2013年5月26日日曜日

「あなたは祝福されています」

2013年5月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節


神をほめたたえて生きる
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(1:3)。今日の聖書朗読は、そのような言葉で始まっていました。パウロは神を讃美しているのです。神を讃美しながら、これらのことを書いているのです。ここに書かれているのは、神が私たちのためにしてくださったことです。その合間にこう書かれています。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12節)。「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。神の御業はすべてここに向かっていたのです。神が私たちのためにしてくださったすべては、私たちが神を讃美する民となるためなのです。

 信仰生活とは、神をほめたたえて生きる生活です。喜びの中にあって神を賛美し、悲しみの中にあっても神を賛美し、豊かさの中にあって神を賛美し、困難と窮乏の中にあって神を賛美し、健康な時に神を賛美し、病気の床において神を賛美して生きる。そのような生活です。ちなみに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と書いているパウロは、獄中からこれを書き送っているのです。獄中において神を賛美しているのです。

 この世界は変わります。私たちの置かれている状況も刻一刻と変わっていきます。そうです、すべては変わっていきます。しかし、信仰をもって生きるということは、神を賛美し神を礼拝するという、私たちの人生を貫く変わらざる一本の太い柱を持つことです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。

 そのように、いかなる時にも神を賛美して生きるためには、神がいかなる御方であるかを良く知らなくてはなりません。神が何をしてくださったのかを知らなくてはなりません。そして、知ったなら、それを忘れてはなりません。常に意識して生活することです。そのためにも、今日のような箇所が繰り返し読まれるということは、私たちにとって大事なことなのでしょう。

一方的な恵みにより
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。そのように私たちがほめたたえて生きるその神はいかなる神であるのか。キリストにおいて、私たちを祝福してくださった神だと書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(1:3)。

 神は祝福してくださいました。私たちは祝福されているのです。既に、天のあらゆる霊的な祝福をもって祝福されているのです。それは天に属するものです。神のみが与えることができる祝福です。「霊的」とはそういうことです。「霊的」という言葉と「精神的」という言葉を混同してはなりません。単に精神的なものならば人間でも与えることができるのです。しかし、人間にとって本当に必要なのは、人が与えることのできるものではなく、天に属する霊的なもの、神のみが与えることのできるものです。そして、それは既に与えられているのです。それは天に属するものですから、もはや誰も奪うことはできないのです。人はパウロを牢獄に放り込むことはできましたが、天のあらゆる霊的な祝福を奪うことはできませんでした。ですから牢獄の中にさえ賛美が満ちていたのです。

 それはすべて神の恵みによるものです。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それを聖書は「選び」という言葉で表現します。この「選び」という言葉は誤解を生みやすい言葉でもあります。「選ばれた」と言うならば、ともするとエリート意識の現れと受け取られやすい。しかし、パウロが「選ばれた」と言うのは、「私たちの側に根拠はない」という意味です。すなわち「神の一方的な恵みです」という意味なのです。ですから「天地創造の前に、神は…お選びになりました」などという奇妙な表現が出てくるのです。「神は私が生まれる前から私を選んでくださいました」と言えば、それは「私の行いや功績にはよらない」ということになるでしょう。「生まれる前」ならまだ何もしていないのですから。それを究極まで押し進めると「天地創造の前から」となるのです。どのような表現にせよ、要するに、「私たちの功績じゃない」ということです。一方的な恵みだということです。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。

神の子とされて
 それは5節において、神の子でない者を神の子とすることとして、言い換えられています。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5節)。ここで用いられているのは養子縁組を表す言葉です。神の養子にされるということです。神は「主イエス・キリストの父である神」であります。しかし、そのキリストと父なる神との関係の中に、キリストを信じる私たちも入れていただいたのです。主イエスが「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちも天と地の造り主なる方を、「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されているのです。そして、御子を長子とする家族へと加えられたのであります。その理由と根拠は人間の側にはありません。パウロは、ただ神が「御心のままに前もってお定めになった」からだ、と言うのです。

 実は、この「御心のままに」と訳されている言葉は、「神の喜びとするところに従って」とも訳せる表現です。要するに、私たちが神の子とされるのは、それが「神の喜びであるから」という単純な理由によるのです。これは驚くべきことでしょう。まことに神の子とされるに相応しからぬ私たち、自分で自分のことを持て余しているような私たちを、神の子とすることが、神にとっては喜びなのだと聖書は教えているのです。私たちが神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになることが、神の喜びだというのです。私たちは神の喜びなのです。

 神が御子を世に送られたのは、まことに相応しからぬ私たちを神の子にするためでした。「イエス・キリストによって」(5節)とあるとおりです。その事実を6節では「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」と呼んでおります。その恵みが何であるかは、7節において明らかにされています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」この「贖い」とは奴隷が買い戻され、解放される時に使われる言葉です。私たちは贖われたのだ、と言う時、それは私たちがかつて奴隷であったことを示しています。罪という負債を背負った奴隷であったのです。

 日本人はしばしば「罪を水に流す」と言います。過去の罪は忘れてしまえば、それで解決するかのように語ります。しかし、実際には、罪は水では流れないこと、忘れても解決はしないことを、私たちは皆、本当は良く知っているのです。罪は赦していただかなければ、解決しないのです。そして、罪を赦すことができるのは、最終的に神だけです。そこで、神は御子の血をもって、その命をもって、私たちの罪の代価とされたのでした。私たちの罪の負債は、御子の血によって完済されました。私たちは御子の血によって買い取られて解放されました。これが「贖い」です。罪の負債を抱えたままでは、私たちは神の子となり得ませんでした。私たちは、罪を完済された者として、まさにキリストの贖いの業を通して、神の子としていただいたのです。

救いの完成に向かって
 そして、神はさらにこの恵みを私たちの上にあふれさせ、神の秘められた計画を知る者としてくださいました。次のように書かれています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(8‐10節)。

 私たちが罪を赦され、神の子とされ、御子のもとに集められていることを、ただ自分個人に関わることと考えてはなりません。神は、御子を通して、この世界に対する計画を明らかにされたのです。それは、私たちがこうしてキリストのもとに集められているように、やがて頭であるキリストのもとに世界が一つとされるということです。いや、天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのだ、と聖書は教えているのです。

 目を転じて見るならば、この世界はまさにずたずたに引き裂かれた世界です。互いに対立し、反目し、争い、殺し合っている世界です。私たちの身近なところにも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、私たちは決して絶望する必要はないのです。神はこの世界の中に生きて働かれ、救いの完成に向かって導いておられるからです。そして、やがて時が満ちるのです。神の約束は実現するのです。

 そして、受け継ぐべき救いの完成は、ただ単に遠い未来に待ち望むべき希望であるだけではありません。今、こうしている時に、既に私たちはその救いの豊かさの一部を味わい知ることが許されているのです。

 13節でパウロは「あなたがたもまた」と語りかけます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。これはエフェソの異邦人キリスト者たちです。彼らが宣べ伝えられた言葉を聞いて、信じて、バプテスマを受け、互いに異なった者たちが共に主を礼拝していること自体が、既に聖霊の働きです。それはここにいる私たちも同じです。私たちもパウロから見たら異邦人ですから。その私たちが今こうしていることは、聖霊の働きです。私たちは聖霊によって「証印」を押されたのです。「証印」とは所有者を現すしるしです。私たちは神のものなのです。

 そのように信仰生活を与えてくれた聖霊こそ「わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(14節)と語られています。この「保証」というのは、言い換えれば「手付け金」のことです。やがて全体を受けとることの保証として、その一部を受け取るのです。それが聖霊によって私たちに与えられる信仰生活です。私たちは、救いの完成へと向かう者として希望に生きるだけでなく、その一部を手付け金として受け取り、救いの恵みを今この時に味わいつつ生きることが許されているのです。そして、その手付け金によって、さらに確かな希望に生きる者とされるのです。

 これらはすべて神が恵みによって私たちに対してしてくださったことでした。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それゆえ、最初に申し上げたように、信仰生活とは神をほめたたえて生きる生活となるのです。私たちがここにおいて、歌声をもって神を賛美するように、私たちの人生全体が神への賛美となりますように。

2013年5月19日日曜日

「満たされていますか?」


2013年5月19日  ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~13節


御心が成るために
 私たちは先ほど「主の祈り」を祈りました。その中で「御国を来らせたまえ」と祈りました。「御国に入れてください」と祈ったのではありません。御国、神の国が「来るように」と祈っているのです。どこにですか。この地上にです。神の国が来るとはどういうことでしょう。神の国とは神の支配のことです。神の支配が実現することです。その意味するところは、主の祈りにおいて、さらに明確に祈られています。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。私たちは、地の上に、御心が実現するように祈っているのです。

 「御心が行われますように」と祈っているということは、まだ御心は実現していない、少なくとも完全には実現してはいない、ということを意味します。この世界を見てください、人々が憎みあい、殺し合っているこの世界は、神の御心が完全に実現した世界ですか。これが神の国ですか。とんでもない。私たちの仕事場は、神の御心が実現した仕事場ですか。神の国ですか。私たちの家庭はどうでしょう。神の御心が完全に実現している家庭ですか。神の国ですか。子供たちの通う学校はどうですか。天に神の御心が実現しているように、この地の上に実現していますか。いいえ、実現してはおりません。

 だから、私たちは祈り続けているのです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。イエス様は、「このように祈りなさい」と言って、主の祈りを与えてくださいました。イエス様は、私たちが一生をかけて一心に求めるべきものを明らかにしてくださったのです。言い換えるならば、イエス様は私たちの人生の目的を与えてくださったのです。それは神の御心が成ことを求めて生きることです。私たちの人生はそのためにあるのです。主の祈りを真面目に祈っている人は、少なくとも「私は何のために生きているのだろう」などという悩み方はしないはずです。なぜなら、求めがはっきりしているからです。神の御心の成っていない悲惨極まりないこの世界に、神の御心が成るために、私たちは生きるのです。生きていくのです。

 しかし、私たちはもう一方で良く知っています。私たちは、この手で、この自分の力で、神の国を実現することはできません。神の御心を実現することはできません。この世界を支配する罪の力、死の力、悪魔の力、地獄の勢力の方が、圧倒的な現実として私たちに迫ってまいります。私たちの為しえることは、あたかも山火事に向かってコップの水を投げかけるようなことでしかないと感じます。私たちは、身近な一人の人間をも変え得ないような者ではありませんか。いやそれどころか、我が身一つどうすることもできないのです。それが私たちの現実です。

 ですから、一つのことは明らかなのです。私たちが主の祈りを真面目に祈るならば、その実現のためには、神様においでいただかなくてはならない、ということです。神様に来ていただいて、御心を実現していただくしかありません。だから神様を求めるのです。この世界に来て働かれる神の霊、聖霊を求めるのです。私たちの内に住んでくださり、私たちを用いて、私たちを通して働いてくださる神の霊、聖霊を求めるのです。聖霊によらずして、どうして地上に御心が実現するでしょうか。どうして、神の支配が実現するでしょうか。聖霊によらずして、どうして私たち自身の罪、また世界の罪が克服されることがあるでしょうか。そして、最終的にはキリストが再び来られることなくして、どうして救いが完成することがあり得るでしょうか。

 イエス様の弟子たちは、そのことを良く知っていたのだと思います。つくづく自分の無力さを知った人々だからです。彼らはキリストが十字架にかけられたときに、主を見捨てて逃げ去ってしまった人々です。この世の罪の前に、そして自分の罪の前に、完全に敗北した人々です。エルサレムの街角に見る景色の一つ一つが、自分の弱さと自分の罪にまつわる忌まわしい記憶を呼び起こしたに違いありません。ですから、彼らは神様においでいただくしかないことを知っていたのです。神の霊においでいただくしかなかったのです。父の約束してくださった聖霊を待ち望むしかなかったのです。

 だから、彼らは祈り求めて待ちました。待ち望みました。それが今日お読みした聖書箇所の背景です。そして、そのように祈り求めて待ち望んだ彼らは一同は、「聖霊に満たされた」と書かれているのです。その場面の描写は摩訶不思議なものです。このような箇所に奇異な印象を持たれる人もあろうかと思います。しかし、重要なのは、ここに描かれている不思議な出来事そのものではありません。その結果です。一同が聖霊に満たされた、ということです。

 私たちは、これを教会の誕生と見ることもできますし、教会の宣教の開始として見ることもできるでしょう。その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来事です。しかし、ここに語られています、「聖霊の満たし」そのものは一回限りの事ではありません。すぐ後の4章において、彼らは再び聖霊に満たされます(4:31)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)。

 要するに、ここの書かれていることは、ある意味では、私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。今日の箇所を読みます時に、単に「何か特別なことが起こった」と考えて読むことは、この箇所の正しい読み方ではありません。むしろ、「何か特別なことがそこから始まったのだ。そして今日に至るまで継続しているのだ。それはキリストの再臨に至るまで続くのだ」ということを考えて読まなくてはなりません。続いているのですから、私たちもまた同じことを求めるのです。聖霊の満たしを求めるのです。

聖霊の満たしを求めましょう
 そこで残された時間、聖霊に満たされるとはいかなることかを、なおこの箇所から共に考えたいと思います。今後、私たちが聖霊に満たされること、満たされ続けることを求めるならば、あの日に起こった出来事の本質をしっかり捉えておくことはとても重要なことだからです。特に二つのことに心を留めましょう。

 第一に、それが「五旬祭の日」に起ったことに注目しましょう。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(1節)と書かれているとおりです。五旬祭の一つの意味は「刈り入れの祭り」ですが、もう一つの意味は「律法授与の記念の祭り」です。出エジプトの後、荒れ野を導かれながら旅をして、シナイに着くわけですが、そこにおいて律法を与えられ、神と契約を結んだその出来事を記念しているのが、この過越祭から五十日後の「五旬祭」という祭りでした。

 しかし、聖書の伝えるところによりますと、この律法をイスラエルの民は守ることができませんでした。彼らは、律法に基づいた最初の契約を破ったのです。そこで神は預言者エレミヤを通して次のように語られたのでした。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31‐33)。これが新しい契約の預言です。このように、新しい契約における律法は、先に石の板に書き記された言葉として与えられるのではありません。心の板に書き付けられるのです。それは人間の為しえることではなく神の御業です。神の霊によるのです。

 「五旬祭の日」に聖霊降臨が起こったことは、まさにあの最初の律法の授与と同じように、エレミヤの預言した出来事が実現したことを意味します。ですから、聖霊の満たしを求めるということは、第一には、私たち自身の心に、神が律法を書き記してくださることを求めることに他ならないのです。言い換えるならば、私たち自身が、神に従順な者になることを求めることです。この世界に、私たちの周りに、神の御心が実現することを願うなら、まず私たちの心にそれが実現することを求めねばなりません。この世界が変わり、私たちの周りが変わることを求めるならば、まず私たち自身が変えられ、神に従順なものへと変えられることを求めるべきです。聖霊の満たしを求めるべき第一の意味はそこにあるのです。

 第二に、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(4節)と書かれていることに注目しましょう。

 私たちがここで思い起こしますのは、旧約聖書に記されている有名なバベルの塔の出来事です。創世記11章1節以下に出てくるその物語の中で人々はこう言っています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)。そこで神は彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまわれました。至って単純な話です。その町は「バベル」と呼ばれました。バベルという言葉は、混乱(バラル)という言葉から来ていると創世記は説明しています。

 単なる昔話ではありません。神に背を向けて、自らの力で「天まで届く塔のある町を建てよう」と言っている人間の傲慢な姿は、歴史を通じて少しも変わっていないからです。そこで互いの言葉が通じなくなり、混乱が生じている現実も、そのまま現代に当てはまります。単に多くの国語があるという事ではありません。同じ国語を語りながらも言葉が通じないということがいくらでも起こります。ある時には親と子の間で意志が通じません。言い換えるなら、言葉が通じないのです。夫婦の間で言葉が通じません。世代間で言葉が通じません。隣人同志でさえ言葉が通じません。人と人とが共に生きることができません。この世界はずたずたに引き裂かれた世界です。それは人間の傲慢さの結果に他なりません。

 しかし、ここで、あのバベルの塔の出来事とまったく逆のことが起こっています。彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。しかし、彼らはバラバラではありません。神の霊によって一つとされているのです。異なる言葉を話しながら、もはやバベルではありません。神の霊が彼らを満たし、支配しているからです。罪の支配は人と人との関係を分断します。しかし、聖霊の支配は異なる者たちを結びつけて一つにするのです。

 聖霊降臨によって宣教の働きが始まりました。あの五旬節に起こったことは神による一つのデモンストレーションに他なりません。あの時、起こった出来事によって示されているように、やがて神の言葉は、異なる言葉の異なる人々の中に宣べ伝えられていくのです。そして、神の霊によって、それまで対立していたユダヤ人とサマリア人が一つにされるのです。さらにユダヤ人と異邦人が一つにされるのです。それは聖霊によって実現するのです。

 このように聖霊の満たしを求めるということは、一つになることを求めることでもあるのです。単に個人的な霊的な体験を求めることではありません。これを間違えると、聖霊については語られていながら、みんながバラバラ、さらには互いにいがみ合っている、などということが起こります。

 「満たされていますか?」今日の説教題です。単に心が満たされているかどうかの話ではありません。聖霊に満たされているかどうかということです。もしそうでないなら、共に祈り求めましょう。この世界の悲惨について語る前に、私たちの身近な人々の罪を語る前に、まず、自分が神に従順になれるように祈り、さらに他者のために祈り、皆が一つとなることを求めて祈り、聖霊に満たされることを共に祈り求めましょう。

2013年5月12日日曜日

「平和のきずなで結ばれて」


2013年5月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~15節


神から招かれたのですから
 「神から招かれたのですから」――そう書かれていました。ここには140名ほどの人が毎週集まって礼拝を捧げています。お互い住んでいる地域も違う。育ってきた環境も違う。普通に考えるならば出会うはずのない私たちお互いが、一緒に心を合わせて讃美歌をうたい、共に祈っているのです。そこに改めて神の御業を見る思いがいたします。パウロはその神秘を指して「神から招かれたのですから」と言うのです。確かにそうです。私たちが共にいるのは偶然ではありません。「わたしが教会に来ようと決めて、わたしの意志で信じたのだ」と言う人がいるかもしれませんし、「学校から勧められて来ました」という人がいるかもしれません。しかし、これは単に人間の意志によって実現したことではないのです。「神から招かれたのですから」――そう、ここには神のご意志が働いている。神様が私たちを招いてくださったのです。

 神様は何のために私たちを招いてくださったのでしょう。もちろん、私たちをお救いになるために違いありません。イエス様がなさった「百匹の羊のたとえ」をご存じでしょう。群れから迷い出た一匹の羊を羊飼いが見つけ出すまで捜し求めるという話しです。そして、見失った一匹の羊を見つけたら、羊飼いは喜んでその羊を担いで家に帰る。そのように神様は人間を追い求めておられます。迷い出たまま滅びてしまうことがないように、追い求めてくださるのです。私たちをここに呼び集めてくださった神様は、そのように私たちを救うために、私たち一人一人を追い求めてくださった神様です。

 しかし、神様の与えようとしている救いは、ただ単に私たち個人の救いに留まりません。神様のなさろうとしていることは、もっと大きなことです。この手紙の一章にはこのようなことが書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(7‐10節)。

 私たちは御子の血によって贖われ、罪を赦されました。しかし、それで終わりではないのです。その先へと向かっている。神様の救いの業はやがて完成されるのです。神様が目指しておられるのは救いの完成です。それは「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」ことだと書かれています。私たちが罪を赦され、滅びから救われるというだけではなく、人間の罪によって神と断絶し、互いにズタズタに引き裂かれたこの世界そのものが救い主のもとに一つとされる。そこにこそ救いの完成はあるのです。

 その「救いの完成」という目的のもとに、私たちは招かれました。呼び集められました。ただ私たち自身の救いのためではありません。この世界が一つとされる前に、まず私たちがキリストのもとに一つとされるためです。そのように私たちが、最終的な神の救いの完成を指し示すしるしとなるためです。そのように救いの完成を指し示すのが教会という存在なのです。

招きにふさわしく歩みなさい
 ですから「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。既に述べてきたことから、「招きにふさわしく歩む」ということが何を意味するか、もうお分かりでしょう。それは「一つになろう」とすることです。人間の罪はバラバラにしようとする方向に働きます。その罪の力に抗って「一つになろう」という方向に歩いていくことです。「一つになろう」という方向に向かって生きていくことです。それが「招きにふさわしく歩む」ということです。そのためには当然、必要なことがあります。パウロの言葉はこう続きます。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(2‐3節)。

 ここには「霊による一致」と書かれていることに注意してください。単に人間の努力による一致ではないのです。肉による一致ではないのです。人間がそうしようと思えば一つになれると語るほどパウロはナイーブではありません。聖書は極めて現実的な書物です。人間の罪の深刻さを知っているからです。ですから、あえて「霊による一致を保つように」と書いているのです。それは神の霊のお働きによる一致です。

 私たちは「一つになろう」とすることはできますが、私たちの力によって「一つになる」ことはできません。一つにするのはあくまでも聖霊のお働きです。ですから、私たちにとって重要なことは、その働きの邪魔をしないことなのです。ですから「保つように」と書かれているのです。この「保つ」という言葉は、看守が牢獄を見張るという意味で使われる言葉です。聖霊による一致を邪魔するものや壊すものが入り込まないように、見張らなくてはならないのです。

 たとえば、私たちの「高ぶり」が「へりくだることの欠如」が聖霊による一致を壊します。「私が、私が」という肉の頑張りや肉の誇りが霊の働きを邪魔します。忍耐のなさが、一致を妨げることがあるでしょう。具体的にどうしたら良いのでしょうか。四つのことが挙げられています。守る者が常にチェックしていなくてはならない四つのチェック項目です。謙虚であること、柔和であること、寛容であること、愛をもって忍耐すること。他人をチェックする必要はありません。それぞれが自分をこの四点において省みる時に、平和の絆で結ばれて、聖霊による一致は保たれるのです。

異なることを重んじる
 そのように「招きにふさわしく歩む」とは一つになろうとする事だと申しました。そして、パウロは畳み掛けるように、「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4‐6節)と語ります。ここで強調されているのは明らかに「一」です。「一」であることが重要なのです。

 しかし、それは多様性が否定され、個が全体の中に解消されてしまうような、全体主義的な一致を意味しません。パウロは言います。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。ここには「一人一人」の話が出てくるのです。一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。そのことについては、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章にも記されていますが、ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものですが、いずれにせよ、ここで言いたい最も重要なことは、主が異なる働きを各自に与えているということでしょう。

 私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。同じように他の人に与えられていないものが自分にも与えられているのですから。与えられている賜物が異なるならば、務めも異なるのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありません。大事なことは、互いに異なるものが一緒に「キリストの体を造り上げ」(12節)ていくことです。

成熟を目指して
 パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。その目標はどこにあるでしょう。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(13節)と書かれているように、「成熟」しなくてはならないのです。

 ここで間違ってはならないのですが、「成熟した人間となり」というのは、各自のことではありません。これは「単数」ですから、キリストの体である教会のことです。教会が成熟し、「大人」になるということです。それは「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」(13節)ということだと書かれています。

 私たちはお互い与えられている賜物は異なります。務めは異なります。他の人と同じである必要はありません。しかし、信じている事柄においては一つでなくてはなりません。信仰だけでなく「信仰と知識において」と書かれています。何を信じているのか、ということを「知っている」ということです。その知識を伴った信仰において一つになる――それが成熟した教会です。ですから世々の教会は「信仰告白」を様々な形で言葉にしてきたのですし、その信仰の内容を共に祈り共に学ぶことを大切にしてきたのです。

 そのように「一つになる」ということは単に「仲がいい」ということではありません。皆が何を信じているのか曖昧なまま、ただ「仲がいい」だけの教会があったとするならば、それは分裂している教会よりは良いかもしれませんが、それは成長においてはいわば幼稚園児のレベルと言わざるを得ないでしょう。そのような教会であるならば、時代の思想の風が吹き荒れる時には、その風に翻弄されることになり、あるいは倒れてしまうことになるでしょう。

 そうならないように、しっかりと大人にならねばならないとパウロは言うのです。「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(14‐15節)。これが私たちの教会です。平和のきずなで結ばれた私たちが「愛に根ざして真理を語る」ことのできる教会として、キリストの満ちあふれる豊かさに至るまで成長していくことを共に求めていきましょう。

2013年5月5日日曜日

「主イエスの教える祈りの世界」


2013年5月5日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章5節~15節


 今日の福音書朗読は、イエス様がその「主の祈り」を教えてくださった場面です。「主の祈り」は呼びかけの言葉からはじまります。「天におられるわたしたちの父よ」。祈りは瞑想ではありません。「主の祈り」が呼びかけから始まっているように、祈りは語りかけている相手をはっきりと意識した上での語りかけです。誰に語りかけているのでしょう。私たちが信じている神様は、天地の造り主です。万物を統べ治めておられる全地の王です。そのような御方に呼びかけるのですけれど、その時に「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさいと、イエス様は教えてくださいました。

 「父よ」とありますが、イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」という言葉です。アラム語の「アッバ」という言葉のままで、聖書には三回ほど出てきます。イエス様御自身が祈りの時に使っていた言葉です。これは幼い子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。圧倒的な父親の権威に対して恐れおののきながら使う言葉ではありません。むしろ親しみと愛情を込めた呼びかけです。そのように「父よ―アッバ」と呼びかけなさいとイエス様は言われたのです。

 そこで何を祈るのでしょう。イエス様は「アッバ」と呼びかける子どもたちが口にすべき六つの祈りの言葉を教えてくださいました。「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。そして、さらに「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(11‐13節)。

父に愛されている子どもたちとして
 通常、私たちが「祈り」ということでイメージしますのは、「ください」が付く後半部分の方でしょう。ですので、そちらを先に見ておきましょう。

 イエス様は「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りなさいと言われました。このようなイエス様の言葉を聞きますと実に安心します。「こんなことを神様に求めて良いのだろうか」と祈りについて迷いを覚えたことのある人はいませんか。他の人が美しい言葉でいかにも高尚な求めを口にしていることを耳にするときに、自分の祈りが極めて低俗なものに思えたことはありませんか。しかし、イエス様は「ご飯食べさせてください」と祈りなさいと教えてくださったのです。そうです。そのようなことでもお祈りしてよいのです。

 「糧」は必要なものの代表です。マルティン・ルターはこの「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いていました。例えば、「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」と。要するに、私たちが生きていく上で、生活していく上で、しかも幸いに生活していく上で必要なありとあらゆるもの。それがこの「必要な糧」が代表しているものなのです。それはすべて愛されている子どもたちとして父に求めたらよいのです。

 そして、主はさらにこう祈るように教えられました。「わたしたちの負い目を赦してください」と。私たちに必要なのは、「糧」の類だけではありません。それ以上に、私たちは「赦し」を必要としている者なのです。そして私たちに必要な「赦し」は、最終的には人からではなく神様によって与えられねばなりません。それは私たちがやがて死の床において、もはや誰にも具体的に赦しを求め得なくなる時が来ることからも明らかでしょう。ですから神様に求めたらよいのです。「わたしたちの負い目を赦してください」と。

 しかし、そこには一言加えられております。「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。イエス様は、父の赦しと私たちの赦しを結びつけて語られるのです。14節以下に改めて語られていますでしょう。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(14‐15節)。

 実に厳しい言葉です。しかし、ここで改めて考えてみる必要があります。そもそも私たちは「父よ」と呼びかけて祈るのですが、それは当たり前のことでしょうか。それは本来、あり得ないことでしょう。私たち人間はどれほど神様に背いてきたことか。私たちがまことの神の御前に出るならば、裁きを恐れておののかざるを得ないはずです。最終的にこの世界を正しく裁く権威をお持ちである御方に対して、イエス様がしていたのと同じように「アッバ、父よ」と親しみを込めて呼びかけることなど、本来できようはずもありません。

 しかし、そのあり得ないことが許されているのです。それはイエス様が「こう祈りなさい」と言ってくださったからです。イエス様だから言うことができたのです。なぜならこの御方こそ、神の赦しを携えて来てくださった御方だからです。罪ある人間がなお神の御前に出て「父よ」と呼ぶことができるために、何が為されなくてはならないかを、イエス様はよくご存じでした。それは父の御心に従って、イエス様御自身が罪の贖いの犠牲となることでした。十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださることでした。神を「父よ」と呼べるのは、既に神が赦しの恵みをもって私たちを神の子どもたちとして受け入れてくださっているからなのです。その大いなる赦しの中にある子どもたちとして、私たちは互いに赦し合って生き、また日々の罪の赦しを神に求めながら生きていくのです。

 そして、さらに主は「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈りなさいと教えてくださいました。「罪を赦してください」という祈りが真剣になされるようになるならば、また罪への誘惑の問題も切実に感じられるようになってくるのでしょう。「悪い者から救ってください」。この「悪い者」とは悪魔のことです。すべてのものは悪魔の誘惑となり得えます。富も貧しさも、成功も失敗も、恋愛も失恋も、健康も病気も、私たちの人生に起こるすべてのことは、悪魔の誘惑となり得るのです。私たちは信仰者として生きていけることを、当たり前のことと考えてはなりません。イエス様が教えてくださったように、父の助けを求めるべきなのです。誘惑に陥るのは、祈らぬことの結果であるとも言えるのです。

父を愛する子どもたちとして
 さて、このように私たちは、父に愛されている子どもたちとして、必要なものはすべて天の父に求めながら生きていったらよいのです。そのように、私たちの信仰生活とは、父に愛されている子どもたちとして、父なる神に依り頼んで生きていくことです。

 しかし、「父に愛されている子どもたち」として生きるだけでなく、「父を愛する子どもたち」として生きていくことは大事なことです。子どもが父を愛する時、子どもは父の関心事を共有するようになります。父の関心事が子どもの関心事ともなります。父の望んでいることを子どもも望むようになります。父がどのようなことを考えているのか、父を愛している子どもなら、もっともっと知りたいと願うようになるでしょう。そして、父が願っていることが実現することを、子どもも願うようになるでしょう。そのような親子の関係こそ、イエス様が地上において私たちに見せてくださった関係であり、私たちがまたそこに招かれている関係なのです。

 そこで、父を愛する子どもたちとして祈る、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。主の祈りの前半部分です。

 「御名が崇められますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において神の御名が汚されているという現実があるからでしょう。主の御名が神聖なものとされていない。神が神とされていない。むしろ神様は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われてきたのです。

 「御国が来ますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において今、現に目にしているのは御国ではない、という現実があるからでしょう。神ならぬものの支配。私たちがこの世に目にしているのは罪と死の支配であり、悪魔の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることはまた、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。私たちが目にしているのは、神の御心に反することが厳然として行われている世界です。

 父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられたのでしょう。父の御名が崇められ、御心が地上で行われることを誰よりも願っていたのはイエス様だったのでしょう。その御子なるイエス様の心を共にして祈るようにと、イエス様は主の祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。

 「このように祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」ということは、それを実現するのは神様御自身だということです。神様の御名が崇められるようになること、神の御国が来ること、神の救いの御心がこの地上において実現することは、すべて神の御業なのであり、神様御自身の戦いなのです。しかし、父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。そのように父が御自分の心を共有し、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈る子どもたちを求めておられるゆえに、私たちはキリストによってここに集められているのです。

 そのことを思います時に、私たち自身の求めがいかにこの三つの祈りから遠いかをも思わせられます。むしろ信仰生活において私たちが求めているのは、御名とか御国とか御心についてではなくて、私たち自身のことばかりではないか。自分の平安、自分の喜び、充実した人生、楽しい交わり。それらが少しでも欠けると不満を覚えて「なぜですか」と問う。しかし、むしろ問われているのは私たちの側なのです。あなたはいったい何を求めて生きているのか、と。そうです問題は「主の祈り」が自分の祈りになっているか否かなのです。

 さて、そのような「主の祈り」を自分の祈りとするためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様が教えてくださった祈りの世界に私たちもまた共に生きるためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様が教えてくださったように、まずは呼びかけから始めましょう。私たちのために十字架におかかりくださったイエス様から「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉を受け取りましょう。全地の王なる御方を「アッバ、父よ」と呼べるということ、罪ある私が滅ぼされるのではなくて神の子どもとされているという驚くべき事実にまず私たちの思いを向けましょう。そして、神様の大きな憐れみと赦しを思いつつ呼びかけてみましょう。「天におられるわたしたちの父よ」と。

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