日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章17節~31節
何をすればよいのでしょうか
イエス様は弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうしてイエス様がこんなことを言われたのかは、今日朗読された話の流れから明らかでしょう。その直前に、財産のある人とイエス様が話をしていたからです。
その人は神の救いを求めてイエス様のもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼は多くの財産を持っている人でした。しかし、自分が生きて最終的に残るのがこの世の財産しかないならば、それは実に空しいことだと分かっていたのでしょう。彼が求めたのは死をもっても失われないもの、世の終わりにおいても失われないものでした。最終的な神の救い、神の国、永遠の命。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。その問いを持って彼はやってきた。それは彼の人生をかけた切実なる問いだったのです。
「何をすればよいのでしょうか」。そうです。彼はこれまで自分にできることをやってきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。イエス様が「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えたのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」子供の時から守ってきた。何のためですか。神の救いを得るためです。永遠の命を受け継ぐためです。しかし、彼にはそれで十分だとは思えませんでした。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。
イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。このイエス様の言葉は救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明します。そこでイエス様は弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。
財産のある者が神の国に入るのは
厳密に言いますと、この「財産」という言葉と22節の「財産」とは元の言葉が異なります。「財産のある者が」とイエス様が言われた時の「財産」は、もともとは「使う」という言葉に由来します。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは要するに必要に応じて使うことができるものをたくさん持っていたということです。欲しいものがあれば、彼は財産を使うことができるのです。
しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと。だから彼は子供の時から律法を守ってきたのです。それは永遠の命を得るために「使えるもの」だったからです。
その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。22節のいわゆる「財産」の他、幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い。これもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうと思っていたのです。彼がそうしたがっているので、イエス様はそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいと思っているなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。そこで彼は悲しみながら去らざるを得なくなりました。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです人間にはそれができると考えていたことです。
人間にできなくても神にはできる
今日の説教題は「人間にできなくても神にはできる」です。これは27節のイエス様の言葉から取りました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。
「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。イエス様がこう言われたのは弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということでしょう。
「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。本当に「神にはできる」に行き着くのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時なのです。ですからイエス様は別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。
そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能をどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神は救い主をお遣わしくださいました。神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を赦して永遠お命を与えることがおできになります。神は罪人を救うことができるのです。そうです、神にはそれができる。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られたイエス様は、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。
わたしのためまた福音のため
しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」とイエス様が言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。
当然考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。イエス様が単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が今度はペトロが「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、こう続けられています。「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。
イエス様はペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主はこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。
イエス様は「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。イエス様の故にとはどういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。
先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れだったのです。私たちを救うことができる神の一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。そのイエス様のためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。
実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。主はご存じなのです。しかし、彼らは救いを得るために犠牲を払う必要はないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。救いはただ神によるのです。これらはただ神の一方的な恵みによって罪を赦され救われたことへの応答として出てくることなのです。「イエスのために福音のために」。それに対して、イエス様はこう言われました。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく恵みに応えて行ったことが結局は報いを受けるのです。
そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、それは「神にはできる」と言って救いを成就してくださった神の恵みへの応答として行うのです。ならば大事なことは恵みを知ることなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。わずかなものを手放しても、いつまでも惜しんでいるようなことが起こります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」はそこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」。