2012年12月23日日曜日

「クリスマスの喜びを共に」

2012年12月23日クリスマス礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節〜7節
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罪のただ中に来られたキリスト 
 キリストはユダヤのベツレヘムに生まれたと伝えられております。イエスの母マリアも、父親とされるヨセフも、ベツレヘムに住んでいたわけではありません。彼らが生活の場を離れて、しかもマリアが身重であるにもかかわらず、どうしてもベツレヘムに旅をせざるを得なかったのは、皇帝アウグストゥスによって住民登録の勅令が出されたからです。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになったに違いありません。そもそも、生活の場を離れて旅をせざるを得ないこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。一人の権力を持つ人間によって、力ない者がその生活を脅かされます。平和な生活の場から追い出されます。弱い者はしばしばその命令に黙々と従わねばなりません。まことに理不尽なことです。しかしこの世界において決して珍しいことではありません。

 いや、これは権力者と民衆の間に限ったことではありません。抑圧されている人々は、痛みを負う者同志、分かち合い助け合い生きていくかと言えば、実際にはそうはなりません。そこでもまた場所の取り合いです。人は押しのけ合って生きていくのです。

 あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。淡々と語られているだけに、なおいっそう何とも言えぬやるせなさを感じます。

 何一つ必要なものが揃っていないその場所で、恐らくまともに産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に幼子は寝かされておりました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしているマリアと、同じように緊張のために疲れ果てているヨセフがいたことでしょう。その日に羊飼いたちが来たとするならば、彼らが目にしたのは世にも悲惨な光景であったに違いありません。

 先ほど読まれた聖書箇所には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書かれていました。はたして、そうなのでしょうか?本当は泊まる場所がなかったのではないでしょう。彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけではないですか。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。もし出産となれば、それが生死に関わることは、どんな鈍い人にだって分かったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。

 本当に暖かい場所を必要とする人たちが、宿屋から追い出され、家畜小屋のようなところに追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿です。誰の問題でしょうか。皇帝でしょうか。為政者たちでしょうか。社会的な構造が諸悪の根元なのでしょうか。いいえ、彼らだけの問題ではありません。私たちがこの場面に見る暗さは、私たち全ての人間に共通したエゴイズムと罪の暗さなのです。幼子が飼い葉桶に寝かされているのは、それは人間の罪のゆえなのです。

 いえ、あのクリスマスの物語の暗さは、聖書を読み進んでいきますと一層深くなってまいります。飼い葉桶に寝かされた幼子はどうなるのでしょう。この飼い葉桶の中にいる悲惨な幼子は、やがて十字架の上で悲惨な死を遂げることになるのです。生まれや育ちは貧しくて惨めでも、後には幸福になりました。大成して人々に尊敬される人になりました。そのような類の話なら、この世の中に数ある美談の一つともなるでしょう。しかし、この話は違います。産まれた時も惨めでした。そして、最後は人々に憎まれ、捨てられ、裏切られ、十字架にかけられて死にました。そこに寝かされているのは、そのような幼子なのです。あまりにも酷い話ではないですか。

 このように、クリスマスの物語には、暗い十字架の影が落ちています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。いや、宿屋だけではありません。キリストには、地上のいかなる場所もありませんでした。最終的には、地からも上げられ、十字架にかけられて殺されるのです。地上には「十字架にかけろ。あの男を十字架にかけろ」という人々の叫びがこだましています。ゴルゴタの丘には十字架の上のキリストを罵り、あざける声が響き渡ります。父なる神を愛し、人々を愛された方は十字架の上にまで追いやられたのでした。

 神の御心を行おうとする人は、しばしば苦難へと、死へと追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿であろうと思います。確かにあの方は、最終的にはローマ皇帝の権力のもとに十字架にかけられました。しかし、あの方を十字架に追いやったのは、ただ単にローマ皇帝やユダヤ人の指導者たちだけではありません。私たちがあの十字架の場面に見る異様な暗さは、他ならぬ人間の罪の暗さなのです。人間の罪が、あの方を十字架に追いやったのです。

 しかし、私たちはそのような罪の暗さに、常に気づいているわけではありません。あのベツレヘムにおいて、自分の居場所を確保するのに精一杯であった人々は、そのように自分のために生きていることが、身重の女を馬小屋へ追いやっているなどと考えもしなかったに違いないのです。人が正当な権利を主張し、当然享受すべきものを享受しているのだと考えて生活していること自体が、実はすぐ身近にいる者に惨めさを強い、絶望と死の淵に追いやっている。そのようなことはいくらでも起こります。しかし、その当人は気づきません。

 十字架の場面においてもそうです。人々が「十字架につけろ」と叫んでいた時、彼らは自分が罪深い者だなどとは微塵も思っていなかったはずなのです。むしろ、彼らの多くは正義感に駆られて叫んでいたのです。人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそあります。あるいは気づこうとしないところ、気づいても認めようとしないところにあるのです。そのような罪の深い闇のただ中で起きた出来事こそ、キリストの誕生でありました。それは決して美しく明るい出来事ではなかったのです。 

罪人を救うために来られたキリスト 
 しかし、それにもかかわらず、私たちはクリスマスを祝います。キリストの誕生を祝います。この日のために飾り付けをし、キャンドルを灯し、ホームページも新しくし、喜びをもって祝います。なぜでしょうか。

 今日の第二朗読にいうて、その答えが読み上げられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1テモテ1:15)。クリスマスの出来事は、ただ単に、この罪の世のただ中にキリストがお生まれになったということではありません。罪人を救うためにこの世に来られた、という出来事なのです。もはや罪人は罪の中に希望なくうち捨てられている存在ではありません。この世界は、もはや罪のゆえに滅びるしかない世界ではありません。キリストが他ならぬ罪人を救うために来られたからです。そして、これを書いているパウロ自身が言うのです。「わたしは、その罪人の最たる者です」と。

 先ほど、「人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそある」と申しました。それはパウロについても当てはまります。彼は、もともと自他共に認める「正しい人」でした。彼はもともとキリスト教会の迫害者だったのです。それは彼の正義感に基づく行動でした。教会の最初の殉教者であるステファノが石で打たれて殺された時、若きパウロは、恐らく何らかの責任ある立場として、その処刑に立ち会っていたのです。石で打たれ血塗れになって死んでいく一人の人をじっと見守りながら、その殺害を肯定している自分自身について、なんらのやましさも感じてはいなかったのです。

 その彼が、キリストを伝える伝道者となったのです。なぜでしょうか。彼の回心の次第は使徒言行録9章に詳しく記されております。それによりますと、サウロが迫害の手を伸ばすためにダマスコに向かう途上、突然、天からの光によって照らされ、地に打ち倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞いたということです。そこで実際に何が起こったのかは、よく分かりません。恐らくパウロ自身も自らの言葉をもってして十分には説明できなかったに違いありません。

 しかし、少なくとも二つのことだけは確かです。第一に、パウロがそこで自らの罪に気づいたということです。自分が正しいと思ってきたことが実は間違ったことであり、自分が知らないで行ってきたことがいかに恐るべき罪であるかということに気づかされ、打ちのめされたということであります。今まで他者を裁き、死にまで定めてきた者が、自ら裁かれるべき罪人として神の前にいることに気づいたということであります。

 そして、第二に、自らの罪を知ったパウロは、そこで彼に対して怒っているキリストに出会ったのではなく、彼を救おうとしているキリストに出会ったのだ、ということです。彼は、主の怒りに触れたのではなく、主の憐れみに触れたのです。その憐れみによって、彼は罪を赦され、救われ、そこから新しい命に生き始めたのです。

 そのようなパウロであるからこそ、確信をもってこう語るのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。キリストは来られました。罪の世のただ中に来られました。罪によって暗闇となった悲惨なこの世界のただ中に来られました。その御方は、飼い葉桶の中に寝かされた赤ん坊となり、十字架の上にかけられた死刑囚となられました。それは罪のない神の子が、この世の罪を自ら背負って苦しむ姿に他なりませんでした。神の子がそのような姿となられたのは、罪人である私たちが救われ、生かされるためでした。私たちが裁かれ、滅ぼされるのではなく、赦され、救われ、生かされるためでした。キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたのです。

 それゆえ、この世はもはや神に見捨てられ、滅びへと定められた世界ではありません。いかなる人間も、どんなに神に背いてきた人であったとしても、神の憐れみの届かないところにいる人はいません。神の救いが届かないところにいる人はいません。キリストは罪人を救うために世に来られました。それゆえ、私たちはあのベツレヘムに起こった暗い出来事を祝うのです。飾り付けをし、キャンドルを灯し、喜びに溢れて祝うのです。光が来たなら、もはや闇は闇のままではないからです。

(祈り)
 憐れみ深い天の父、
 あなたはこの世界に救い主を与えてくださいました。あなたは暗闇の世界に救いの光を与えてくださいました。今、私たちはその光のもとに集められました。私たちが光の中を生きていくことができるように、と。主よ、特に今日は二人の方々が、信仰を言い表し、洗礼を受け、新しい命に生き始めます。私たち一同、こおにおいてあなたの救いの御業を目の当たりにし、喜びに満ち溢れてあなたを讃えるものとならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2012年12月2日日曜日

「夜明けは近づいている」 

2012年12月2日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節〜14節 
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救いは近づいている 
 今日の聖書箇所において、パウロは「夜は更け、日は近づいた」と語っています。12節の言葉です。

 「《夜は》更けた」。パウロはすっかり夜も更け、暗闇に覆われた世界を見ています。それが聖書によるこの世界の描写です。私たちは夜の世界を生きているのです。そのように語ったのは、何もパウロがはじめてではありません。旧約聖書のイザヤ書にも次のような言葉がでてきます。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。そのように、旧約の預言者も暗闇に覆われた世界を見ていたのです。

 それは今日の私たちにおいても、ある意味では感覚的に分かります。この世界を真実に見つめる人は、この世界を明るい日差しの燦々と降り注いでいる昼間の世界としては描写しないでしょう。あの預言者と共に「闇は地を覆っている」と言わざるを得ない。「闇」「暗黒」から連想される言葉はいくらでも挙げられます。「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」「怨念」「虚無感」「死の恐怖」「絶望」などなど。確かにその闇がこの世界を覆っているのを私たちは見ているのです。

 ちなみに、先に引用した言葉を語った預言者が実際に目にしていたのは、繁栄を極めたペルシャ帝国なのです。何も不景気な暗い情勢を見て言っているのではないのです。繁栄を覆い尽くしている暗闇を彼は見ていたのです。さらに言うならば、繁栄の中においていよいよ色濃く覆う闇とは何かと言えば、それは人間の罪の暗闇なのです。神に背き、光である神を失った暗黒なのです。先に挙げた「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」云々はすべて、その根から生じた葉であり実に過ぎないのです。聖書は、そのような夜の世界を生きている私たちについて語っているのです。

 また、「夜は《更けた》」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはない。今年もアドベントを迎えました。教会の暦では新しい年のはじまりです。それは一年がまた過ぎて行ったことを意味します。そして、過ぎて行った一年は絶対に戻ってこない。もうそこには戻れない。そうでしょう。夜の世界に決して後戻りすることのない時が刻まれていく。そこで営まれているのが私たちの人生なのです。

 時の流れは決して後戻りしないという事実は、時として暗闇を一層暗いものとするのでしょう。一年はあっという間に過ぎていく。そうして一つ歳をとります。肉体は朽ちていき、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きて行かねばなりません。そうして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 そのように「夜は更けた」と聖書は語ります。しかし、パウロはただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。

 なぜパウロはこの世界の現実を夜明けに向かう夜として語り得たのでしょうか。それは、この夜の世界のただ中に、キリストの十字架が立てられたことを知っているからです。この世界に罪の贖いの十字架が立てられたのです。この世界は神によって十字架の立てられた世界です。罪の贖いのために御子の肉が裂かれ、血が流された世界です。神が御子によって愛を現された世界です。罪に満ち、悲惨に満ち、破局に向かっているとしか見えない世界でありながら、なおこれは神に愛されている世界なのです。だから彼は確信を持って言うのです。夜は永遠に続くのではない。朝が来る、と。十字架の闇が破られて、キリストの復活の朝が来たように、この夜の世界にも朝が必ず訪れるのです。

 これこそ喜びのおとずれです。福音です。私たちは代々の教会の宣教を通して、この福音を伝えられたのです。私たちは、その神の愛を告げ知らされ、まず私たち自身がその十字架の恵みにあずかったのです。罪の赦しの言葉を聞き、神の愛の言葉を宣言された人生を与えられているのです。私たちは朝に向かって生きる者とされたのです。朝に向いつつある夜ならば、絶望する必要はありません。そこには希望があります。ですからパウロは11節においてこう言っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。 

眠りから覚めるべき時が来ている 
 このことが分かるならば、今の時がどんな時であるかも分かります。聖書は言います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。朝になり日が昇ってから目を覚ますのではないのです。目覚めて朝を待つのです。まだ暗いけれども、もう眠りから覚めるべき時だ、と言うのです。

 眠りから覚めるとは、既に朝が来たように生きるということに他なりません。ですから、パウロは次のように勧めます。12節以下をご覧ください。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(12‐14節)。

 「夜は更けた。ああ真っ暗だ」としか考えられないならば、「だから、闇の行いに生きようではないか」となるでしょう。希望のない人は希望のない人のようにしか生きられない。しかし、希望を与えられている人が、希望のない人のように生きていてはならないのです。朝が来ることを信じている人が、夜が永遠に続くかのように生きてはならないのです。眠りこけてしまっているならば、今こそ目を覚ますべき時なのです。

 それは、消極的に表現するならば、闇の行いを脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているのは朝に備える限られた大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。キリストの裂かれた肉と流された血潮は、私たちが闇の中にとどまってこの夜を過ごすために与えられたのではありません。朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 そして、積極的には、「光の武具を身につける」(12節)ことです。そうです、身に着けるのは「武具」なのです。この夜の世界において、既に日が昇っているように光の中を生きるということは、それ自体闘いでもあります。私たちを闇へと引き戻そうとする力が強力に働くからです。再び闇の行いをまとわせようとする力が強力に働くのです。私たちは戦わなくてはなりません。悲しみと悩みに満ちた闇の中に引き戻されてはならないのです。そのためには武具を身につけなくてはなりません。

 光の武具を身につけるとはどういうことでしょうか。テサロニケの信徒への手紙(一)5章7節以下には次のように記されています。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5・7‐8)。

 こうして見ますと、「光の武具を身につける」とは特別な神秘的な体験によって何かを得ることではなさそうです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と言われているところで具体的にイメージされているのは、恐らくごく当たり前の信仰生活なのです。何ら特別なことではない。主を礼拝し、福音の言葉を聞き、キリストの裂かれた肉と血にあずかり、福音に基づいて主に従って生きる新しい生活です。

 ですから、そのような「光の武具を身につける」ということが、さらに「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言い換えられているのです。「身にまとう」という言葉の意味するところは、「一体となる」ということです。ガラテヤの信徒への手紙にはこう書かれています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(3:27)。そのように、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という勧めの言葉は、洗礼において与えられるキリスト者としての生活、キリストとの交わりの生活のことなのです。そのような信仰生活をしっかりと身に着けることなくして、暗闇に引きずり込む力と戦うことはできないのです。

 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」そのように、私たちは今日も「目覚めて待て」との主の呼びかけを聞いています。これは礼拝の度ごとに呼び掛けられている言葉であるとも言えるでしょう。眠りこけてしまっているならば、ここで目を覚ますべきです。朝が来ないかのように生きていたならば、もう一度朝の光の中に生き始めるのです。キリストを身にまとい、キリストとの交わりの生活を回復するのです。こうして私たちは、主の御言葉を聞きながら、一週間一週間を刻みつつ、後戻りできない時の間を夜明けに向かって共に生きていくのです。

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