日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 3章11節〜26節
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体の癒し以上のこと
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体の癒し以上のこと
エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。
なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が奇跡的に癒された。そのようなことがありますと、人々は驚いて集まってくるものです。確かに驚くべきことが起こりました。しかし、彼に起こったこと本質は単に肉体の癒し以上のことでした。彼は「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。
癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美したのです。神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことなのです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。
考えてみれば、足が癒されることは必ずしも幸せな生活を約束するものではありません。今まで物乞いをして生きてきた人です。仕事はあるのでしょうか。足が癒されたら癒されたで、恐らくはその先に数多くの困難が待っているに違いない。体が癒された喜びは次に困難に出会った時に消えてしまうかもしれません。しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、永続的な意味を持つのです。さらに言うならば、それは死を越えて永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。
ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがある。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。
外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは自分がただキリストの恵みの通路に過ぎないことをよく知っていました。ですから、集まって来た人々に言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。
さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。
ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的なことでした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではない状況であったとも言える。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とは何事ですか。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。
しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの名を信じて、神の御業を信仰によって受け取ったのです。その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。ですので、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。
神の手を握る
語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。
ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。
「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、本当に「生きている」のか。いや、正確に言うならば「生きている」のではなく、「死につつある」というのが正しいのでしょう。皆間違いなく確実に死に向かっているのですから。さらに言うならば、聖書にはこんな言葉も出て来る。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではない。また、生き生きと生きているということですらないのです。
では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を、また生きているのではなくて実際には死につつある者を、起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。
しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。
ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかった。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。
神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はなおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。
それゆえにペトロは彼らにこう語りかけます。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。
なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それは神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。ヨハネの黙示録には、神が私たちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)と書かれていますが、そこにあるのは同じ言葉です。神がぬぐい取ってくださったら、もう永遠に涙はないでしょう。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。
そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。命への導き手を拒絶し殺してしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、十字架に釘付けしてしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということでしょう。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことなのでしょう。エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しましたが、まさにその信仰こそがここで求められていることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。
なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が奇跡的に癒された。そのようなことがありますと、人々は驚いて集まってくるものです。確かに驚くべきことが起こりました。しかし、彼に起こったこと本質は単に肉体の癒し以上のことでした。彼は「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。
癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美したのです。神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことなのです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。
考えてみれば、足が癒されることは必ずしも幸せな生活を約束するものではありません。今まで物乞いをして生きてきた人です。仕事はあるのでしょうか。足が癒されたら癒されたで、恐らくはその先に数多くの困難が待っているに違いない。体が癒された喜びは次に困難に出会った時に消えてしまうかもしれません。しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、永続的な意味を持つのです。さらに言うならば、それは死を越えて永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。
ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがある。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。
外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは自分がただキリストの恵みの通路に過ぎないことをよく知っていました。ですから、集まって来た人々に言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。
さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。
ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的なことでした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではない状況であったとも言える。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とは何事ですか。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。
しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの名を信じて、神の御業を信仰によって受け取ったのです。その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。ですので、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。
神の手を握る
語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。
ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。
「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、本当に「生きている」のか。いや、正確に言うならば「生きている」のではなく、「死につつある」というのが正しいのでしょう。皆間違いなく確実に死に向かっているのですから。さらに言うならば、聖書にはこんな言葉も出て来る。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではない。また、生き生きと生きているということですらないのです。
では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を、また生きているのではなくて実際には死につつある者を、起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。
しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。
ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかった。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。
神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はなおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。
それゆえにペトロは彼らにこう語りかけます。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。
なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それは神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。ヨハネの黙示録には、神が私たちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)と書かれていますが、そこにあるのは同じ言葉です。神がぬぐい取ってくださったら、もう永遠に涙はないでしょう。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。
そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。命への導き手を拒絶し殺してしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、十字架に釘付けしてしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということでしょう。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことなのでしょう。エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しましたが、まさにその信仰こそがここで求められていることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。