2013年11月10日日曜日

「あなたの神、主を愛しなさい」

2013年11月10日 子ども祝福礼拝説教
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 申命記 6章4節~9節


あなたの神、主を愛しなさい
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(4‐5節)。

 これはモーセの言葉です。モーセの遺言と言ってもよい。なぜなら、モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。一方、イスラエルは、いよいよヨルダンを渡り、約束の地に入ろうとしていました。去りゆくモーセは、これまでの四十年に渡る荒れ野の旅を振り返りながら、切々とイスラエルに語り聞かせるのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。

 「あなたの神、主を愛しなさい」。それは何を意味するのか。そこに至るまでの四十年の荒れ野の旅を思い起こす時に見えてきます。どのような旅であったかは民数記に詳細に描かれていますが、ここではモーセ自身の言葉に耳を傾けてみましょう。約束の地に入ろうとしている人々に次のように語っているのです。

 「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」(9:6‐7)。

 そのように背き続けてきた民が、約束の地を与えてくださるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。彼らは主を愛してはこなかったのです。そうではなくて、主が彼らを愛して来られたのです。その神によって、神の恵みによって、約束の地における新しい生活が与えられるのです。そこで改めて語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。ならばそれは、立ち帰るべき御方に立ち帰って、恵みに応えて生きるということに他なりません。

 しかし、私たちはもう一つのことを考えておく必要があります。話は約束の地を得たところで終わらないということです。私たちは申命記を読んでおりますが、イスラエルの歴史の物語はさらに続くのです。

 ヨシュア記から列王記へと向かう歴史物語は何を伝えているのでしょう。約束の地を得たイスラエルは、やがてそこにおいて王国を形成することになります。しかし、その王国は南北に分裂し、やがて北王国が滅び、南王国も滅んでいくのです。南のユダ王国は滅亡し、主だった人々はバビロンに連れ去られることになる。そこで列王記は終わります。つまりイスラエルは約束の地を与えられたのですが、先に四十年の荒れ野の旅を振り返ってモーセが語ったのと同じように、イスラエルは約束の地においても主に背き続けて、最終的に約束の地を失うことになるのです。

 私たちが読んでいる申命記が今の形にまとめられたのは、そのような時代においてです。そのように約束の地を失った時代に、人々は改めてモーセの説教を聞くことになりました。そこにおいて人々はもう一度聞くことになったのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 ならばそれは何を意味しますか。もう終わりだ、おしまいだ、と思えるようなところにおいて、なお語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。すべてを失ってしまったと思えるようなところにおいて、なお語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。ならば何を意味しますか。終わっていないということでしょう。すべてを失ってなどいないということでしょう。そこには残されているのです。立ち帰るべき御方が残されているのです。愛すべき御方が残されているのです。そうです、そこから主を愛して生きたらよいのです。

 今日は申命記6章をお読みしていますが、30章には次のような言葉が出てきます。 「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(30:1‐3)。さらにこう書かれています。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(30:6)。

 そのとおりに神様は彼らにされたのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。そのようにしてくださった。主は彼らにもう一度語ってくださったのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。だからこそ、今このような形で申命記が残っているのです。

 それは遠い昔の話ではありません。失って初めて気づく。そのようなことが確かに私たちにもあります。神によって恵みとして与えられていた生活が、恵みであると分からない。だから神様に背を向けて、神様に逆らって、神ならぬものを追い求めて、恵みを与えてくださっていた御方をないがしろにしてしまうのです。そのようにして恵みとして与えられていたものを失って初めて気がつくのです。ああ、恵みだったのだ、と。私たちは本当に愚かなものですから、そんなことを繰り返しているのでしょう。あのイスラエルの民のように。

 しかし、そこでなお人は神の呼び声を聞くのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。なぜなら神の愛は失われていないからです。神がそのような神であるからこそ、最終的には独り子をさえ惜しまずに世に与えられたのでしょう。神は御子を十字架にかけることさえなさったのです。御子を私たちの罪の贖いとして、私たちの罪を赦して、私たちが生きられるようにしてくださったのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」と申命記に書かれていたように、そのように主を愛して生きられるようにしてくださったのです。だからこそ、私たちは今ここにいるのではありませんか。

語り聞かせなさい
 この大いなる恵み。「あなたの神、主を愛しなさい」となおも語られていることの大いなる恵み。この恵みをこそ、伝えていかなくてはならないのです。次の世代に語り伝えていかなくてはならないのです。今日の聖書箇所は次のように続きます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6‐7節)。

 私たちが子供たちに語らなくてはならないのは、自分たちの要求や希望や願望ではないのです。私たちが本当に伝えなくてはならないのは、神の恵みなのです。今もなお「あなたの神、主を愛しなさい」と言ってくださっている神の恵みなのです。主を愛して命を得ることができるようにしてくださっている神の恵みなのです。

 しかも、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」とあります。そこまで言うか、と驚きを覚えます。しかし、モーセにこのことを語らせているのは、他ならぬ神の熱情なのです。神御自身がどれほど子供たちのことを考えておられるか、どれほど子供たちに伝えて欲しいと思っておられるか、ということでしょう。

 今日は「子ども祝福礼拝」です。先ほど、一人一人の子供たちの名を呼んで、彼らの上に神の祝福を祈り求めました。しかし、私たちが子供たちの上に祝福を願う以上に、神御自身がそのことを望んでおられるのでしょう。子供たちが、主を愛して命を得るようにと願っているのは、他ならぬ神御自身なのです。だからこそ、その御方は言われるのです。「これを語り聞かせなさい」と。

 そのように神の恵みを伝えるためには、まず私たち自身が繰り返し思い起こすことが必要なのでしょう。ですから、モーセは次のように語ります。「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(8‐9節)。

 私たちがどれほど大きな愛をもって愛されているか、どれほど大きな愛をもって主は私たちの神となっていてくださるのか、どれほど大きな愛をもって、「あなたの神、主を愛しなさい」と語られているか、私たちは忘れてしまいやすいのです。人間はそれほどに愚かなものなのです。主がエジプトから導き出してくださっても、また約束の地に導き入れてくださっても、それほどまでに大きなことをしてくださっても、人は忘れてしまうのです。その恵みに基づく命令を忘れてしまうのです。だから「自分の手に結んでおきなさい。額に付けておきなさい。戸口の柱にも門にも書き記しておきなさい」とまで言われなくてはならないのです。

 そのような神の民の愚かさはイエス様御自身もよくご存じだったのでしょう。ですから、イエス様もこう言われたのです。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。そう言って、裂かれたパンを渡されたのです。ご存じでしょう。最後の晩餐での出来事です。「記念として行いなさい」。そのことを繰り返し行わなかったら、忘れてしまうから。イエス様が自らの体を裂いて渡されるようなことをされたとしても、それすらも忘れてしまうのが人間だからです。

 ですから、教会はイエス様を記念してパンを分かち合うことを行ってきたのです。それを二千年間、繰り返し行ってきたのです。ですから、この礼拝堂にも聖餐卓が置かれています。その背後には十字架があるのです。しかも、聖餐は単なる「しるし」ではありません。聖霊のお働きによって、そこにキリストが現臨してくださるのです。キリストが現に私たちに触れてくださり、キリストの贖いの恵みに、現実に繰り返し私たちは与るのです。そうまでしなければ、私たちは忘れてしまうのでしょう。私たちはここにおいて思い起こさなくてはならないのです。キリストの体と血とに与りながら、思い起こさなくてはならないのです。神の愛を思い起こさなくてはならないのです。そして、神を愛して生きることへの招きを思い起こさなくてはならないのです。

 今日はこうして子供たちと共に礼拝を捧げました。心を合わせて子供たちのために祈りました。そのような私たちに必要なことは、まず私たち自身が神の恵みを思い起こし、立ち帰り、「あなたの神、主を愛しなさい」という呼びかけに応えてここから生き始めることです。そして、「これを語り聞かせなさい」という主の求めを、何よりも大事なこととしてしっかりと受け止めることなのです。

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