2012年9月30日日曜日

「憐れみ豊かな神の深き知恵」

2012年9月30日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章25節〜36節
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自分を賢い者とうぬぼれないように 
 ご存じのように、イエス・キリストの弟子たちは皆、ユダヤ人でした。最初に誕生した教会は全員ユダヤ人から成っていました。しかし、使徒言行録に見るとおり、福音はやがてユダヤ人以外にも伝えられることとなりました。その結果、教会にはユダヤ人クリスチャンと、ユダヤ人ではない異邦人クリスチャンが共存することとなりました。

 本日読まれた聖書箇所では「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と語られていました。ここでパウロが「兄弟たち」と呼びかけているのは、先に触れた異邦人クリスチャンたちです。彼らに「自分を賢い者とうぬぼれないように」と言っているのです。自分を賢い者とみなすとするならば、それは誰かと比較してのことであるに違いありません。誰と比較しているのでしょう。9章から読むと明らかなのですが、それはユダヤ人たちとの比較においてなのです。さらに正確に言うならば、福音を受け入れようとしないユダヤ人たちと福音を受け入れた自分たちを比較してのことなのです。

 先ほど「使徒言行録に見るとおり、福音はやがてユダヤ人以外にも伝えられることとなりました」と申しました。しかし、往々にしてユダヤ人以外に福音が伝えられ、異邦人クリスチャンが生み出される契機となったのは、ユダヤ人たちの頑ななまでの拒絶だったのです。典型的な例はコリントの宣教です。パウロは当初ユダヤ人の会堂でキリストを宣べ伝えたのです。しかし、ユダヤ人たちは受け入れませんでした。そこでパウロは「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と言って、ティティオ・ユストという異邦人の家に宣教の拠点を移した。実はその家は会堂の隣だったのです。するとコリントの多くの人がパウロの言葉を聞いて信じて洗礼を受けた。こうして異邦人が大多数を占めるコリントの教会が誕生したのです。

 もちろん、この手紙が宛てられているローマの教会はコリントの教会と同じ経緯で誕生したわけではありません。しかし、それでもなおローマの異邦人クリスチャンの周りにおいては、福音を受け入れようとはしないユダヤ人たちは身近な存在だったことでしょう。彼らの拒絶的な態度も身近なことだったのでしょう。そこで、ともすると自分たちとユダヤ人たちを比較して、あたかも自分たちが賢い者であるかのように思ってしまう。そのようにして、ユダヤ人たちを見下すということが起こってくる。パウロは彼らに「自分を賢い者とうぬぼれないように」と書かざるを得なかった事情は分かるような気がします。

 さらに言うならば、誰かを愚かな人と見なし、誰かを貶め、見下している時、そこにあるのは往々にして劣等感の裏返しなのです。初期の異邦人クリスチャンにおいても、多分にそれは考えられることでした。初期の異邦人クリスチャンの多くは、もともとユダヤ人の会堂に出入りしていた「神を敬う者・敬神家」と呼ばれる人たちでした。彼らは会堂に通い、熱心に聖書を学び、神を畏れ敬う生活を身に着けようとしていたでしょうけれど、幼い頃から徹底的に聖書を学んできたユダヤ人たちとは、知識においても生活においても格段の差があるわけです。しかし、そのような彼らがキリストによる救いの真理を知った。大きな救いの喜びをも体験した。そこでそれまでの劣等感の裏側がそのまま出てくるならばどうなるでしょう。「彼らは聖書には詳しいかも知れないが、本当に大切な救いの真理を知らない。かたくなで無知な人々である。我々の方が遥かに賢いではないか。」そのような思い上がりとなって現れてきたとしても不思議ではないでしょう。

 このように、神の御前における事柄さえ、信仰に関わる聖なる事柄さえ、人間の心の内にあってつまらぬ思い上がりとうぬぼれの種になる。人を見下すような、劣等感の裏側が表に現れてくる契機となってしまう。なんとも人間の心の動きとは醜いものかと思います。そのような人間の罪深さを知るパウロであるからこそ、ここで「ぜひ知ってもらいたい」と言っているのでしょう。 

知るべき秘められた計画 
 「ぜひ知ってもらいたい」。それは何か。パウロはそれを「秘められた計画」と呼んでいます。これを「奥義」と訳している聖書もあります。「奥義」と言いますと、覆い隠された事柄のように聞こえますが、パウロの言わんとしていることは、既に覆いが取り除かれた奥義のことなのです。神が覆いを取り除いてくださることによって、明らかにされた奥義のことなのです。さらに言うならば、キリストの十字架と復活によって明らかにしてくださった奥義のことなのです。

 神はキリストをこの世に遣わされました。しかし、人間はこのキリストを十字架にかけて殺してしまいました。こうして十字架において神に敵対する人間の現実が明らかになりました。いわば神が私たち人間に伸ばされた救いの手を人間は拒否して、その手に釘を打ち付けたのです。しかし、私たち人間の罪よりも、神の救いの愛は遙かに大きかったのです。人間がキリストを十字架にかけてしまったのですけれども、その十字架のキリストを神は人間の罪の贖いとされたのです。神は私たちの罪を背負って死なれたキリストを復活させ、私たちの主として、救い主としてお立てになられたのです。神の救いの愛は人間の罪よりもはるかに大きい。神は救いの御計画においてはっきりとその事実を明らかにされたのです。

 そのキリストの光のもとで見るならば、今かたくなに反抗しているイスラエルについても全く違ったことが見えてくるのです。秘められていた計画がそこにおいても明らかにされているのです。肉の目にはユダヤ人たちの反抗と不従順が最終的な姿に映るかも知れない。しかし、キリストの十字架の光のもとで見る時に、ユダヤ人は罪のゆえに滅ぼされて終わりではないのです。かたくなさは最終的な彼らの姿ではないのです。それは異邦人が救われるまでのことだ、とパウロは言うのです。神は彼らをかたくななままではおかれない。人間の罪よりも神の愛の方が大きいからです。それゆえ最終的に救いは全イスラエルに及ぶのだとパウロは言っているのです。

 確かに現状を見るならば、彼らは依然として神に敵対しているのでしょう。パウロも心を痛めているのは事実です。しかし、ここでパウロは言うのです。神に敵対する彼らは神にとっても敵であるのか。神も彼らに敵対しておられるのか。そうではない、とパウロは言うのです。28節で彼は大胆にも「彼らは神に愛されているのだ!」と言うのです。それは「先祖たちのお陰で」と訳されていますが、要するに、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神の約束は今も生きているということです。パウロは確信をもって言うのです。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(29節)と。彼らがどれほど神に敵対していたとしても! 

ただ憐れみによって 
  そして、神が敵対する者をもなお愛されるとするならば、それは神の憐れみによるとしか言いようがないでしょう。人の側には愛される要因がまったくないのですから。それゆえ、その後の30節以降には「憐れみ」という言葉が繰り返されることになります。しかし、この憐れみについて語る時、パウロは話をイスラエルのことに限定いたしません。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています」(30節)と異邦人クリスチャンに言い始めるのです。

 そうです、神に不従順であり、神に敵対していたのは、イスラエルの人々だけではありません。今はキリストを信じている異邦人クリスチャンも同じだったのです。その彼らが神に愛されているとするならば、それはやはり神の憐れみによると言わざるを得ません。イスラエルの人々の不従順によって、福音はユダヤの世界を飛び出しました。そして、もともと聖書を知らず、メシアを待望していたわけでもなかった彼らが、その恵みに与かることとなりました。しかし、それは彼らが優れていたからではありませんでした。そこにあるのはただ神の憐れみだったのです。

 そのことを思うとき、彼らはかたくなに福音を拒否しているユダヤ人たちを裁くことはできないはずなのです。軽蔑したり、見下したりするなど、もっての他でしょう。自分が神の憐れみのもとにあるならば、他の人もまた神の憐れみのもとにある者として見るべきなのでしょう。どんなに神に逆らっているように見える人であっても、神の憐れみのもとにある人として見るべきなのでしょう。それゆえパウロは異邦人クリスチャンに言うのです。「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(31‐32節)。パウロは何よりもこのことを彼らに知って欲しかったのです。 

ああ深きかな! 
 そして、ここまで記したパウロは「ああ!」と感嘆の声をあげます。彼はこの手紙を口述筆記させているのですから、実際に「ああ!」と大声で叫んだに違いありません。人は神の憐れみを知る時に、神を讚美せざるを得なくなるのです。神をほめたたえて礼拝せずにはおれなくなるのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう」(33節)。

 「富」とはこれまで述べられてきた神の憐れみの圧倒的な豊かさのことであります。そして、神はその驚くべき知恵と知識をもって、その憐れみの富の内にこの世界を、この歴史を、そして私たちを包み込んでいるのです。この神の知恵と知識は、それを人間の浅い知恵と知識をもって計り知ることができません。人はただ神の知恵と知識に基づく神の救いの御業をほめたたえることができるだけなのです。

 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか」(34節)と書かれています。そのとおりです。神は私たちの小さな頭で分かるような仕方で事を進める必要はもともとなかったのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)ともあります。神は私たちから受け取ったことに従って事をなされたのでもありませんでした。私たちの考えを遙かに超えた、とてつもなく大きな神の憐れみが全てに先行してそこにあったのです。それゆえパウロはこう言って9章からの論述を締めくくります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

 まことに神の憐れみに対する驚きから生まれた讚美には、自分の功績についてのつまらぬ誇りなど、入る余地がありません。神の知恵と知識の深さへの驚きから生まれた礼拝には、自分を賢い者として他者を見下すようなうぬぼれなど、入る余地はないのです。言い換えるならば、このようなまことの讚美と礼拝こそ、人間の劣等感の裏返しでしかないようなつまらぬ誇りから人間を解放するのです。私たちもまた、パウロと同じように、驚きをもって神の憐れみの富と知恵と知識の深さに目を向け、共にこのお方をほめたたえたいと思うのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか!栄光が神に永遠にありますように。アーメン」と。願わくは、私たちの人生そのものが、この神の憐れみに対する驚きから生まれるまことの礼拝となりますように。

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