2014年1月19日日曜日

「キリストが招いておられます」

2014年1月19日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章14~20節


人々の期待、弟子たちの期待
 「ヨハネが捕らえられた!」そのニュースは多くの人々に大きなショックを与えたに違いありません。ユダヤの全地方から夥しい人々がヨハネのもとに訪れ、罪の赦しを求めて洗礼を受けていたのですから。彼らの中には「この人こそメシアであるに違いない」と思っていた人もいたことでしょう。あるいは旧約聖書に出て来るエリヤを思い起こしていた人がいたかもしれません。しかし、そのヨハネが正しいことを語ったがゆえに捕らえられてしまったのです。

 捕らえたのはヘロデでした。ヨハネがヘロデによって捕らえられ、やがて獄中で首をはねられて殺されるに至った次第はこの福音書の6章に記されています。ヘロデがヨハネを捕らえたことは誰の目にも正しいことではありませんでした。しかし、ヘロデの強大な権力の前にはどうすることもできません。人々はこの世の権力の悪なることを思って嘆くことしかできませんでした。

 そのような時代のただ中にあって、ヨハネと入れ替わるかのように、あのナザレのイエスが声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。ヨハネを捕らえたヘロデの強大な権力を前にして、さらに言うならば、その背後にあるローマ皇帝の権力が支配するそのただ中において、「神の国は近づいた」と宣べ伝えるということが、当時の人々の耳にどれほど過激に聞こえたか想像してみてください。既存の王国のただ中で、もう一つの王国の到来が語られているのです。いやそれは究極の王国の到来なのであって、その支配者はヘロデやローマ皇帝の上にあると宣言されているのです。「神の王国」なのですから。

 人々はかつての洗礼者ヨハネの説教を思い起こしながら、あらためて期待に胸を膨らませたに違いありません。神の正義の支配が目に見える形で実現する!それはまさにあのダビデの王座の回復、イスラエルの王国の復興に他ならない。そして、あの男は「良い知らせを信じろ」と言っている。それはヨハネから洗礼を受けた人々や洗礼者ヨハネの弟子を自認する人々にとっては期待を喚起するに十分なメッセージだったことでしょう。この福音書を読んでいきますと、確かにそのような政治的な期待やその他の様々な期待を抱いた集団がなんと数千人の規模に膨れあがっていく様子が描かれているのです。

 しかも、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き…」(14節)と書かれていました。ヨハネの洗礼活動を引き継ぐのではなく、宣教活動の拠点をあえてガリラヤに移した。そのこともまた人々の期待に拍車をかけることとなったのかも知れません。というのも、ガリラヤは反ローマ武装闘争である熱心党運動の発祥の地であり拠点であったからです。後にイエスの弟子となる人々の中に「熱心党のシモン」と呼ばれた熱心党出身者がいたこともうなずけます。ガリラヤという、まさに反権力思想が息づいている地域において、あの方は声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」と。

 そして、ナザレのイエスはガリラヤにおいて独自の活動集団を作り始めているのを人々は目にしたのです。それは明らかに通常のラビとタルミード(弟子)の関係ではありませんでした。イエスは「わたしに従え」と言って声をかけ、自分に従う者の集団を形成し始めたのです。今日の朗読箇所に書かれていたようにです。

 イエスがまず目を留めたのは網を打っている漁師たちでした。シモンとその兄弟アンデレ。イエスは彼らに言います。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。すると二人はすぐに網を捨てて従った。それだけを読むとこの話は実に極端に見えます。しかし、私たちはここで彼らが初めて相まみえたと考える必要はありません。ヨハネによる福音書を読みますと、アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネを通してイエスに出会っていることが書かれていますから。そして、そのアンデレを通してペトロも既に出会っていたようです。また「網を捨てて」と言いましても、実際には後でイエスとその一向がシモンとアンデレの家に行ったことが出てきますので(29節)、別に家と断絶したわけでもありません。いずれにせよ、「すると二人はすぐに網を捨てて従った」という言葉には、既に相当な期待が彼らの内にも存在していたことを見ることができるでしょう。

 そして、同じことがゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネについても言えます。イエスは網の手入れをしていました。彼らも呼ばれます。言葉は書かれていませんが、同じことを言われたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。そして、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)と書かれています。

 「神の国は近づいた」と語るこの男はメシアなのか。そうではないのか。その時点でまだ彼らには確かなことは言えなかったに違いありません。まだわからない。しかし、神の国の到来に向かって何かが起こっている。この人を中心に何かが起こっている。そのような期待に胸を膨らませながら彼らはついていったのでしょう。

 そして、ついて行った人々が目にした数々の出来事は、その期待が間違っていないことを裏付けるように見えたはずです。というのも、彼らを招いたこのナザレのイエスはとてつもない力の持ち主であることが次第に明らかにされていったからです。人々がそこに見たのは「権威」でした。そこに現れていたのは神の権威だったのです。その人の言葉によって汚れた霊は大声をあげて出て行く。今日は読みませんでしたが28節にはこう書かれています。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」と。

主は十字架を経て再びガリラヤへ
 さて、そのように人々の期待が渦巻く中で四人の漁師が一人の男についていったこの話。今ここで読んでいる私たちにとって何を意味するのでしょう。マルコによる福音書の著者は、これを読んでいる私たちに何を伝えたいのでしょう。この書を通して、神は私たちに何を語りかけておられるのでしょう。そのことを考えながら、もう一度今日の朗読箇所に目を向けていきましょう。

 最初に見ましたように、今日の朗読箇所は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まりました。これはもともと「引き渡す」という言葉です。「ヨハネが引き渡された後」。この同じ言葉はこの後に何度も、特に14章と15章に集中して現れます。そこにおいて引き渡されるのは誰ですか。イエス様です。14章と15章だけで10回にも及びます(「引き渡す」の他、ユダについては「裏切る」などと訳されています)。例えば、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」(15:15)

 イエス様について人々が抱いていた期待、あの漁師たちが抱いていた期待については既に述べました。しかし、マルコによる福音書が本当に伝えたいのは、「引き渡された」洗礼者ヨハネの後を追う形で、イエス様が公の宣教がスタートしたのだ、ということなのです。そして、やがてその御方が「引き渡される」ことになる。すなわち、人々の期待とは逆方向の結末へと向かうキリストをマルコは伝えようとしているのです。

 この福音書のちょうど真ん中あたり、8章において、あの時イエス様についていった弟子たちの期待はピークに達します。そこでペトロがイエス様に「あなたはメシアです」とはっきり言い表している場面があるのです。それは弟子たちの共通した見解でした。しかし、そこでイエス様は自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。そして、聖書はこう伝えているのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)。

 そして、事実イエス様はそのように歩まれ、やがて十字架にかけられることとなります。そこで弟子たちはどうしたでしょう。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)と書かれています。ペトロについては、三回もイエスを否んだ話が別に伝えられています。あの日、期待をもってついていったペトロです。「あなたはメシアです」と語ったペトロです。

 しかし、だからこそ今日読まれた箇所において「イエスはガリラヤへ行き」と書かれていたことが大きな意味を持つのです。そして、他ならぬガリラヤにおいてペトロたちが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが意味を持つのです。というのも、あの時と同じようにイエス様は再びガリラヤに行かれることになるからです。ペトロたちはもう一度、キリストによって招かれたこのガリラヤの場面に戻ってくることになるのです。

 十字架にかけられたキリストが復活した時、空になった墓において婦人たちはこのような言葉を聞いたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:7)。

 イエス様を見捨てたペトロたちです。もう弟子であるなどと言えない彼らでした。しかし、彼らのためにも十字架にかかられ復活されたキリストが、再び出会ってくださった。そして、彼らを再び招いてくださった。だからこそ、後の「使徒ペトロが」や「使徒ヨハネ」がいるのでしょう。彼らはガリラヤにおいて、あの初めの時のことをはっきりと思い出したに違いありません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その言葉は新たな力をもって彼らに迫ってきたことでしょう。そして、後々まで語り続けたに違いありません。マルコによる福音書はペトロの説教がもとになったとも言われます。ペトロが語り続けたからこそ、その言葉がこうして記されているのです。

 ここまで来てようやく、福音書を読んでいる私たちもまた弟子たちと同じところに立つことになります。ガリラヤにおいて彼らと出会い、彼らを赦し、彼らを招いた復活のキリストこそ、私たちを招いてくださったキリストだからです。復活された主が私たちにも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってくださったのです。

 十字架と復活を経たキリストに招かれた者として聞くならば、「人間をとる漁師にしよう」という意味ははっきり見えてきます。それこそがキリストに招かれた者がなすべきことだからです。

 洗礼者ヨハネが捕らえられた時、人々はこの世の権力の悪なることを思ったことでしょう。だからこそその支配を覆してくれるメシアを待ち望んだのでしょう。しかし、彼らが本当に戦わなくてはならなかった相手はヘロデでもローマ皇帝でもありませんでした。本当の敵はこの世の権力ではなくて、権力者のみならず全ての人を神から引き離してがっちり捕らえている罪の支配なのです。本当の戦いは罪との戦いなのです。

 そこにおいて必要なことは、一人の人間が神に立ち帰り、罪の赦しを得て神と共に生きる者となり、神と共に生き続けるようになることなのです。そこにこそ罪の支配に代わるもう一つの支配が到来するのです。神の支配。神の国。そこでは、どうしても一人一人の「人間」に目が向けられなくてはなりません。まことに愚かに見えるかもしれないけれど、一人一人の「人間」に対して、神の愛と赦し、神の招きを伝えていくしかないのです。だから「人間をとる漁師」と呼ばれているのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その御言葉によって召され、集められ、この世に遣わされているのが教会なのです。

2014年1月12日日曜日

「天から響く父の声」

2014年1月12日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章9~11節


神の子イエス・キリスト
 マルコによる福音書は次のような言葉で始まります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。この書の表題です。この書は「福音」と呼ばれています。良い知らせです。その良い知らせの中心にいるのは「神の子イエス・キリスト」です。その御方が初めて登場する場面を今日はお読みしました。

 「神の子イエス・キリスト」。この「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味です。ヘブライ語では「メシア」です。油注ぎは神による天からの任職を象徴する行為です。そのように任職されるのは第一には王です。その他にも祭司や預言者が油注ぎによって任職されます。しかし、この福音書において重要になってくるのは「王」のイメージです。イエス様が登場する頃、人々が待ち望んでいたのは何よりも力ある王でした。かつてのダビデのような力ある王。正しい裁きを行ってくれる王でした。そのようなメシア待望の中でイエス様が登場するのです。

 人々が力ある王を待ち望んでいたのは、現実にはローマ皇帝の支配下にあったからです。ユダヤ人からすれば異教徒の支配下にあった。だから力ある王が異教徒の支配を打ち破り、彼らを解放し、失われたダビデの王座を回復し、イスラエルの王国を建て直してくれることを待ち望んでいたのです。また、彼らが正しい審きを行ってくれる王を待ち望んでいたのは、現実には正しくない審きのもとに置かれていたからです。正義が実現していなかったからです。不義なる力によって彼らは抑圧され、苦しめられ泣いていたからです。彼らを苦しめる者を誰も裁いてくれなかったからです。だから、義なる王が現れて正しい審きを行い、正義を回復してくださることを待ち望んでいたのです。

 「イエス・キリスト」という表現は、それ自体が、「イエスこそ人々が待ち望んでいたキリスト=メシアである」という理解を言い表したものです。しかも、そこには「神の子」という言葉が加えられています。「神の子イエス・キリスト」という言葉は今日の朗読箇所と直接つながります。そこではイエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という声を聞いたと書かれていましたから。

 「あなたはわたしの愛する子」。イエス様はそう語られる神の声を聞きました。もちろんそこには三位一体における「父なる神」と「子なる神」の関係があります。私たちはこの御方が父なる神と本質において一つである子なる神であると信じています。しかし、ここに語られているのは、単にそのような意味での父と子の関係ではありません。三位一体の話はいったん横に置いておく必要があります。

 これに似た言葉は詩編2編に出て来ます。「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』」(詩編2:7)。細かい話は割愛しますが、そこに歌われているのは王の即位についてなのです。神が任職し王が即位する。その王が神によって「わたしの子」と語られているのです。

 要するに「神の子」も「キリスト」も同じことを言っているのです。それは神によって油注がれたまことの王です。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。そうです、この書物に記されているのは、そのような神の子でありキリストである御方が到来したという話です。その神の子でありキリストである御方が初めて表舞台に登場する。それが今日の朗読箇所なのです。

洗礼を受ける人々の中に
 しかし、その御方は私たちの期待を裏切る衝撃的な形で登場することになります。読者は驚くべき仕方でメシアに出会うことになるのです。神の子はどこにおられますか。メシアはどこにおられますか。――その御方は、なんと洗礼を受ける人々の列に並んでいるではありませんか!

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。

 この洗礼は4節において「悔い改めの洗礼」と呼ばれていたものです。洗礼者ヨハネがこの洗礼を授けていたのは「罪の赦しを得させるため」(同)と書かれていました。このヨハネの洗礼については「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5節)と書かれていました。しかし、これは明らかに誇張です。実際にはヨハネのもとに来なかった人もいたのです。「悔い改めの洗礼」ですから、悔い改める必要はないと思っている人は来なかった。「罪の赦しを得させるため」ですから、自分は赦される必要があると思っていない人は来なかったのです。

 しかし、そこにイエス様が来られたのです。遠くガリラヤから来られた。「わたしは正しい」「わたしは赦される必要などない」と言っている人たちの間を通り過ぎて、その御方はヨハネのもとに来られたのです。罪を裁く権能を与えられているはずの王が、「神の子」であり「メシア」であるはずの方が、「悔い改めの洗礼」を受けるために来られたのです。

 洗礼を受ける罪人たちの列に並んでいるイエス様は、どう見ても「神の子」「キリスト」には見えなかったに違いありません。それはまだ隠されていたことでした。ただ洗礼者ヨハネには分かっていた。別の福音書には、ヨハネがイエス様に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)と語ったことが記されています。しかし、この福音書にはそのことも書かれてはいません。

 誰も知らない。ただイエス様だけが知っていたことでした。こう書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)。 そうです、見たのはイエス様だけでした。聞いたのもイエス様だけです。

 誰も知らない。しかし、人の目から隠されたメシアによって神がなそうとしておられたことがありました。主は確かに聞いたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を。そうです、イエス様がその時に洗礼の水の中にいたことは正しかったのです。罪人の一人としてそこに身を置いていたこと、洗礼の水において神の赦しを求める人々と一つになっているイエス様は、まさに神の心に適っている姿でそこにいたのです。神がなそうとしておられていたことは、既にそこにおいて始まっていたのでした。

開かれた天を見上げて
 この福音書を読み進んでいきますと、やがて私たちは同じように罪人の中に身を置いているイエス様の姿を見ることになります。罪人や徴税人たちが集まる家の中に見出すのです。私たちはこの福音書が「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっていたことをどの場面においても思い起こす必要があります。神の子、メシアである方、本当は罪を裁く権威を持っておられるまことの王がそこにおられる。しかし、その方はそこで罪人たちと食事を共にしているのです。また罪を裁く権威をもって罪の赦しを宣言される御方としてそこにおられるのです。

 そして、私たちはもう一つの姿で罪人と一つになっているイエス様をこの福音書に見出します。裁きを受けられ、十字架にかけられる姿においてあの御方は罪人のただ中におられます。この世界を裁くことのできる御方が裁きを受け、不当な裁きによって有罪判決を下され、そして罪人として十字架にかけられているのです。誰もその御方を王とは見ていない。ただ罪状書きとして「ユダヤ人の王」と掲げられていただけです。人の目から隠されたメシア。しかし、罪人の列に並ばれた時から既に始まっていたことは、確かに十字架において成し遂げられたのです。

 何が成し遂げられたのでしょう。イエス様が十字架の上で息絶えた時のことをこの福音書はこのように記しています。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:37‐38)。神殿の垂れ幕。罪によって隔てられている神と人との関係を象徴するその垂れ幕が引き裂かれました。上から下まで真っ二つに。誰が引き裂いたのですか。神様です。神様が人との隔てを引き裂かれた。その同じ言葉が、今日の聖書箇所に出てきます。――イエス様は引き裂かれた天を見たのです。「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。本当は「天が裂かれた」と書かれているのです。誰が引き裂いたのですか。神様です。

 罪人と同じ水に身を置かれたイエス様にはわかっておられたのでしょう。悔い改め神に立ち帰る人々が、やがて同じように引き裂かれた天を見るだろう。天と地が隔てられることなく神を見上げる時が来るだろう。それは十字架において実現したのです。どのようにして?まことの王が罪人と自ら一つになり、この世界を正しく裁かれる方が、自らこの罪を身に負って裁きを受けられることによってです。神の正しい裁きがそのようにして実現することによってです。世の罪は取り除かれ、隔ての垂れ幕は引き裂かれました。そして、主はあの時に確かにご覧になられた。裂かれた天から聖霊が鳩のように御自分に降ってくるのを。そのように神との隔ては取り除かれ、人は神の霊を受けるのです。私たちは開かれた天を仰ぎながら、神の霊を受けて生きることができるのです。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。その神の子でありメシアである御方は、人々が期待していたような姿では現れませんでした。しかし、確かにメシアは来られた。そして、その御方によって世の救いが実現したことが私たちに知らされております。そうです、「神の子イエス・キリストの福音」が。それはあの日、罪の赦しを求める人々の列に並ばれたあの御方についての良き知らせです。その良き知らせが私たちにも伝えられ、その知らせによって実現した生活が確かにここにあるのです。

2014年1月5日日曜日

「神に喜ばれるために」

2014年1月5日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章1~8節


 2014年最初の主日を迎えました。いつものように今日もこうして集まることができたことを感謝したいと思います。私たちがキリストを信じる者として今ここにいるとするならば、それは私たちにキリストを伝えてくれた人たちがいたからです。この日本に教会が存在するのは、日本にキリストを伝えに来てくれた人たちがいたからです。今、この世界に教会が存在し、私たちが教会に身を置いているのは、教会が伝道を続けてきたからです。神は教会が伝道することによってキリスト教信仰が存続することを良しとされました。その意味で「伝道」はキリスト教信仰の本質に属します。今日御一緒に考えたいのはその「伝道」についてです。福音を宣べ伝えられた私たちであること、そして、福音を宣べ伝えるためにこの世に遣わされている私たちであることを思いつつ、聖書の言葉に耳を傾けてまいりましょう。

不純な動機やごまかし?
 そこで今日の礼拝において読まれましたのは、パウロがテサロニケにおける伝道について語っている箇所です。このように書き出します。「兄弟たち、あなたがた自身が知っ
ているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」(1‐2節)。

 しかし、この続きが変です。いきなり何の脈絡もなくパウロは弁明をはじめるのです。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」(3節)。また5節にもこんなことが書かれています。「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます」(5節)。

 いささか唐突の感を免れません。しかし、このように書かれているということは、裏を返せば、そのように書かざるを得ない事情があったということでしょう。つまりパウロの宣教について、それが不順な動機によるものだという非難や、彼は人々にへつらって人集め金集めをしているだけだという中傷があったということです。どうして、そのような中傷が起こってきたかは、使徒言行録に書かれているテサロニケ伝道の様子や、あるいは同じ頃に書かれたガラテヤの信徒への手紙を読めばある程度見えてきます。

 使徒言行録17章は次のように始まります。「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った」(使徒17:1‐4)。

 パウロはいつものようにユダヤ人の会堂に行ってイエスがメシアであることを宣べ伝えました。そして、彼らのある者は信じたと書かれています。そう、信じたユダヤ人もいなくはなかった。しかし、信じた人たちの大多数はユダヤ人ではありませんでした。「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たち」でした。

 「神をあがめる多くのギリシア人」というのは、ユダヤ人ではないけれど会堂に出入りしていた人たちです。彼らは経済的にもユダヤ人の会堂を支えていた人たちです。よりによって、その彼らがパウロとシラスの方に行ってしまいました。いや、そればかりではありません。「おもだった婦人たち」が二人に従った。「おもだった婦人たち」というのは町の有力者の妻たちのことです。彼らまでがパウロたちの方に行ってしまったのです。

 さて、パウロとシラスの行動はユダヤ人たちの目にどのように映ったことでしょう。せっかく会堂に来て律法を学んでいる異邦人をうまい言葉で自分たちの方に引き込んでいるように見えたでしょう。ラビとしての自分の勢力範囲を広げるために、また裕福な婦人たちを騙して金集めをするために動いているように見えたに違いありません。

 そう見えたとしても、ある意味では仕方なかったとも言えます。というのもパウロが宣べ伝えていたのは「神の福音」すなわち「神からの良い知らせ」だったからです。パウロの宣教の中心にあったのは神の恵みによる救いでした。その救いを純粋に福音として語っていたのです。それはガラテヤの信徒への手紙に見るとおり、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)ということだったのです。

 人間の行いによって救われるのではない。十字架にかけられたキリストを信じる信仰によって救われる。そのことを聞いて、神をあがめるギリシア人もおもだった婦人たちも信じたのでしょう。しかし、それは律法を幼い頃から遵守してきたユダヤ人たちからしたらどうでしょう。そんな虫のいい話があるものか。パウロは異邦人の有力者たちにへつらっているだけではないか。ユダヤ人たちが異邦人と全く同じ扱いを受けることは、まことに許しがたいことであったに違いありません。

 パウロやシラスに対する誹謗中傷は、当然パウロが去った後のテサロニケにおいても続いていたことでしょう。テサロニケの教会は、そのような中に置かれているのです。ですからパウロはこう語らざるを得なかったのです。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と。

神に喜んでいただくために
 しかし、それでもなおパウロは「神の福音」を語り続けたのです。どんな誤解を受けようが中傷されようが、神の恵みによる救いを語り続けたのです。なぜですか。パウロはこう言っています。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」(4節)。そうです、福音はゆだねられているからこそ語るのです。神に喜んでいただくために伝えるのです。

 さて、今日、私たちが神の恵みによる救いを伝えることは、この日本の社会においてどのように受け止められるのでしょうか。人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われるのだという言葉は、この国においてどう受け止められるのでしょう。社会が正しく保たれるためには厳しいルールと、そのルールを守らせる権威が必要である。それが今日の流れなのでしょう。そこで神の恵みを強調するならば、宗教の役割は道徳的行動を神の権威をもって要求することにこそあるのではないか!という言葉が返ってくるかもしれません。そんなことを言っているから日本はだめになるのだ、と。

 しかし、私たちはそれでもなお純粋に神の恵みを語ることを恐れてはならないのです。なぜなら、私たちは神から福音をゆだねられているからです。神の恵みにあずかった者だからこそ、神の恵みを伝えることができるのです。恵みによって集められた教会こそが神の恵みを語らなくてはならないのです。

 「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」とパウロは言いました。そのように、伝道というのは神の願い、神の求めに基づくものなのです。「私たちが伝道したいから」というのが伝道の第一の理由ではないのです。私たちが誰かの救いを願う以前に、神御自身がその人を追い求めておられるのです。罪を犯して遠く離れてしまった人間を追い求めておられるのです。そして、恵みをもって救おうとしておられる。神の恵みを伝えようとしておられるのは他ならぬ神御自身なのです。

 思い見れば私たちもそのようにして福音を伝えられたのでしょう。私たちを救う神の恵みを伝えられたのでしょう。私たちに伝えた人は、神を喜ばせるためにそうしたのでしょうか。もしかしたら、そのことを意識していなかったかもしれません。しかし、結果的には神の喜びとなった。そうです、私たちに福音が伝えられ、私たちが福音を聞いたことは、神の喜びだったのです。

 そこでもう一度今日の聖書箇所の冒頭に戻ってみましょう。今日の聖書箇所は、「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」という言葉から始まっていました。そして、2節で「無駄でなかったどころか」と続くのです。しかし、改めて読みますと、この1節と2節は続きが悪いと思いませんか。「無駄でなかったどころか、あなたたち神をあがめるギリシア人の多くが救われたのです」とか、「無駄でなかったどころか、あなたたちのような素晴らしい教会が誕生したのです」と続くなら話は分かります。しかし、そうではないのです。「…激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」とパウロは言っているのです。

 分かりますでしょう。パウロは、ただ「福音を語った」という事実をもって、テサロニケに入って行ったことは「無駄ではなかった」と言っているのです。福音が受け入れられて、誰かが救われて、教会が誕生して、そこで初めて「無駄ではなかった」ということではないのです。

 私たちは福音をゆだねられているから伝道するのです。神に喜んでいただくために伝道するのです。私たち為しえることは、ゆだねられている福音を伝えるところまでなのです。神の恵みを伝えたらよいのです。神の愛を伝えたらよいのです。それがどう受け取られるかは私たちが考えることではないのです。後は聖霊のお働きによって神御自身が人と出会われるのであって、私たちの領域ではありません。神の恵みを福音として純粋に伝えることです。それができたら、それですべては「無駄ではなかった」と言えるのです。神に喜んでいただくためにそのことを行い得たのですから。

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