2013年10月13日日曜日

「与えられているものを生かしていますか」

2013年10月13日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章7節~11節

    マタイによる福音書 25章14節~30節

神のさまざまな恵みの善い管理者として
 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」(1ペトロ4:10)と語られていました。それは「賜物」です。私たちが何かをしたことに対する報酬ではありません。何もしないうちに神が備え、与えてくださった「賜物」です。ですから「神のさまざまな恵み」と言い換えられています。「さまざまな恵み」ですから一種類ではありません。自分に与えられているものと他の人に与えられているものは異なるのです。他の人に与えられているものが自分には与えられていない。しかし、他の人に与えられていないものが自分には与えられている。どちらも「恵み」であり「賜物」です。

 私たちはとかく他の人に与えられていて自分に与えられていないものばかりが気になります。ですから、「わたしには何も与えられていない」などと言い出す人もいる。しかし、それを本当に神様に向かっていえますか。わたしは何ももらっていません、と。言えないだろうと思うのです。私たちは、それぞれ、恵みとして与えられているものがある。「賜物」が与えられているのです。

 そこで重要なことは、善い管理者となることです。そう書かれていましたでしょう。「神のさまざまな恵みの善い管理者として」と。管理者はオーナーではありません。先ほどから「与えられている」という言い方をしていますが、正確に言えば「託されている」ということです。管理者なのですから。期間限定で託されている。やがてはすべてをお返しするのです。それが私たちの人生です。

 期間限定で託されているに過ぎないものをお互いに比較しても大した意味はありません。誇ることも卑下することも意味のないことです。いずれにせよやがてはお返しするものですから。大事なことは、とにかく自分に託されているものを管理することです。善い管理者となることです。それが私たちの人生の課題です。

 託してくださった神様が喜ばれるように管理するとはどういうことでしょう。管理者には何が期待されているのでしょう。「その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書かれています。これが神様の望んでおられることです。最終的に問われるのは、どれだけ他者のために用いることができたか、お互いのために用いることができたか、ということです。それをもって、どれだけ人に仕えることができたか、ということです。

 世の中には、「わたしは満足です。幸せな人生でした。もういつ死んでも思い残すことはありません」とおっしゃる方もいます。言葉だけの人もいるでしょうが、本気でそう言うことのできる人もいないわけではない。しかし、善い人生であったかを計る尺度は、どれだけ自分を満足させられたかではありません。どれだけしたいことができたかではありません。どれだけ幸福であったかでさえありません。神の判断において重要なのは別のことです。主は言われるでしょう。「満足でしたか。幸せでしたか。それは結構なことです。しかし、あなたは賜物をどれだけ他者のために用いましたか。それを互いに仕えるために生かしましたか。」

 逆に言えば、苦難に満ちていたとしても、人から何一つ評価されることがなかったとしても、あるいは何もかもが中途半端に終わるように見えたとしても、それで人生が無意味になるわけではない、ということです。そこで自分の賜物を精一杯用いたならば、他者のために用いたならばそれでよいのです。神様にとって重要なのはそのことなのですから。この手紙を書いたペトロにしても、あるいはパウロにしても、この世においては決して絵に描いたような幸福な人生を全うしたわけではありません。晩年は獄中での生活でした。しかし、そこにあっても善い管理者として生きた。それでよかったのです。

忠実な良い僕だ。よくやった。
 そのように、重要なのは託されているものが何であるかということよりも、どう管理するか、どう用いるかなのです。そのことをイエス様はたとえ話を用いて生き生きと描き出しています。

 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:14‐15)。

 先ほどのペトロの手紙ですと「さまざまな恵み」となっていましたけれど、イエス様のたとえ話では、これが「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」として表現されています。こちらの方が私たちにはピンとくるかもしれません。「あなたと他の人では異なる恵みが与えられているのですよ」と言われれば分からないことはないのですが、やはり与えられている量が違うと私たちには感じるではないですか。あの人には多く与えられているけれど、わたしには少ししか与えられていない、というように。「五タラントン」と「二タラントン」の方が確かに私たちの感覚に近いようです。ですから時として神様は不公平に思えることもあるのでしょう。

 しかし、ここでイエス様は「それぞれの力に応じて」という一言を忘れません。つまりある人に「五タラントン」、ある人に「二タラントン」を託したのは、主人の気まぐれではないということです。しっかり見て、考えた上で、「五タラントン」にし「二タラントン」にしたということです。私たちにおいて「さまざまな恵み」が与えられる時も同じだということでしょう。私たちを知った上で、神様のお考えに基づいて、信頼して、それぞれ異なる賜物を与え、異なる恵みの管理を託されるのです。

 いずれにしても、あくまで期間限定です。「旅に出かけた」のですから、出たままではありません。必ず帰ってくるのです。必ずお返ししなくてはならない時が来るのです。そして、どう用いたかが問われる時が来るのです。ですから、イエス様の話においても、「その時が来た」という展開になっているのです。

 さて、主人が帰ってきました。その場面でのやりとりをもう一度読んでみましょう。「まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」(同20‐23節)。

 これを読んですぐに気づきますのは、僕の報告はそれぞれ異なるけれど、それに対する主人の言葉は同じだということです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。原文においても一言一句同じです。一人は五タラントンもうけた。一人は二タラントンもうけた。しかし、主人にとっては五タラントンだろうが二タラントンだろうがどうでもよいのです。主人が喜んでいるのは「忠実な良い僕」だということなのです。

 忠実な良い僕というのは、主人が望んでいることを行う僕です。主人である神様が望んでおられることって何ですか。先ほどのペトロの手紙にありました。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。

 ある人は託されているものを用いて大きなことをするのでしょう。ちょうど五タラントンもうけた人のように。ある人は様々な制約のもとにあって地味な小さなことをして一生を終えるのでしょう。二タラントンもうけた人のように。しかし、神様にとってはどちらでもよいのです。託されているものを神様の喜ぶように用いさえしたならば。言ってくださる言葉は同じです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。

タラントンを土に埋めた人
 ところで、ここには一タラントンを託された僕も出てきます。彼の言葉を聞いてみましょう。「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』」(同24‐25節)。そして、この僕は主人から「怠け者の悪い僕だ」と叱られて、厳しい裁きを受けることになるのです。

 さて、この僕はそんなに悪いことをしたのでしょうか。そうは見えないでしょう。預かった金はちゃんと返したのですから。しかし、イエス様の言わんとしていることは明確です。大事なのは「用いたかどうか」だということです。用いないということは、神の目にそれほど大きなことなのだ、ということなのです。

 どうして用いることができなかったのでしょう。どうして土に埋めてしまったのでしょう。それは「成果こそがすべてだ」と思っているからです。主人は成果をこそ求め、成果をもって評価すると考えているからです。主人は「刈り取り」「かき集められる厳しい方」だ、と。

 そもそも「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」という言葉はどこから来るのでしょう。それは、「自分のところには蒔かれていない。自分のところには散らされていない」という意識から来るのでしょう。「あの人には五タラントン分蒔かれていますよ。あの人には二タラントン分蒔かれていますよ。でも、私にはせいぜい一タラントンだ。それなのに成果ばかり求められる。蒔いたものに見合わないものを刈り取ろうとされる。ひどい主人だ。」――そんな思いが見え隠れしませんか。

 しかし、神様に対してそんなことを思っていたら、生かせるものも生かせやしません。不平や不満ばかり言っていたら、用い得る得るものさえも用いることができません。大事なことは成果ではないのです。用いることなのです。神様が喜ばれるような仕方で。それは「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」ということです。託されたのが一タラントンだっていいではないですか。神様の喜びを思って用いたならば、主は最終的に言ってくださるでしょう。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と。

2013年10月6日日曜日

「キリストの命によって結ばれて」

2013年10月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~26節


 今日は世界聖餐日です。世界中の多くの教会が私たちと同じように聖餐を行っていることを思いながら私たちも聖餐にあずかります。聖餐式は、主が弟子たちと食された最後の晩餐に由来します。今日はその聖書箇所が読まれました。

引き渡される夜
 今日読まれた聖書箇所には、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り…」と書かれていました。最後の晩餐がなされた夜、それは「引き渡される夜」と表現されています。イエス様が裏切られた夜です。神の御子が銀貨30枚で売り渡されることになる夜です。

 その食事が行われたのが「夜」であったというのは、ある意味でとても象徴的です。それは闇に覆われた世界のただ中で行われた食事でした。この食事から始まって、福音書が描き出す一日の出来事は、まさにこの世の暗闇が何であるかを描き出していると言えるでしょう。神の愛を語り、神の愛を現されたイエス・キリストは、この数時間後に捕らえられることになります。神が遣わされた独り子は、人間による不当な裁きによって死に定められます。唾をかけられ、鞭打たれ、卑しめられ辱められ、十字架を負わされ、その十字架に釘づけられ、殺されることになるのです。

 人はこの世のありさまを見て「暗い世の中だ」と口にします。降りかかってくる災いの中で「暗い人生だ」と思うこともあるのでしょう。しかし、この世界の本当の暗さは神の愛に背を向けているゆえの暗さなのです。神の光に対して自らを閉ざし、自らを暗闇に閉じ込めてしまっている暗さなのです。愛の源であり命の源である神に背を向けるならば、罪と死が支配することになるのです。この世界はそのように罪と死が支配する世界であったし、今日もなおそのような「夜」を私たちは生きているのです。

 そのように、闇に覆われた夜の世界のただ中で、主は最後の晩餐を弟子たちと共にしておられました。その後にご自分の身にどのようなことが起ころうとしているかもご存じの上で、主はパンを手に取られたのでした。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り」――そして聖書はこう続けます。「感謝の祈りをささげてそれを裂き…言われた」。主は「感謝の祈り」をささげて弟子たちにこう言われました。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:24)。また、杯も同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(同25節)。

 イエス様は十字架へと向かっておられました。自分自身の死の時が刻一刻近づいていることを知っていました。しかし、主は終わりへと向かっていたのでも、終点に立っていたのでもありませんでした。主は始まりを思っていたのです。始まりを感謝し、祝っていたのです。主は確かに新しいことが始まっているのを見ておられた。十字架の死において、最終的に勝ち誇るのは罪でも死でも悪魔でもないのです。それは新しい神の御業の始まりなのです。ですから主は感謝をささげながらパンを裂きました。それはユダヤ人が食事においては必ず捧げるいつもの感謝の祈りだったのでしょう。しかし、そこで感謝し祝われていたのは、新しい始まりを告げる食事だったのです。

 そこにおいて始まっている新しい神の御業。それを主は「新しい契約」と呼びました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。」新しいことが始まり、それが続いていくのです。ですから、これからのことを主は弟子たちに語るのです。「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と。

 主が十字架で流される血によって、新しい契約が立てられると主は言われました。それは、神と人との新しい絆です。それは神がかつて預言者エレミヤを通して語られたことの実現に他なりませんでした。エレミヤ書には次のように書かれています。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)。

 そのように主の流された血によって、新しいイスラエル、新しい神の民が生み出されようとしていたのです。新しい契約の民が生み出されようとしていたのです。そこにおいて、エレミヤを通して主が語られたように、「わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる」ということがまさに実現しようとしていたのです。あの夜、そして続く十字架の出来事において、この暗闇の覆った世界のただ中で、本当に小さくですが、誰にも知られないような小さな出来事としてでしたが、確かにそこに神による新しい始まりがあったのです。

 そして、今日、私たちがここにいるということは、主を記念して聖餐を行うこの場にいるということは、あの日始まったことに、主の御業に、私たちもまた与っているということなのです。神が私たちに対しても、「わたしはあなたの神である。あなたはわたしの民である」と言ってくださるのです。

主の死を告げ知らせる
 そして、私たちがこうして神の民とされ、繰り返し聖餐を行う教会としてこの地上に置かれていることには、主の目的があるのです。聖書には何と書かれているでしょうか。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)。そうです、教会は聖餐を代々に渡って行いながら、主の死を告げ知らせてきたのです。私たちも繰り返し聖餐を行いながら主の死を告げ知らせることを続けていくのです。それが教会なのです。

 「主の死を告げ知らせる」とはどういうことでしょう。イエス・キリストが十字架にかけられて死んだということを告げ知らせることは何を意味するのでしょう。それは第一に、この世界が御子を十字架にかけた世界であることを告げ知らせることを意味します。この世界は神の救いの御手を拒否した世界であり、神の愛を決定的な仕方で拒否した世界であるということです。この世界は神の愛に背を向けた世界であったし、今もそうあり続けているということです。そして、神の愛に背を向けた暗闇は、外なる暗闇であるだけでなく、私たちの内なる暗闇でもあるということです。私たちは確かに神に背を向けた世界に生きているし、その世界と一つとなって生きてきたのです。そのように「主の死」は神に背を向けたこの世界の罪、そして私たちの罪を指し示します。「主の死を告げ知らせる」とはこの世界の罪、私たちの罪を告げ知らせることを意味するのです。

 しかし、「主の死を告げ知らせる」ということは、それだけに留まりません。「主の死」は、そのように神の愛に背を向けたこの世界に対する神の愛、私たちに対する神の愛をも指し示しているのです。神は御自分に背いたこの世界にあえて御子を送られました。御自分に背いたこの世界の罪を贖うために独り子を犠牲にされたのです。「主の死を告げ知らせる」とは、神の愛を告げ知らせることでもあるのです。

 この世界は罪の贖いの十字架が立てられた世界です。この世界は贖いの血が流された世界です。この世界が今もなお神に背を向け続け、暗闇の中に留まっているとしても、そして、現実に暗闇の中に滅びていくようにしか見えない世界であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。なぜなら主はこの世の罪のために死なれたのだから。たとえこれまで神に背を向け、今もなお神に背き続けている人がいたとしても、今までずっと神の光に自らを閉ざして暗闇の中を生きてきた人であったとしても、決して神から見捨てられてはいないのです。主はその人のためにも死なれたのだから。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、私たちをどこまでも追い求め、どこまでも関わり続ける神の愛を告げ知らせることに他ならないのです。神はこの世界をあきらめてはおられない。神はいかなる人についてもあきらめてはおられない。神は関わり続けられるのです。いつまで。世の終わりまで。だから「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と書かれているのです。

 そのように「主の死を告げ知らせる」ということは、神の愛を告げ知らせることであるのですから、それはまたこの世界に希望を告げ知らせることでもあるのです。神が愛して独り子を送られた世界であるならば、この世界を覆う暗闇は永遠に続くことはないのです。闇には終わりがあるのです。夜は終わるのです。「主が来られるときまで」と書かれているとおりです。そう、主が来られる。それは夜明けの到来です。朝が来るのです。同じ闇夜であっても、夜中の十二時と夜中の三時では意味合いが違います。その暗さを私たちは区別することができないかもしれません。夜中の三時の方が、夜中の十二時よりも暗いかもしれません。しかし、確実に夜明けは近づいているのです。そのことを私たちは告げ知らせる。「主の死を告げ知らせる」とはそういうことです。


 「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」そのように言われた主の御言葉に従って、私たちは聖餐を行います。主の死を告げ知らせる教会として。今日は世界中の教会と共にということを意識して聖餐を行います。これは新しい契約です。既に新しいことが始まっています。この世界に、そして私たちの人生に。キリストの流された血によって結ばれて、キリストの命によって結ばれて、私たちが今こうして共にいることがそのしるしです。

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