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)と語ったことが記されています。しかし、この福音書にはそのことも書かれてはいません。

 誰も知らない。ただイエス様だけが知っていたことでした。こう書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)。 そうです、見たのはイエス様だけでした。聞いたのもイエス様だけです。

 誰も知らない。しかし、人の目から隠されたメシアによって神がなそうとしておられたことがありました。主は確かに聞いたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を。そうです、イエス様がその時に洗礼の水の中にいたことは正しかったのです。罪人の一人としてそこに身を置いていたこと、洗礼の水において神の赦しを求める人々と一つになっているイエス様は、まさに神の心に適っている姿でそこにいたのです。神がなそうとしておられていたことは、既にそこにおいて始まっていたのでした。

開かれた天を見上げて
 この福音書を読み進んでいきますと、やがて私たちは同じように罪人の中に身を置いているイエス様の姿を見ることになります。罪人や徴税人たちが集まる家の中に見出すのです。私たちはこの福音書が「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっていたことをどの場面においても思い起こす必要があります。神の子、メシアである方、本当は罪を裁く権威を持っておられるまことの王がそこにおられる。しかし、その方はそこで罪人たちと食事を共にしているのです。また罪を裁く権威をもって罪の赦しを宣言される御方としてそこにおられるのです。

 そして、私たちはもう一つの姿で罪人と一つになっているイエス様をこの福音書に見出します。裁きを受けられ、十字架にかけられる姿においてあの御方は罪人のただ中におられます。この世界を裁くことのできる御方が裁きを受け、不当な裁きによって有罪判決を下され、そして罪人として十字架にかけられているのです。誰もその御方を王とは見ていない。ただ罪状書きとして「ユダヤ人の王」と掲げられていただけです。人の目から隠されたメシア。しかし、罪人の列に並ばれた時から既に始まっていたことは、確かに十字架において成し遂げられたのです。

 何が成し遂げられたのでしょう。イエス様が十字架の上で息絶えた時のことをこの福音書はこのように記しています。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:37‐38)。神殿の垂れ幕。罪によって隔てられている神と人との関係を象徴するその垂れ幕が引き裂かれました。上から下まで真っ二つに。誰が引き裂いたのですか。神様です。神様が人との隔てを引き裂かれた。その同じ言葉が、今日の聖書箇所に出てきます。――イエス様は引き裂かれた天を見たのです。「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。本当は「天が裂かれた」と書かれているのです。誰が引き裂いたのですか。神様です。

 罪人と同じ水に身を置かれたイエス様にはわかっておられたのでしょう。悔い改め神に立ち帰る人々が、やがて同じように引き裂かれた天を見るだろう。天と地が隔てられることなく神を見上げる時が来るだろう。それは十字架において実現したのです。どのようにして?まことの王が罪人と自ら一つになり、この世界を正しく裁かれる方が、自らこの罪を身に負って裁きを受けられることによってです。神の正しい裁きがそのようにして実現することによってです。世の罪は取り除かれ、隔ての垂れ幕は引き裂かれました。そして、主はあの時に確かにご覧になられた。裂かれた天から聖霊が鳩のように御自分に降ってくるのを。そのように神との隔ては取り除かれ、人は神の霊を受けるのです。私たちは開かれた天を仰ぎながら、神の霊を受けて生きることができるのです。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。その神の子でありメシアである御方は、人々が期待していたような姿では現れませんでした。しかし、確かにメシアは来られた。そして、その御方によって世の救いが実現したことが私たちに知らされております。そうです、「神の子イエス・キリストの福音」が。それはあの日、罪の赦しを求める人々の列に並ばれたあの御方についての良き知らせです。その良き知らせが私たちにも伝えられ、その知らせによって実現した生活が確かにここにあるのです。

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