2012年10月14日日曜日

「キリストの涙」

20121014日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 
聖書 ヨハネによる福音書 1128節〜44節
---------------------------------------------------------------------- 

  「イエスは涙を流された」(35節)。そう書かれていました。原文では三つの単語から成る、聖書で最も短い節と言われます。「イエスは涙を流された」。しかし、イエス様の内にあったのはただ悲しみの感情だけではありませんでした。直前にはこう書かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った」(33‐34節)。イエス様は憤りを覚え、興奮しておられた。主は何に対して怒られたのか。なぜ主は興奮され、そして涙を流されたのでしょう。そのことを考えながら、今日の箇所をお読みしたいと思います。 

イエスの涙と憤り 
 エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病気でした。ラザロは死に瀕しておりました。

 マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様はすぐに向かおうとはされなかったのです。主は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。そして、同じところになお二日滞在されたのです。

 結局、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎたということです。もはや終わりであって、望みはない。イエス様はラザロを助けることはできなかったということです。

 今日お読みした箇所でも、マリアがこう言っていました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。つまり来て下さるのが遅すぎた、と言っているのです。どうしてもっと早く来てくださらなかったのか。どうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。そう言ってマリアは泣いていたのです。また、ユダヤ人たちがこう言っています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)。そのような言葉と共に、一緒に来たユダヤ人たちの泣き叫ぶ声が響いている。今日お読みしたのはそのような場面です。

 そのような場面は、私たちにも覚えがあります。私たちの身近な人、親しい人が亡くなった時、同じことを呟くかもしれません。イエス様はどうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。手遅れになってしまったではないか。イエス様でさえも、この人を死なないようにはできなかったのか。この福音書が書かれた頃、その読者の中には同じような思を抱いている人がいたかもしれません。迫害の中で悲惨な姿で死んでいった人たちを見て、どうして早く助けてくださらなかったのか、イエス様はこの人が死なないようにはできなかったのか、と思う人がいたとしても不思議ではないでしょう。

 そのように泣き叫ぶ人々の声。もっとも、当時の習慣としては泣き女や泣き男と呼ばれる人々もいたと言います。ですから、そこに響いていたのが全て悲しみの声であったとは言えないかもしれない。しかし、それでもなお人間の泣き叫ぶ声が響き渡っている光景は象徴的と言えます。死を前にした人間の不信仰、そして人間の絶望がそこにあります。そのような、死という現実を前にした不信仰と絶望の支配の中にイエス様は入って来られたのです。

 そして主は憤りを覚えた。その憤りは何に対してなのでしょう。絶望に支配されている人々に対してでしょうか。いやそうではないでしょう。イエスは涙を流されたのです。共に涙を流されたのです。ならば憤りがどこに向けられているかは明らかです。それは不信仰の支配そのものに対してです。絶望の支配そのものに対してです。いやさらに言うならば、不信仰と絶望をもって人間を支配しようとしている者に対してと言うのが正しいのでしょう。ヨハネによる福音書では「この世の支配者」と呼ばれている悪魔に対してです。主は絶望の暗闇に人間を閉じ込めている悪魔に対して憤られ、またその支配のもとにある人間の現実に涙を流されたのです。 

石を取りのけなさい 
 しかし、主はただ憤られ、涙を流されただけではありませんでした。主は言われます。「どこに葬ったのか。」人々は答えました。「主よ、来て、御覧ください」。そして、主はラザロが葬られた墓に向かわれたのです。死んで既に四日経っている死者の葬られているその墓へと向かわれるのです。人間の目からみて手遅れとしか見えないそのところに、もはや完全な終わりでしかないそのところに、主は向かわれるのです。そのようにして、憤りをもって悪魔に立ち向かわれるのです。

 主は言われます。「その石を取りのけなさい」(39節)。死んだラザロの姉妹マルタは答えました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。そう言わざるを得ない現実げ厳然として目の前にあります。ですからマルタにとっては石を取りのけても意味がないのです。しかし、そのようなことは重々承知の上で主は言われたのです。「その石を取りのけなさい」と。ならばそれは何を意味するのか、明らかでしょう。そこでなお信じなさいということでしょう。主が求めているのは、死という現実を前にして、なおそこで「信じる」ことなのです。主はこう言われるのです。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)。

 「もし信じるなら」。――そのことについては既に語られていました。主は「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うマルタに、既にこう言っておられたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。

 イエスは復活であり命である。復活であり命である御方が、完全な絶望の中に入って来られたのです。人間の目に死は《終わり》としか見えないかもしれない。しかし、そこに復活であり命である御方が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなるのです。絶望ではなくなるのです。このことを信じるか、と主は言われたのです。そして、今日お読みしたこの場面においても、主は墓を前にしてもなお人が信じることを求めておられるのです。 

ラザロ、出て来なさい 
 そこで人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。さて、この奇跡物語について一つだけ大事なこととして触れておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になったということです。言い換えるならば、キリストが十字架にかけられる原因になったということです。

 45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです

 もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がベタニアのラザロの家に着いた時から、主は既に大きな危険の中に置かれていたのですから。そうです。イエス様には分かっていたのです。自分がどこに向かっているのかを。十字架の死に向かって歩みを進めていることを知っていたのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と宣言されたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、憤られ、涙を流されたのです。そして、十字架へと向かっている御方として、このしるしを行われたのです。イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれていますが、このような表現がイエスについて用いられているのはここだけです。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命をかけた叫びなのです。いわばイエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

 いや、もちろんそれはラザロ個人を墓から呼び出されるためではありませんでした。ここで墓から呼び出されたラザロも、やがては死んで再び墓に戻るわけでしょう。ですから、これは先ほどから言っていますように、あくまでも「しるし」なのです。イエス様が何をなそうとしておられるかを指し示すしるしだったのです。イエス様は、死を前にして絶望するしかない人間に、永遠の命を与えるために十字架へと向かっておられたのです。それこそが人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げようとしておられたことなのです。

 そのように、キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。それは私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。復活であり命である御方によって永遠なる神との交わりが与えられるなら、主が言われるとおり「死んでも生きる」のです。いや、復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、主が言われるとおり「決して死ぬことはない」とも言える。そこにおいて、もはや悪魔は死をもって人間を暗闇の中に閉じ込めることはできないのです。主は十字架において悪魔に対する完全な勝利をおさめられました。それこそが、人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げてくださったことでした。

2012年10月7日日曜日

「この世に生きるということ」

 2012年10月7日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節〜10節
----------------------------------------------------------------------

地上の幕屋が滅びても
  「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天に ある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、「私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない」ということです。そのこと が、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。

  まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」に喩えられています。私たちのこの体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。 それは感覚的に良く分かります。テントは暫定的な一時的な住まいです。テントは弱いものです。脆いものです。長く使っていれば綻びてきます。私たちのこの 世の生活はなるほどそのようなものです。私たちはこの体というテントが何百年も持たないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活すること になります。やがてはこのテントは役目を終わることも知っています。

  そして、やがてはこのテントを手放すことになります。パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱 いだら裸になってしまうでしょう。私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれてい ます。ちゃんと別の着物が用意されているのです。1節にはその別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、住まいに喩えられていました。一 度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られた ものではない天にある永遠の住みかです」。

  この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださる。天の体です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なもの でもない。それは「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので奇妙な表現ですが、言わんとし ていることは分かります。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上 の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。

  「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。そのことについても私たちは良く知っています。この体をもって生きることは、苦しいことで す。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられる という苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと いう意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、自分の罪 との戦いということでもあるでしょう。

  確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しんでいるのではない。「天から与えられる住みかを 上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつということです。やがてはその願いが現実 となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それはいわば、最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放 された体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちだと聖書は 言っているのです。

天には建物が備えられている
  さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいな いことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」にあるのではないのです。あくまでも「着ること」にあるので す。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬは ずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。

  どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることに救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄で ある。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望があ る、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きている人は、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることこそ救いだ、 と。

  しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロですけれど、彼は苦しいこの幕屋生活の方に焦点を当てないのです。そうではなくて、天に備えられてい る建物の方に目を向けるのです。そこにおいて上から着せられる完全な救いの方に目を向けているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ち つつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、天に備えられているものを着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違って くるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたので す。

  ではいったい何がそれを可能としたのか。いや、「何が」ではなく「誰が」と言うべきでした。それはキリストなのです。十字架にかけられ、復活され、そして 天に挙げられたキリストなのです。パウロの救い主であり、私たちの救い主であるキリストです。パウロは天におられるキリストを愛し、慕い求め、礼拝してき たのです。主なるキリストを思いつつ共に天を仰いで礼拝する場所に、天と地とが出会って一つとなるその場所に身を置き続けてきたのです。その彼が天に備え られている救いを思って生きることは、きわめて当然のことだったのです。

ひたすら主に喜ばれる者でありたい
  そのように、パウロにとって救いの完成は天にある永遠の住みかを着ることであったのですが、さらに言うならば最も重要なことはそのこと自体ではありません でした。その救われた体をもって主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている かぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主 のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。

  パウロにとって幕屋住まいにおける一番の問題は何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰におい て主と共にあるのです。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまた幕屋住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れ て、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。今のこの体を離れることを望むのは、苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むた めなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあること。主との関係。主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であ ることなのだと彼は言います。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。

  天幕住まいにおける私たちの信仰生活もまた、つまるところ、ここに向かわなくてはならないのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにして も、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、また天幕住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活では ないのです。これはただ脱ぎ捨てるだけの体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確 かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるかもしれない。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主 を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。

  だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちがこの地上においてどう生きるかは主にとっての重要事項なの です。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかと していたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

  キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪を十字架において贖ってくださった御方です。そして、信仰によって私たちの罪を赦し、義としてく ださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。

  主は私たちのこの地上の人生を関心をもって見ていてくださる。ですから「悪」もまたその御前にある。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言っ て、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。主 の目に善しとされること。それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍び ながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはたくさんあるかもしれない。 しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを 考えていたらよいのです。それがこの天幕住まいにおいて求められていることなのです。

保証として与えられている聖霊
  さて、そこで最後に先ほど飛ばしました5節に戻ることにしましょう。次のように書かれています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてく ださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」(5節)。私たちが天に備えられている永遠の住まいを着せられるとするなら ば、つまり完全な救いに与るとするならば、それは私たちがもともとふさわしいからとか資格があるからではありません。それはただ神の恵みによるのです。そ の恵みの目に見える現れは、今、こうして私たちが信仰生活を営んでいるということです。「“霊”を与えてくださった」とはそういうことです。私たちが今こ うしているのは、ただ神の霊のお働きによるのです。

  しかし、興味深いのは、「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」と書かれていることです。「保証」という言葉は、「手付け金」を意味する 言葉です。全体は後で受け取るのです。その前に一部分を先に受け取るのです。その意味で「手付け金」であり「保証」です。私たちはやがて完全な救いにあず かります。天に備えられている体を着せられ、文字通り主と共に生きるのです。それがどれほど喜びに満ちたものであるか、私たちは想像することさえできませ ん。しかし、その一部を味わうことはできます。天幕住まいの間に、先だって味わうのです。それがこうして共に礼拝を捧げる教会生活なのです。それが聖霊を 与えられるということなのです。

  言い換えるならば、信仰生活の喜びを味わえば味わうほど、最終的な救いの希望もまた確かになってくるということです。やがて主と共にある希望をもって喜び つつ、今、信仰によって主と共に生きるということでもあるでしょう。そのように、天の恵みを味わいつつ、信仰の歩みを続けてまいりましょう。

以前の記事