2013年11月17日日曜日

「人に惑わされないように」

2013年11月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 13章5節~13節


未来を知りたいですか
 「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。そうイエス様は言われました。これは弟子たちの問いに対する答えでした。弟子たちはこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。弟子たち問うているのは「いつ起こるのか」という「時」です。あるいは正確な「時」が分からないとしても、近づいているという「前兆」は知りたい。だから「どんな徴があるのですか」と聞いているのです。それに対してイエス様は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 「いつ起こるのか」という「時」を知りたい。あるいはせめて「前兆」を知りたい。これは要するに「未来を知りたい」ということでしょう。正確にではなくても、ある程度予測できたり見通しが立てられるようになっていたいということでしょう。それは私たちにも分かります。そのような思いは多かれ少なかれ持っていますから。特に将来に不安を抱いている時にはなおさらです。何か恐ろしいことが起こることが予想される時には、未来を知りたくなるものです。

 弟子たちが問うたのは、確かにイエス様が未来に起こる恐るべきことを語られたからでした。それは何か。神殿の崩壊です。弟子たちがエルサレムの神殿を見て感嘆の声を上げた時、イエス様はこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。重なって残る石が全くないほどに徹底的に破壊されるということです。

 普通に見れば、永遠に残ると思えるような建造物です。しかし、崩れるはずがないと思えるものが、実際には崩壊することがある。それがこの世の現実です。イエス様が言われるならば、それは起こりえることだと弟子たちも思ったのでしょう。弟子たちは神殿の終わりだけでなく、世の終わりを考えていたのかもしれません。しかし、世の終わりでなくても、確かに見えるものの崩壊は起こる。実際、彼らが目にしていた神殿は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。この世に確かに残ると言い得るものは何一つありません。

 それは私たちもまた知っています。絶対的な権力によって支配されていた国家の体制が崩壊することがある。それは過去三年の間、北アフリカと中東に見てきたことです。絶対に倒れるように見えない大企業が崩壊することもある。これは過去20年の間にこの国において見せられてきたことです。絶対に安全であると思っていた社会の制度が崩壊することもある。あるいは家庭の崩壊ということも起こり得る。信頼していた人間関係が崩壊することも起こり得る。大きな挫折によって揺るぎない自信が見るも無惨に崩壊してしまうこともある。健康だけが取り柄ですという人の、その健康が崩れてしまうこともある。この世に確かに残ると言い得るものは何一つありません。

 ですから将来が不安になります。人は未来を知りたいと思うのです。先のことが知りたい。あるいはせめて前兆を知って、ある程度予測できるようになりたいと思うのです。しかし、本当は未来を知ることよりも、先の予測ができるようになることよりも、もっと大事なことがあるのです。だからイエス様は弟子たちの問いにそのまま答えられなかったのです。そんなことよりも、もっと大事なことがある。主は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではないのです。そうではなくて、いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。不安だから未来を知りたくなる。しかし、いつ何が起こるかを問題にしている限り不安はなくなりません。問題にしなくてはならないのは、私たち自身のことなのです。

 そこで今日は、特に私たち自身に関わる三つの言葉を心に留めたいと思います。「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。「慌ててはいけない」(7節)。そして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。

人に惑わされないように
 主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。どうしてか。主はこう続けます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(6節)。

 崩れるはずがないと思えるものが崩壊していく時、あるいはそのようなことが起こるのではないかと人々が不安に駆られる時、そこに様々な形において偽のメシアが現れてくるのです。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたようにです。「こっちに来なさい。こちらに救いがあるよ」と言って手招きするのです。

 あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす者が現れる。「わたしがそれだ」というのはユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。そして、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離してしまうのです。実際、恐れに駆られると人間は何にでも考えなしに飛びつきたくなるものでしょう。

 だから主は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。人に惑わされないためには、神ならぬ誰かに惑わされないためには、自らがしっかりと神に向いて生きているということが大事なのです。そのような生活がしっかりと形作られていることが大事なのです。いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てしまうものですから。今、もし平穏無事であり安定の中にいるとするならば、いざという時にではなく、今この時、神に向き神を礼拝して生きる生活を大切にすることです。そうすれば未来に何が起ころうとも、神に向く生活が変わらずそこに残るのです。

慌ててはいけない
 そして、さらに主は言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)。さらにイエス様はこうも言っておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)。戦争だけではありません。地震や飢饉についても語っておられます。そのような具体的な災いがこの世界には起こり得ますし、私たちの人生にも及ぶことがあり得る。他の人に起こったことは我が身にも起こりえることを知っています。それは恐ろしいことです。しかし、主は「慌ててはいけない」と言われる。これは「恐れるな」という言葉でもあります。

 主は「恐れるな」と言われる。どうしてか。イエス様は言われるのです。「まだ世の終わりではない」。原文では「世の終わり」とは書いてありません。ただ「まだ終わりではない」と書かれているのです。もちろん「世の終わり」のことが言われているのでしょうが、大事なことは「世の終わり」のことはさておき、「まだ終わりではない」ということなのです。

 どんなに恐るべきことが起こったとしても、大事なことは「まだ終わりではない」という意識です。「ああ、もう終わりだ」と思えるようなことも人生にはあるのでしょう。しかし、主は言われるのです。「まだ終わりではない」と。終わりではなかったら、まだ途中経過なのです。その先があるのです。その途中経過を見て、恐れたり慌てたりしてはならないのです。

 その途中経過をイエス様は「産みの苦しみ」と表現しました。「産みの苦しみ」をわたしは経験していません。しかし、相当苦しいのだろうということは分かります。しかし、私たちは良く知っているのです。産みの苦しみは最終的な苦しみではないということ。それは途中経過なのでしょう。大きな喜びへと向かう途中の苦しみなのでしょう。

 さらに言うならば、イエス様はそれを「産みの苦しみの始まりである」と表現しました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。「悪い方向に向かっている」ように見えることは私たちの周りにも私たちの人生にもあるではありませんか。しかし、産みの苦しみについては、そうは言いません。産婦は陣痛が大きくなってきたときに、「ああ、私の状態は悪くなっているのだ」と言って絶望することはないでしょう。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。大きな喜びの時が刻一刻と近づいていることを知っているからです。それが産みの苦しみです。だから主は言われるのです。慌てるな。恐れるな、と。

自分自身に目を向けなさい
 そして、さらに主は言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。「気をつける」という言葉は前にも出てきましたが、もともとの意味は「見る」という言葉なのです。目を向けることです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とは、「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」ということでもあるのです。

 ここにおいて語られているのは迫害についてです。主はこう続けます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。会堂で打ちたたかれるとするならば、打ちたたくのは人間です。迫害というものは直接的に人間から与えられる苦しみです。苦しみが人間から来る時には、どうしても直接的に苦しみを与える人間に目が行ってしまうものでしょう。しかし、主は言われるのです。「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」。

 人に目を向けるならば、その人の憎しみや敵意が見えてくる。その人が自分に何をしたかが見えてくる。しかし、自分自身に目を向けるならば、そこで自分が為すべきことが見えてくるのです。何のためにそこに立たされているのか。証しをするためです。主は言われるのです。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)。

 今日、キリスト者であるゆえに迫害されることは皆無とは言えないにせよ、この国に生きる私たちにおいてはそれほど多くはないでしょう。しかし、人から苦しめられることはいくらでもあるに違いありません。不当な苦しみを強いられることはあるでしょう。しかし、見なくてはならないのは彼らではないのです。自分自身なのです。そこで為すべきことは何か。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と主は言われるのです。

 神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださった。神は私たちをそれほどに愛していてくださる。私たちを愛していてくださる神は、私たちの罪を赦し、私たちを必ず救ってくださる。産みの苦しみの向こうに命に満ちた大きな喜びを神は備えていてくださる。そのことを知っている私たちが、希望に満たされて福音を告げ知らせなくてはならないのです。

 さらに言うならば、その主体は私たち自身ではなく神の霊なのです。神が私たちを用いてくださるのです。主は言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。私たちが自分自身に目を向けるなら、どのような状況に置かれたとしても、そこで神が御自分の愛を現すために用いようとしている《わたし》そして《私たち》が見えてくるのです。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではありません。いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。

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