2013年11月24日日曜日

「人間にできなくても神にはできる」

2013年11月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章17節~31節


何をすればよいのでしょうか
 イエス様は弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうしてイエス様がこんなことを言われたのかは、今日朗読された話の流れから明らかでしょう。その直前に、財産のある人とイエス様が話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めてイエス様のもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼は多くの財産を持っている人でした。しかし、自分が生きて最終的に残るのがこの世の財産しかないならば、それは実に空しいことだと分かっていたのでしょう。彼が求めたのは死をもっても失われないもの、世の終わりにおいても失われないものでした。最終的な神の救い、神の国、永遠の命。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。その問いを持って彼はやってきた。それは彼の人生をかけた切実なる問いだったのです。

 「何をすればよいのでしょうか」。そうです。彼はこれまで自分にできることをやってきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。イエス様が「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えたのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」子供の時から守ってきた。何のためですか。神の救いを得るためです。永遠の命を受け継ぐためです。しかし、彼にはそれで十分だとは思えませんでした。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。

 イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。このイエス様の言葉は救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明します。そこでイエス様は弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

財産のある者が神の国に入るのは
 厳密に言いますと、この「財産」という言葉と22節の「財産」とは元の言葉が異なります。「財産のある者が」とイエス様が言われた時の「財産」は、もともとは「使う」という言葉に由来します。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは要するに必要に応じて使うことができるものをたくさん持っていたということです。欲しいものがあれば、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと。だから彼は子供の時から律法を守ってきたのです。それは永遠の命を得るために「使えるもの」だったからです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。22節のいわゆる「財産」の他、幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い。これもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうと思っていたのです。彼がそうしたがっているので、イエス様はそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいと思っているなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。そこで彼は悲しみながら去らざるを得なくなりました。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです人間にはそれができると考えていたことです。

人間にできなくても神にはできる
 今日の説教題は「人間にできなくても神にはできる」です。これは27節のイエス様の言葉から取りました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。

 「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。イエス様がこう言われたのは弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということでしょう。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。本当に「神にはできる」に行き着くのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時なのです。ですからイエス様は別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能をどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神は救い主をお遣わしくださいました。神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を赦して永遠お命を与えることがおできになります。神は罪人を救うことができるのです。そうです、神にはそれができる。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られたイエス様は、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

わたしのためまた福音のため
 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」とイエス様が言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 当然考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。イエス様が単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が今度はペトロが「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、こう続けられています。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 イエス様はペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 イエス様は「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。イエス様の故にとはどういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れだったのです。私たちを救うことができる神の一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。そのイエス様のためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。主はご存じなのです。しかし、彼らは救いを得るために犠牲を払う必要はないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。救いはただ神によるのです。これらはただ神の一方的な恵みによって罪を赦され救われたことへの応答として出てくることなのです。「イエスのために福音のために」。それに対して、イエス様はこう言われました。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく恵みに応えて行ったことが結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、それは「神にはできる」と言って救いを成就してくださった神の恵みへの応答として行うのです。ならば大事なことは恵みを知ることなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。わずかなものを手放しても、いつまでも惜しんでいるようなことが起こります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」はそこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」。

2013年11月3日日曜日

「失われることのない希望」

2013年11月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 1章1節~9節


喜びをもって生きる
 今日共にお読みしましたのはペトロの手紙です。冒頭にありますように、これはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられた回覧状です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあったことが分かります。具体的には迫害の苦しみの中にあったということでしょう。彼らは、キリスト者であるというだけで、非難や中傷、不当な扱いを耐え忍ばねばなりませんでした。そのような人々を励まし、適切な指示を与えるために、この手紙は書かれたのです。

 しかし、そのように苦しみの中にある人々に書かれた手紙であるにもかかわらず、その文面からは暗く重苦しいものは全く伝わってきません。むしろ伝わってくるのは底抜けた明るさです。ペトロは苦しみの中にある人々に「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)と書き送るのです。さらに彼はこう書いています。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」(6節)。そして、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(8節)と書いているのです。

 これは私たちに何を示していますか。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできるということです。人は置かれている環境や境遇によってどう生きるかを決められる必要はないということです。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はないということです。他の人が何をしようが、何が起ころうが、人は喜びを持って輝いて生きることができるのです。

生き生きとした希望
 ではどうしたら、そのように喜びを持って生きられるのでしょう。彼らが持っていたのは何だったのでしょう。それは希望です。新共同訳の小見出しにもなっている「生き生きとした希望」です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。これが彼らの喜びの源なのです。

 「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。味わい深い表現でしょう。わざわざ「生きている希望」と書かれていることは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのではありませんか。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を与え」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかった。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても神にとっては終わりではなかったからです。そうです。人間にとってピリオドであっても、神にとっては一つのカンマに過ぎないのです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によって。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何ですか。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることのできる御方なのです。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まったのです。ただ神によって。そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではなかったのです。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのでしょう。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。一般的にはどうですか。死によって未来が失われるのでしょう。死は未来を奪うのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということではありませんか。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、一般的に言うならば、未来を失っていくということではありませんか。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来があるのです。それをペトロは次のように表現しているのです。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)。

 死の先は私たちの想像を超えた未来です。ですから、ある意味で「財産」という陳腐な言葉をもってしか表現できない。そのように、私たちには思い描くことさえできないわけですが、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来であることに間違いはありません。

 そのように、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。死の床においてもなお、期待をもって最後まで生きることができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。そうです、人は人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで喜びをもって生きることができる。輝いて生きることができる。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

わたしたちを新たに生まれさせ
 しかし、そのように生き生きとした希望に生きるために、なお大事なもう一つのことがあります。今、神が「生き生きとした希望」を与えてくださった、と言いました。生きている希望は神から来る。ならば人生において決定的に重要なことは、その神との関係がどうなっているかということです。もし神との関係が悪いままであるならば、人は喜ばしき未来を期待できるでしょうか。最終的に人生最後の時にも、死の向こう側になお喜ばしき未来を期待できるでしょうか。できないだろうと思うのです。大事なのは神との関係なのです。神との関係が悪ければ、神がおられることは希望につながらないのです。そのままでは「生き生きとした希望」に生きることができないのです。

 だからこそ、神はこの世にキリストを遣わされたのです。私たちと神との関係を良くするためです。どのようにして、関係を良くするのでしょう。独り子なるイエス・キリストを十字架におかけになり、私たちの罪の贖いとすることによってです。神の側から私たちに対して、罪の赦しを宣言することによってです。そのようにして、神に愛されている子どもとして私たちが新しく生きることができるようにしてくださったのです。親子の関係という、この上ない良い関係に生きられるようにしてくださったのです。

 それを聖書はこのように表現しているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3節)。そのように、どんな人であっても、新しく生まれた神の子どもとして生き始めることができるのです。これまでがどうであったかが問題ではないのです。いつでも大事なのはこれからどう生きるのかです。「生まれる」とはそういうことでしょう。そこからがスタートなのです。人は神の子どもとして生き始めることができるのです。それはまさに福音です。良き知らせです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。良き未来を待ち望む喜びをもって生きることができるのです。苦しみの中にあってもなお人は喜びを持って生きることはできます。暗闇の中にあっても人は輝いて生きることはできます。置かれている環境や境遇によって人生を決められる必要はありません。他の人が何を言うか、他の人が何をしてくるか、そんなことで私たちは暗い人生を強いられる必要はありません。神を見上げ、信仰によって神の子どもとして希望をもって生きることができるのです。

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