2013年2月24日日曜日

「神から送られた侵略者イエス」

2013年2月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章22節〜32節

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サタンとその支配
 本日朗読された福音書の中でイエス様はこう言っておられました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。今日は特にこの言葉を私たちに与えられた御言葉として心に留めたいと思います。

 それはイエス様が「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を癒やされた時のことでした。そのようにイエス様が悪霊に取りつかれた人を癒やされたり、悪霊を追い出したりする話は福音書の中に繰り返し出てきます。皆さんはこのような箇所を読んでどう思いますでしょうか。

 ある人は、このような箇所に興味を抱くかもしれません。世の中にはこのような「霊」にまつわる話が大好きな人がいるものです。人は科学では説明できないような怪奇現象に好奇心をかき立てられます。あるいは好奇心ではなく、このような霊的な事柄に恐怖を抱く人もあろうかと思います。そのような人が「悪霊」にまつわる聖書の記述を読みますと、病気や不幸な出来事をことごとく悪霊の仕業と考えるようになるかもしれません。

 そのように興味を持つにせよ、恐れを抱くにせよ、いずれにしても「悪霊」そのものに関心を向けてこのような箇所を読むならば、聖書が本当に語ろうとしているメッセージを受け損なってしまうように思います。なぜならイエス様ご自身の関心は明らかに悪霊の存在を指し示すところにはなかったからです。イエス様は悪霊の脅威を宣べ伝えていたのではなく、神の国を宣べ伝えていたのですから。

 しかし、そのように悪霊について殊更に興味を持ったり恐れを抱いたりする人がいる一方で、このような悪霊についての記述を単に前近代的な迷信として片づけてしまう人もいます。「当時はそのように考えられていました」と。しかし、それもまたこのような箇所を読むに際して正しい態度ではなかろうと思います。というのも、それを悪霊と呼ぼうが何と呼ぼうが、そのような言葉や表現の背後には、人間の経験というものがあるからです。しばしば人間は自分のコントロールを越えた力に支配されるという経験です。まさに「悪霊」としか呼びようがないような力に支配され翻弄されるという経験です。

 悪霊の頭は今日の箇所でベルゼブルと呼ばれています。より一般的な名称はサタンでしょう。イエス様も今日の箇所においてサタンとその王国について語っています。「サタン」とは「敵対する者」という意味です。その敵対には様々な意味合いがありますが、究極においては神に対する敵対です。

 サタンとその配下にある悪霊とは本質において神に敵対する力です。イエス様は、ただ人々の苦しみを見ていたのではなく、そこに働く神に敵対する力の支配を見ておられたのです。神に敵対する力については様々な言い換えが可能でしょう。聖書は「神は愛です」と語ります。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとは神と人との交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 皆さん、そのような力が確かにこの世界に働いているではありませんか。そのようなサタンの支配が、悪霊の支配が、この世界に猛威を振るっている現実を、私たちは確かに今日も見ているではありませんか。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ本当の喜びがあることも分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿があります。本当は自分を大切にして生きたらよいのに、実際には自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿があります。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいや、そうじゃない。愛なる神の御心に敵対する力が猛威を振るっているのです。ちなみにヨハネによる福音書では、イエス様はサタンのことを「この世の支配者」と呼んでいます。まさにサタンの王国となっているようなこの世界の中に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、私たちはそのようなサタンの王国の中に放って置かれているのではありません。イエス様はこう宣言されたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。

 今日お読みしました箇所に出てきたあの悪霊に取りつかれた人はイエス様によって癒やされてさぞかし喜んだことでしょう。目が見えるようになり、口が利けるようになったのですから。しかし、イエス様の言葉によるならば、喜ばしいことはただ癒やされたその人の上にだけ起こっていたのではないのです。喜ばしいことは、そこにいるすべての人にとって起こっていたのです。いや、そこにいた人々だけでなく、後の時代の人々にとっても、ここにいる私たちにとっても喜ばしいことが起こっていたのです。主はこう言われたのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは決定的な出来事を目に見える形で表すしるしだったのです。重要なのはしるしそのものよりも、それが指し示している事実だったのです。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 さて、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主は言われたのですが、それは何を意味するのでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(21‐22節)。

 分かりますでしょう。強い人とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。しかし、そこに略奪者としてキリストが押し入って来たのです。サタンを縛り上げ、サタンの家を略奪するためです。すなわち、私たちをサタンの家から奪い取るためにキリストは来られたのです。神の国からの略奪者としてです。

 ある神学者がこんなことを書いていました。「戦いが進行しているのです。霊の世界における戦いです。イエスはサタンの力を粉砕するために神から送られた侵略者でした。そう考えるなら、イエスがなさった働きのすべての意味がわかります。」その言葉を説教題にも使わせていただきました。

 イエス様は単に倫理道徳を教えるために来られたのではありません。単に私たちを良い人間にするために来られたのではありません。サタンの王国を侵略し、私たちを略奪するために来られたのです。神の国に奪い返すために来られたのです。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも私たちを神の国に奪い返すためでした。イエス様が復活されたのも私たちを神の国に私たちを奪い返すためでした。天に上げられ、聖霊を注ぎ、教会を生み出し、キリストの体として遣わしてくださったのも、私たちを神の国に奪い返すためでした。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、主は私たちに教会を与えてくだり、共に捧げる礼拝を与えてくださり、洗礼を与えてくださり、聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世にありながら神の国に略奪された者として生きるために、信仰生活を与えてくださいました。確かにそのすべてが、今ここに、私たちのただ中にあるではありませんか。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主が言われたようにです。

 そうです既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。神の国への略奪が既に始まっているのです。それゆえに私たちはこの世にありながらキリストのものとされ、神の国に略奪された者として生き始めることができるのです。神に背を向けて生きてきた人が、サタンに敵対し、神の方に向き直って神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、サタンの支配から解放され、共にサタンに立ち向かい、再び愛し合う関係と交わりを回復していくのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、サタンから解放され、サタンに立ち向かい、尊厳をもって、尊い存在として生き始めるのです。自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。

 この福音書にはイエス様の長い五つの説教がでてきます。一番良く知られているのは山上の説教でしょう。それは単なる倫理道徳ではないのです。主がこの福音書において語っておられるのは、この世にありながら神の国へと略奪された者において始まっていく新しい生活なのです。そうです、小さな一歩からですが、この世にありながら神の国に生きる新しい生活が始まっていくのです。

 もちろん、この世にある限り、私たちは依然としてサタンの力が猛威をふるっていることをも知っています。それゆえに、この世にある限りは戦いもまたあります。葛藤もあります。そのような中で多くの涙をも流すのでしょう。しかし、「神の国」と言うからには、中途半端で終わることはありません。「神の国」という言葉は終末論的な言葉です。それは最終的な完全な救いを指し示している言葉なのです。やがて神の完全な支配がおとずれるのです。神の完全な救いが実現するのです。そのような完全な救いへと向かう途上に私たちはいるのです。それゆえに私たちは神の国を部分的に味わいながら、大きな希望を抱きつつ、喜びながら生きることが許されているのです。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。


2013年2月17日日曜日

「悪魔との勝負の勘所」


2013年2月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節〜11節

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 今日の箇所には悪魔が登場してまいります。一方、私たちの生活において目に見える形で悪魔が登場してくることはまずありません。その意味において、今日の聖書箇所が伝えるのはあくまでもメシアとしてのイエス様に起こった特殊な出来事であると言えます。私たちに同じようなことがそのまま起こるわけではありません。しかし、ヘブライ人への手紙にこんな言葉がでてきます。「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。この「試練に遭う」という言葉は、原文においては先ほど読みました「誘惑を受ける」という言葉と同じなのです。主は、《わたしたちと同様に》誘惑を受けられたのです。そのように聖書は、主が受けられた試練(誘惑)は、今日お読みした箇所に書かれていることも含め、私たちと無関係ではないと語っているのです。主は確かにメシアとして誘惑を受け、悪魔と戦われた。しかし、それはまた私たちの戦いを先頭に立って戦ってくださったとも言えるのです。

 私たちは今日の箇所において、私たちの人生に働く誘惑の本質が何であるかをしっかりと見なくてはなりません。そして、その誘惑に主がどのようにして打ち勝たれたかを見て、私たち自身の悪魔との戦いにおける勝負の勘所をつかみたいと思うのです。

人はパンだけで生きるのではない
 そこでまずイエス様が受けられた第一の誘惑に目を向けましょう。こう書かれています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。

 悪魔が「パンを盗んできなさい」と言ったなら、いかにも悪魔らしいと思います。しかし、石がパンになるように命じることは、そんなに悪いことでしょうか。石の一個や二個自分が食べるためにパンに変えたとしても、誰にも迷惑はかからない。別にいいじゃないですか。

 しかし、これが悪魔の誘惑なのだ、と聖書は教えているのです。悪魔が悪魔らしくやって来ると思ってはならない。悪魔の誘惑は「なぜこれがいけないの」というところにこそあるのです。では、どのような意味でこれが誘惑なのでしょう。イエス様はどんな誘惑をそこに見ていたのでしょう。

 それはイエス様が何と言って悪魔を退けているかによって分かります。主はこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)。つまりイエス様はそこに、「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という真理から人間を引き離そうとする悪魔の誘惑を見ていたのです。

 「石がパンになるように命じてごらん。パンが必要なんだろう。欲しいんだろう」。悪魔がささやきます。もちろん、私たちに語りかけるなら、悪魔は別な言葉を使ったに違いありません。「石がパンになるように命じてごらん」とは言わない。なぜならイエス様ならできるかもしれないけれど、私たちにはできないから。しかし、悪魔は私たちができることについて言ってくるに違いありません。「必要なものと手にいれなさい。欲しいものを手にいれなさい。どうしたら手に入れられるか、知っているんだろう。それを実行したらいいじゃないか。欲しいんだろう。手に入れなさい」と。

 お腹がへっていたらパンが欲しくなる。人生に欠乏感を覚えていたら、それを満たす何かが欲しくなる。空腹で死にそうだったら、死ぬほどパンが欲しいに違いない。同じように、人生において死ぬほど欲しいものがあるかもしれません。欲しいものを手に入れるためだったら、どんなことだってするものです。悪魔はそんな私たちの思いを刺激します。「欲しいものを手にいれなさい」と。そして、結構やろうと思えば手に入れることができるものです。イエス様にとって、パンを得ることが本当は極めて容易であったように。

 しかし、そうやって欲しいものを手にするうちに、欲しいものを手に入れてこその人生だ、と思うようになるのです。願っているものを手にしてこそ生きる意味がある、と考えるようになるのです。しかし、本当はそうではないのです。人はパンだけで生きるものではないのです。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。欲しいものを手に入れてこその人生ではないのです。神の言葉を聞いてこその人生なのです。神の御心を聞き、神の願いを知り、神の望んでいることを実現してこその人生なのです。その意味において、人を本当に生かすのは神であり、神の言葉なのです。

 「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエス様は、それが単に御自身の空腹に関わる誘惑ではなく、この全人類に及ぶ悪魔の誘惑であることを見て取ったに違いありません。それゆえ主は、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と言って悪魔を退けられたのです。

主を試してはならない
 次に第二の誘惑を見てみましょう。悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)。

 この誘惑もいわゆる悪魔らしい誘惑ではありません。飛び降りたって神様が必ず守ってくださるよ。そう言っているのです。しかも聖書を引用して言っているのです。「聖書にはそう書いてあるでしょ」って、まるで敬虔なクリスチャンみたいではありませんか。しかし、そのようなところにも、悪魔の誘惑があり得るというのです。悪魔は時として聖書を引用した極めて敬虔そうな言葉を通してやってくる。

 この悪魔の言葉のどこにイエス様は誘惑を見ておられたのでしょう。それはイエス様が何と言って悪魔を退けているかによって分かります。イエス様はこうお答えになりました。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。イエス様はここに、「主を試す」ことへの誘惑を見ていたのです。「主を試す」とはどういうことでしょう。主をテストするということです。人間がテストする側。神はテストされる側。人間は問う側。神は問われる側。人間が合格か不合格かを決める。人間が信ずるに価するか否かを決める。そういうことです。

 旧約聖書にこんな話が書かれています。エジプトを脱出したイスラエルの人たちはモーセに率いられて荒れ野を旅していました。ある時、彼らはレフィディムというところに宿営したのです。しかし、そこには飲み水がありませんでした。すると民はモーセに言ったのです。「我々に飲み水を与えよ」と。水の湧いていないところで「飲み水を与えよ」というのは無茶な話です。要するに、「神が私たちと共にいると言うならば、神の奇跡によって水を出してみろ」ということです。水を出したら合格。神様もおまえも信じてやる。これからも従っていってやる。そういうことです。

 その時モーセはこう言いました。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」(出エジプト17:3)。それは違うだろう、とモーセは言いたいのです。問われるべきは神ではなくて、人間の側なのです。窮乏の時こそ人間が信仰を問われているのでしょう。あくまでも神に信頼して生きるのか。どこまでも信じて従うのか。神から問われているのはイスラエルの人々の側だったはずなのです。

 そのように本来神から問われる側にあるはずの人間が問う側に回ってしまう。神をテストする側に回ってしまう。そのような悪魔の誘惑が確かにあるのです。それはイスラエルが経験しただけでなく、まさに全人類に及んでいる悪魔の誘惑であることをイエス様は見て取ったに違いありません。それゆえに、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と言って、悪魔を退けられたのです。

主を拝み、ただ主に仕えよ
 最後に第三の誘惑に目を向けましょう。悪魔はキリストを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて言ったのです。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)。これは、三つの誘惑の中で最も悪魔らしいし、分かりやすいもののように見えます。しかし、この言葉の中にイエス様がいかなる誘惑を見ておられたかは、悪魔を退けるその言葉から理解しなくてはなりません。主はこう答えられたのです。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。

 イエス様が引用したのは申命記6章13節です。その前後までを含めて引用しますと、そこには次のように書かれております。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6:13‐15)。つまりイエス様が引用したのは、もともと「悪魔を拝むな」と言っている言葉ではないのです。

 そもそも悪魔を悪魔として礼拝する人など、そう多くはないのです。イエス様が引用しているのは申命記の言葉なのですが、実際、イスラエルの歴史を見ても悪魔礼拝などしてはいないのです。殊更に悪魔に心を売り渡して、悪に手を染めてでも繁栄を手にしようとしたわけでもないのです。しかし、人はそのつもりがなくても、いつの間にか悪魔に膝をかがめ、悪魔を礼拝していることがあるのです。

 イスラエルはどのようにして、そうなってしまったのか。繁栄を約束する豊穣神、バアルの神を拝むことによってです。私たちに信頼と従順を求める神ではなく、ただ繁栄と幸福とを与えてくださる神を求めることによってなのです。神を礼拝し、神に信頼して真実に神と共に生きることを求めるのではなく、自らの幸福と欲求の充足を第一に求める時に、「いいですよ、それらすべてを与えてあげましょう」と言ってくるのは主なる神ではなく悪魔なのです。

 イエス様は、これが全人類に及ぶ悪魔の誘惑であることを見て取ったに違いありません。それゆえに、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って、悪魔を退けられたのです。

 神の御言葉によって生き、主にどこまでも信頼し、ただ主なる神のみを礼拝し、主に仕える。そのような私たちの本来あるべき生活を破壊しようと、妨げようと悪魔は総攻撃をかけていることを知らなくてはなりません。しかし、私たちはいたずらに恐れる必要はないのです。私たちと同じように試練と誘惑に遭われ、悪魔を退けられた御方、その御生涯において、十字架と復活において悪魔に対する完全な勝利を収められた御方が私たちと共におられるからです。

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