2013年9月29日日曜日

「先に神の国に入る人たち」

2013年9月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21章18節~32節


 今日の福音書朗読においては三つの話が読まれました。その一つ目は、イエス様がいちじくの木を枯らした話です。イエス様がなさった奇跡の物語は福音書に数多く記されていますが、この話は明らかにそれらの中でも異質です。イエス様がいちじくの木を呪うと、木が枯れてしまった。実がなっていないからと言っていちじくの木を呪ったこと自体に違和感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、問題はその続きです。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねた弟子たちにイエス様はこう答えるのです。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(21‐22節)。

 「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく…」と主は言われるのですが、そんなことできるようになりたいと思いますか?木を呪うとたちどころに木が枯れる。人間に対して破滅と滅亡を宣言するとそのとおりになる。そんな力が欲しいですか?仮にそのような人がいたとします。そう思う人がイエス様の言われるとおり、「求めるものは何でも得られる」ことになったらどうなりますか。それはそれで大変なことになるでしょう。その人は世界で最も危険な人物となるに違いありません。しかし、そのような話が福音書の中に書かれているのは紛れもない事実です。弟子たちがこの話を語り伝えたからです。ならば、それはなぜなのか。そのことを私たちはよくよく考えなくてはならないのです。

だれがその権威を与えたのか
 そこで注目したいのは書き出しの言葉です。「朝早く、都に帰る途中」と書かれています。宿泊しているのはベタニアです。そこからエルサレムに向かっていた。それは神殿に行くためです。いちじくの木を枯らした話は、その途中での出来事なのです。

 そこで神殿での出来事を先に見ておくことにしましょう。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。これが二つ目の話です。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(12‐13節)。

 神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人は、何も無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまいました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威を与えたのか」と。

 この問いに対するイエス様の答えは明らかです。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は直接彼らの質問には答えませんでした。逆に彼らに問い返されたのです。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。

 「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。このヨハネとはイエス様の先駆者です。道備えをするために遣わされた人です。彼は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えた。ヨハネは人々が神に立ち帰り、神の前にへりくだって自分の罪を認め、赦しを求め、新しく生き始めることを求めたのです。そして、夥しい数の人々がヨハネのもとに行き、洗礼を受けました。

 しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。行かなかった人もいたのです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある人々です。その権威をもって人々を教え諭し、あるいは裁きを行ってきた人たちです。そのような人たちは自分が罪人であることを認めてヨハネのもとに行こうとはしなかった――分かるような気がしませんか。イエス様は彼らがヨハネのメッセージを受け入れなかったことを知ってしました。ですからこう問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。

 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らはただちに「神を冒涜した」と言って逮捕するつもりだったのでしょう。そのような彼らの悪巧みをイエス様はもののみごとに退けました。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで話を終わりにして良かったのです。しかし、イエス様は彼らを去らせませんでした。今度は主が彼らに問いかけます。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。今日お読みした三番目の話です。

徴税人や娼婦たちの方が先に
 たとえ話は至って単純です。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。これだけを聞きますと要するに「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という教訓話に聞こえます。そして、実際に祭司長たちにせよ民の長老たちにせよ、行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守って生きることが大事だと。だから律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。ですから主が「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問うた時、彼らはきっと自分自身と重ね合わせながら自信をもって答えたのです。「兄の方です」と。

 ところがイエス様が続けて語られたことは、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。

 そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。

 徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求めてヨハネのもとに行った。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。

 一方、祭司長や民の長老たちは、世間的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」です。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心では分かっていたのかもしれません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったということです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。

いちじくを枯らした方の言葉
 さて、ここで最初の話に戻ります。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」と宣言された方は、その朝にいちじくを枯らした御方だということです。

 話の流れから考えると、この最初の話においても重要なのはイエス様の権威であることがわかります。ここではいちじくですが、そのいちじくを罪に定める権威がここで話題となっているのです。木を罪に定めるというのは奇妙に思えるかもしれません。しかし、いちじくの木は旧約聖書においてぶどうの木と並んでイスラエルを象徴するものなのです。ならばそれ自体が極めて象徴的な行為です。同じことがイスラエルに対しても行えるということです。人間に対しても行うことができる御方だということです。すなわち神の裁きを宣言し、滅ぼすことのできる御方だということです。ちょうどあのいちじくの木を枯らしたように。

 しかし、罪に定めて滅びを宣言する権威をお持ちだということは、罪の赦しを宣言して救う権威も持っているということでもあるのです。裁きの権威を持たない者は赦しを宣言することもできませんから。そのように裁きの権威を持ちの方がこう宣言しておられるのです。「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう」。主は神に立ち帰り赦しを求める者に、赦しと救いを宣言されるのです。

 そして、もう一つ注目すべきことがあります。イエス様はいちじくの木に対して行ったことを、実際に人間に対しては行わなかったということです。

 「だれがその権威を与えたのか」と問う人たちが、自分たちの権威をもって何をしようとしているのか、イエス様はご存じでした。やがて祭司長や民の長老たちは、自分たちの権威と力をもってイエス・キリストを逮捕し、彼らの権威のもとに裁判にかけ、彼らの権威によって断罪し、ローマの権威に訴えて十字架にかけ、殺すことになるのでしょう。しかし、ゲッセマネの園で逮捕された時も、裁判にかけられている時も、鞭打たれている時も、十字架につけられた時にも、主はそのすべてを覆して、彼らを滅ぼすことがおできになるのに、そうしなかったのです。主はただ黙々と人間の罪を背負って罪の贖いの犠牲として死なれたのです。主は御自分に与えられた権威を滅ぼすためではなく、救いの門を大きく開くためにお使いになられたのです。その主が言われるのです。

 「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入るだろう。」

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