日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章22節〜32節
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サタンとその支配
本日朗読された福音書の中でイエス様はこう言っておられました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。今日は特にこの言葉を私たちに与えられた御言葉として心に留めたいと思います。
それはイエス様が「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を癒やされた時のことでした。そのようにイエス様が悪霊に取りつかれた人を癒やされたり、悪霊を追い出したりする話は福音書の中に繰り返し出てきます。皆さんはこのような箇所を読んでどう思いますでしょうか。
ある人は、このような箇所に興味を抱くかもしれません。世の中にはこのような「霊」にまつわる話が大好きな人がいるものです。人は科学では説明できないような怪奇現象に好奇心をかき立てられます。あるいは好奇心ではなく、このような霊的な事柄に恐怖を抱く人もあろうかと思います。そのような人が「悪霊」にまつわる聖書の記述を読みますと、病気や不幸な出来事をことごとく悪霊の仕業と考えるようになるかもしれません。
そのように興味を持つにせよ、恐れを抱くにせよ、いずれにしても「悪霊」そのものに関心を向けてこのような箇所を読むならば、聖書が本当に語ろうとしているメッセージを受け損なってしまうように思います。なぜならイエス様ご自身の関心は明らかに悪霊の存在を指し示すところにはなかったからです。イエス様は悪霊の脅威を宣べ伝えていたのではなく、神の国を宣べ伝えていたのですから。
しかし、そのように悪霊について殊更に興味を持ったり恐れを抱いたりする人がいる一方で、このような悪霊についての記述を単に前近代的な迷信として片づけてしまう人もいます。「当時はそのように考えられていました」と。しかし、それもまたこのような箇所を読むに際して正しい態度ではなかろうと思います。というのも、それを悪霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、そのような言葉や表現の背後には、人間の経験というものがあるからです。しばしば人間は自分のコントロールを越えた力に支配されるという経験です。まさに「悪霊」としか呼びようがないような力に支配され翻弄されるという経験です。
悪霊の頭は今日の箇所でベルゼブルと呼ばれています。より一般的な名称はサタンでしょう。イエス様も今日の箇所においてサタンとその王国について語っています。「サタン」とは「敵対する者」という意味です。その敵対には様々な意味合いがありますが、究極においては神に対する敵対です。
サタンとその配下にある悪霊とは本質において神に敵対する力です。イエス様は、ただ人々の苦しみを見ていたのではなく、そこに働く神に敵対する力の支配を見ておられたのです。神に敵対する力については様々な言い換えが可能でしょう。聖書は「神は愛です」と語ります。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとは神と人との交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。
皆さん、そのような力が確かにこの世界に働いているではありませんか。そのようなサタンの支配が、悪霊の支配が、この世界に猛威を振るっている現実を、私たちは確かに今日も見ているではありませんか。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ本当の喜びがあることも分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿があります。本当は自分を大切にして生きたらよいのに、実際には自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿があります。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいや、そうじゃない。愛なる神の御心に敵対する力が猛威を振るっているのです。ちなみにヨハネによる福音書では、イエス様はサタンのことを「この世の支配者」と呼んでいます。まさにサタンの王国となっているようなこの世界の中に私たちは生きているのです。
神の国は来ているのだ
しかし、私たちはそのようなサタンの王国の中に放って置かれているのではありません。イエス様はこう宣言されたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。
今日お読みしました箇所に出てきたあの悪霊に取りつかれた人はイエス様によって癒やされてさぞかし喜んだことでしょう。目が見えるようになり、口が利けるようになったのですから。しかし、イエス様の言葉によるならば、喜ばしいことはただ癒やされたその人の上にだけ起こっていたのではないのです。喜ばしいことは、そこにいるすべての人にとって起こっていたのです。いや、そこにいた人々だけでなく、後の時代の人々にとっても、ここにいる私たちにとっても喜ばしいことが起こっていたのです。主はこう言われたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは決定的な出来事を目に見える形で表すしるしだったのです。重要なのはしるしそのものよりも、それが指し示している事実だったのです。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。
さて、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主は言われたのですが、それは何を意味するのでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(21‐22節)。
分かりますでしょう。強い人とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。しかし、そこに略奪者としてキリストが押し入って来たのです。サタンを縛り上げ、サタンの家を略奪するためです。すなわち、私たちをサタンの家から奪い取るためにキリストは来られたのです。神の国からの略奪者としてです。
ある神学者がこんなことを書いていました。「戦いが進行しているのです。霊の世界における戦いです。イエスはサタンの力を粉砕するために神から送られた侵略者でした。そう考えるなら、イエスがなさった働きのすべての意味がわかります。」その言葉を説教題にも使わせていただきました。
イエス様は単に倫理道徳を教えるために来られたのではありません。単に私たちを良い人間にするために来られたのではありません。サタンの王国を侵略し、私たちを略奪するために来られたのです。神の国に奪い返すために来られたのです。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも私たちを神の国に奪い返すためでした。イエス様が復活されたのも私たちを神の国に私たちを奪い返すためでした。天に上げられ、聖霊を注ぎ、教会を生み出し、キリストの体として遣わしてくださったのも、私たちを神の国に奪い返すためでした。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、主は私たちに教会を与えてくだり、共に捧げる礼拝を与えてくださり、洗礼を与えてくださり、聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、信仰生活を与えてくださいました。確かにそのすべてが、今ここに、私たちのただ中にあるではありませんか。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主が言われたようにです。
そうです既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。神の国への略奪が既に始まっているのです。それゆえに私たちはこの世にありながらキリストのものとされ、神の国に略奪された者として生き始めることができるのです。神に背を向けて生きてきた人が、サタンに敵対し、神の方に向き直って神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、サタンの支配から解放され、共にサタンに立ち向かい、再び愛し合う関係と交わりを回復していくのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、サタンから解放され、サタンに立ち向かい、尊厳をもって、尊い存在として生き始めるのです。自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。
この福音書にはイエス様の長い五つの説教がでてきます。一番良く知られているのは山上の説教でしょう。それは単なる倫理道徳ではないのです。主がこの福音書において語っておられるのは、この世にありながら神の国へと略奪された者において始まっていく新しい生活なのです。そうです、小さな一歩からですが、この世にありながら神の国に生きる新しい生活が始まっていくのです。
もちろん、この世にある限り、私たちは依然としてサタンの力が猛威をふるっていることをも知っています。それゆえに、この世にある限りは戦いもまたあります。葛藤もあります。そのような中で多くの涙をも流すのでしょう。しかし、「神の国」と言うからには、中途半端で終わることはありません。「神の国」という言葉は終末論的な言葉です。それは最終的な完全な救いを指し示している言葉なのです。やがて神の完全な支配がおとずれるのです。神の完全な救いが実現するのです。そのような完全な救いへと向かう途上に私たちはいるのです。それゆえに私たちは神の国を部分的に味わいながら、大きな希望を抱きつつ、喜びながら生きることが許されているのです。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。