2013年4月28日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 2章1節~11節
古くて新しい神の掟
今日お読みした箇所では、ヨハネが次のようなことを書いていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(7‐8節)。一回読んだだけで分かりますか。どうも分かりにくい言葉です。「新しい掟」と言い「古い掟」と言う。ヨハネさん、いったいどっちなんですか?そう言いたくなります。
しかし、改めてじっくり読みますと、どうも古くて新しいところが肝のようです。この手紙に「掟」という言葉が繰り返されている。その前には「神の掟」という言葉も出てきます。この手紙において「掟」あるいは「神の掟」と語られた場合、その内容は明確です。それは愛することです。互いに愛し合って生きることなのです。例えば次章においてこう表現されています。「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。これらの言葉は最後の晩餐においてイエス様が語られた言葉に基づいています。主はこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
「愛する」ということについては言えば、それはことさらに新しいことが命じられているわけではありません。既に旧約聖書に語られていたことです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。そして、イエス様が語られた「互いに愛し合いなさい」という言葉も、この手紙を受け取った人たちは、もう信仰をもったはじめの頃から聞いていた言葉なのです。ですから、「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」とヨハネは言っているのです。
しかし、先にも触れましたように、最後の晩餐においてイエス様はそれを「新しい掟」と呼ばれました。「新しい掟」と言って手渡してくださったのです。ならばそこにはやはり特別なことがあるのです。特別な新しさがあるのです。ヨハネはそこに注目させようとしているのです。
では、その新しさとは何でしょう。どうしてイエス様は「新しい掟」と呼ばれたのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。
「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。「既にまことの光が輝いている」。その「まことの光」とは神の愛の光です。イエス・キリストを遣わしてこの世界に現してくださった神の愛の光です。神は実に独り子をお与えになるほどに、この世を愛してくださった。神に背いている私たちを愛してくださいました。私たちが罪の中に滅びてしまうことがないように。私たちの罪を赦して救うために、独り子さえも与えて、十字架にかけて、私たちの罪を贖ってくださった。その神の愛の光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。
そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事のもとで、その光の中でこう語られているのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。神の愛そのものであるイエス・キリストを通して与えられているのです。そこにこそ新しさがある。ですから、イエス様は「新しい掟」と言われた。ヨハネもまた、「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」と言っているのです。
既にまことの光が輝いているのだから
そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。にもかかわらず、そこでなお「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に背を向けるとするならば、それは何を意味するでしょうか。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものです。あるいは、既に明るい光の中を歩いているはずなのに、自ら目をつぶってしまって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。
ここに「光の中にいる」という言葉が出てきました。翻訳聖書ではわざわざ鉤括弧に入れられています。というのも、実は、教会の中にはそのように言っている人々が実際にいたからです。今日の朗読箇所には別の表現も出てきました。4節の「神を知っている」という言葉です。そうです、その当時の教会に、自分たちは特別な知識を与えられて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシスと呼ばれるようになる異端の人々です。
当時、この肉体を牢獄と見る思想がありました。彼らは自分自身を、その牢獄から解放されて神と一つとなった霊の人であると見なしていたのです。その思想はさておき、人が「神を知っている」とか「光の中にいる」と主張し、自分を「霊の人」と呼ぶからには、明らかにその背景にはある種の体験があると考えられます。いわゆる神秘的な体験というものがある。そのような体験を持つ人は、当時においても、また今日においても、決して珍しくありません。しかし、そのような神秘的な体験がイコール「神を知ること」であり、「光の中にいること」であり、「霊的な人間になること」になるのでしょうか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と。
神秘的な体験というものは往々にして周りを見えなくさせるものとしても働きます。神秘的なスピリチュアルな世界だけが重要になって、現実のこの世界のこと、現実に目に見える隣人との関わりなどはどうでも良いことに思えてくるのです。実際に、先に述べた人々は肉体から解放されてしまっていると思っているので、実際にこの肉体が何をやろうともはや重要なことではないと考えた。しかし、当然のことながら、そのような意識でいる限り、「愛する」ということは人生の課題とはなりません。否むしろそこでは対立が起こり、争いが起こってくる。神を知っていると言いながら、もう一方において「兄弟を憎む者」となるのです。
忘れてはなりません。イエス様は、現実に私たちと同じこの肉体を取って、この現実の世界の中に来られて、現実の人間との関わりの中に身を置いてくださったのです。そして、自らその身をもって、救いの業を実現してくださったのです。そのようにして、その身をもってこの世界を愛し、私たちを愛してくださったのです。明らかに神にとっては目に見えるこの世界、目に見える体をもっている私たちお互いのことが重要なのです。
この世に来られたイエス・キリストにおいて、神の愛はこの世界のただ中で光り輝きました。既にまことの光が輝いています。そのようにこの世に来られた神の愛そのものである御方が言われるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
既にまことの光が輝いているのです。私たちは暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こりますか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。
「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との間の問題でつまずくのです。そのような時、他者のゆえにわたしはつまずいたと思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。
いや、つまずくだけだったらまだ良いのです。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」。目をつぶったまま、突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。
「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。私たちはもう一度、ここに語られている言葉を心に留めましょう。既に光は輝いています。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。私たちは光の中を歩いていくことができるはずなのです。暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。今まで暗闇の中に身を置いていたならば、ここから再び光の中を歩み出しましょう。