2012年12月23日日曜日

「クリスマスの喜びを共に」

2012年12月23日クリスマス礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節〜7節
------------------------------------------------------------------   

罪のただ中に来られたキリスト 
 キリストはユダヤのベツレヘムに生まれたと伝えられております。イエスの母マリアも、父親とされるヨセフも、ベツレヘムに住んでいたわけではありません。彼らが生活の場を離れて、しかもマリアが身重であるにもかかわらず、どうしてもベツレヘムに旅をせざるを得なかったのは、皇帝アウグストゥスによって住民登録の勅令が出されたからです。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになったに違いありません。そもそも、生活の場を離れて旅をせざるを得ないこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。一人の権力を持つ人間によって、力ない者がその生活を脅かされます。平和な生活の場から追い出されます。弱い者はしばしばその命令に黙々と従わねばなりません。まことに理不尽なことです。しかしこの世界において決して珍しいことではありません。

 いや、これは権力者と民衆の間に限ったことではありません。抑圧されている人々は、痛みを負う者同志、分かち合い助け合い生きていくかと言えば、実際にはそうはなりません。そこでもまた場所の取り合いです。人は押しのけ合って生きていくのです。

 あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。淡々と語られているだけに、なおいっそう何とも言えぬやるせなさを感じます。

 何一つ必要なものが揃っていないその場所で、恐らくまともに産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に幼子は寝かされておりました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしているマリアと、同じように緊張のために疲れ果てているヨセフがいたことでしょう。その日に羊飼いたちが来たとするならば、彼らが目にしたのは世にも悲惨な光景であったに違いありません。

 先ほど読まれた聖書箇所には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書かれていました。はたして、そうなのでしょうか?本当は泊まる場所がなかったのではないでしょう。彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけではないですか。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。もし出産となれば、それが生死に関わることは、どんな鈍い人にだって分かったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。

 本当に暖かい場所を必要とする人たちが、宿屋から追い出され、家畜小屋のようなところに追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿です。誰の問題でしょうか。皇帝でしょうか。為政者たちでしょうか。社会的な構造が諸悪の根元なのでしょうか。いいえ、彼らだけの問題ではありません。私たちがこの場面に見る暗さは、私たち全ての人間に共通したエゴイズムと罪の暗さなのです。幼子が飼い葉桶に寝かされているのは、それは人間の罪のゆえなのです。

 いえ、あのクリスマスの物語の暗さは、聖書を読み進んでいきますと一層深くなってまいります。飼い葉桶に寝かされた幼子はどうなるのでしょう。この飼い葉桶の中にいる悲惨な幼子は、やがて十字架の上で悲惨な死を遂げることになるのです。生まれや育ちは貧しくて惨めでも、後には幸福になりました。大成して人々に尊敬される人になりました。そのような類の話なら、この世の中に数ある美談の一つともなるでしょう。しかし、この話は違います。産まれた時も惨めでした。そして、最後は人々に憎まれ、捨てられ、裏切られ、十字架にかけられて死にました。そこに寝かされているのは、そのような幼子なのです。あまりにも酷い話ではないですか。

 このように、クリスマスの物語には、暗い十字架の影が落ちています。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。いや、宿屋だけではありません。キリストには、地上のいかなる場所もありませんでした。最終的には、地からも上げられ、十字架にかけられて殺されるのです。地上には「十字架にかけろ。あの男を十字架にかけろ」という人々の叫びがこだましています。ゴルゴタの丘には十字架の上のキリストを罵り、あざける声が響き渡ります。父なる神を愛し、人々を愛された方は十字架の上にまで追いやられたのでした。

 神の御心を行おうとする人は、しばしば苦難へと、死へと追いやられる。それもまた、形は違いこそすれ、この世の現実の姿であろうと思います。確かにあの方は、最終的にはローマ皇帝の権力のもとに十字架にかけられました。しかし、あの方を十字架に追いやったのは、ただ単にローマ皇帝やユダヤ人の指導者たちだけではありません。私たちがあの十字架の場面に見る異様な暗さは、他ならぬ人間の罪の暗さなのです。人間の罪が、あの方を十字架に追いやったのです。

 しかし、私たちはそのような罪の暗さに、常に気づいているわけではありません。あのベツレヘムにおいて、自分の居場所を確保するのに精一杯であった人々は、そのように自分のために生きていることが、身重の女を馬小屋へ追いやっているなどと考えもしなかったに違いないのです。人が正当な権利を主張し、当然享受すべきものを享受しているのだと考えて生活していること自体が、実はすぐ身近にいる者に惨めさを強い、絶望と死の淵に追いやっている。そのようなことはいくらでも起こります。しかし、その当人は気づきません。

 十字架の場面においてもそうです。人々が「十字架につけろ」と叫んでいた時、彼らは自分が罪深い者だなどとは微塵も思っていなかったはずなのです。むしろ、彼らの多くは正義感に駆られて叫んでいたのです。人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそあります。あるいは気づこうとしないところ、気づいても認めようとしないところにあるのです。そのような罪の深い闇のただ中で起きた出来事こそ、キリストの誕生でありました。それは決して美しく明るい出来事ではなかったのです。 

罪人を救うために来られたキリスト 
 しかし、それにもかかわらず、私たちはクリスマスを祝います。キリストの誕生を祝います。この日のために飾り付けをし、キャンドルを灯し、ホームページも新しくし、喜びをもって祝います。なぜでしょうか。

 今日の第二朗読にいうて、その答えが読み上げられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(1テモテ1:15)。クリスマスの出来事は、ただ単に、この罪の世のただ中にキリストがお生まれになったということではありません。罪人を救うためにこの世に来られた、という出来事なのです。もはや罪人は罪の中に希望なくうち捨てられている存在ではありません。この世界は、もはや罪のゆえに滅びるしかない世界ではありません。キリストが他ならぬ罪人を救うために来られたからです。そして、これを書いているパウロ自身が言うのです。「わたしは、その罪人の最たる者です」と。

 先ほど、「人間の罪の最も深い闇は、その罪に気づかないところにこそある」と申しました。それはパウロについても当てはまります。彼は、もともと自他共に認める「正しい人」でした。彼はもともとキリスト教会の迫害者だったのです。それは彼の正義感に基づく行動でした。教会の最初の殉教者であるステファノが石で打たれて殺された時、若きパウロは、恐らく何らかの責任ある立場として、その処刑に立ち会っていたのです。石で打たれ血塗れになって死んでいく一人の人をじっと見守りながら、その殺害を肯定している自分自身について、なんらのやましさも感じてはいなかったのです。

 その彼が、キリストを伝える伝道者となったのです。なぜでしょうか。彼の回心の次第は使徒言行録9章に詳しく記されております。それによりますと、サウロが迫害の手を伸ばすためにダマスコに向かう途上、突然、天からの光によって照らされ、地に打ち倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞いたということです。そこで実際に何が起こったのかは、よく分かりません。恐らくパウロ自身も自らの言葉をもってして十分には説明できなかったに違いありません。

 しかし、少なくとも二つのことだけは確かです。第一に、パウロがそこで自らの罪に気づいたということです。自分が正しいと思ってきたことが実は間違ったことであり、自分が知らないで行ってきたことがいかに恐るべき罪であるかということに気づかされ、打ちのめされたということであります。今まで他者を裁き、死にまで定めてきた者が、自ら裁かれるべき罪人として神の前にいることに気づいたということであります。

 そして、第二に、自らの罪を知ったパウロは、そこで彼に対して怒っているキリストに出会ったのではなく、彼を救おうとしているキリストに出会ったのだ、ということです。彼は、主の怒りに触れたのではなく、主の憐れみに触れたのです。その憐れみによって、彼は罪を赦され、救われ、そこから新しい命に生き始めたのです。

 そのようなパウロであるからこそ、確信をもってこう語るのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。キリストは来られました。罪の世のただ中に来られました。罪によって暗闇となった悲惨なこの世界のただ中に来られました。その御方は、飼い葉桶の中に寝かされた赤ん坊となり、十字架の上にかけられた死刑囚となられました。それは罪のない神の子が、この世の罪を自ら背負って苦しむ姿に他なりませんでした。神の子がそのような姿となられたのは、罪人である私たちが救われ、生かされるためでした。私たちが裁かれ、滅ぼされるのではなく、赦され、救われ、生かされるためでした。キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたのです。

 それゆえ、この世はもはや神に見捨てられ、滅びへと定められた世界ではありません。いかなる人間も、どんなに神に背いてきた人であったとしても、神の憐れみの届かないところにいる人はいません。神の救いが届かないところにいる人はいません。キリストは罪人を救うために世に来られました。それゆえ、私たちはあのベツレヘムに起こった暗い出来事を祝うのです。飾り付けをし、キャンドルを灯し、喜びに溢れて祝うのです。光が来たなら、もはや闇は闇のままではないからです。

(祈り)
 憐れみ深い天の父、
 あなたはこの世界に救い主を与えてくださいました。あなたは暗闇の世界に救いの光を与えてくださいました。今、私たちはその光のもとに集められました。私たちが光の中を生きていくことができるように、と。主よ、特に今日は二人の方々が、信仰を言い表し、洗礼を受け、新しい命に生き始めます。私たち一同、こおにおいてあなたの救いの御業を目の当たりにし、喜びに満ち溢れてあなたを讃えるものとならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2012年12月2日日曜日

「夜明けは近づいている」 

2012年12月2日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節〜14節 
----------------------------------------------------------------------

救いは近づいている 
 今日の聖書箇所において、パウロは「夜は更け、日は近づいた」と語っています。12節の言葉です。

 「《夜は》更けた」。パウロはすっかり夜も更け、暗闇に覆われた世界を見ています。それが聖書によるこの世界の描写です。私たちは夜の世界を生きているのです。そのように語ったのは、何もパウロがはじめてではありません。旧約聖書のイザヤ書にも次のような言葉がでてきます。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(イザヤ60:2)。そのように、旧約の預言者も暗闇に覆われた世界を見ていたのです。

 それは今日の私たちにおいても、ある意味では感覚的に分かります。この世界を真実に見つめる人は、この世界を明るい日差しの燦々と降り注いでいる昼間の世界としては描写しないでしょう。あの預言者と共に「闇は地を覆っている」と言わざるを得ない。「闇」「暗黒」から連想される言葉はいくらでも挙げられます。「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」「怨念」「虚無感」「死の恐怖」「絶望」などなど。確かにその闇がこの世界を覆っているのを私たちは見ているのです。

 ちなみに、先に引用した言葉を語った預言者が実際に目にしていたのは、繁栄を極めたペルシャ帝国なのです。何も不景気な暗い情勢を見て言っているのではないのです。繁栄を覆い尽くしている暗闇を彼は見ていたのです。さらに言うならば、繁栄の中においていよいよ色濃く覆う闇とは何かと言えば、それは人間の罪の暗闇なのです。神に背き、光である神を失った暗黒なのです。先に挙げた「不安」「恐れ」「孤独」「憎悪」云々はすべて、その根から生じた葉であり実に過ぎないのです。聖書は、そのような夜の世界を生きている私たちについて語っているのです。

 また、「夜は《更けた》」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはない。今年もアドベントを迎えました。教会の暦では新しい年のはじまりです。それは一年がまた過ぎて行ったことを意味します。そして、過ぎて行った一年は絶対に戻ってこない。もうそこには戻れない。そうでしょう。夜の世界に決して後戻りすることのない時が刻まれていく。そこで営まれているのが私たちの人生なのです。

 時の流れは決して後戻りしないという事実は、時として暗闇を一層暗いものとするのでしょう。一年はあっという間に過ぎていく。そうして一つ歳をとります。肉体は朽ちていき、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きて行かねばなりません。そうして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 そのように「夜は更けた」と聖書は語ります。しかし、パウロはただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。

 なぜパウロはこの世界の現実を夜明けに向かう夜として語り得たのでしょうか。それは、この夜の世界のただ中に、キリストの十字架が立てられたことを知っているからです。この世界に罪の贖いの十字架が立てられたのです。この世界は神によって十字架の立てられた世界です。罪の贖いのために御子の肉が裂かれ、血が流された世界です。神が御子によって愛を現された世界です。罪に満ち、悲惨に満ち、破局に向かっているとしか見えない世界でありながら、なおこれは神に愛されている世界なのです。だから彼は確信を持って言うのです。夜は永遠に続くのではない。朝が来る、と。十字架の闇が破られて、キリストの復活の朝が来たように、この夜の世界にも朝が必ず訪れるのです。

 これこそ喜びのおとずれです。福音です。私たちは代々の教会の宣教を通して、この福音を伝えられたのです。私たちは、その神の愛を告げ知らされ、まず私たち自身がその十字架の恵みにあずかったのです。罪の赦しの言葉を聞き、神の愛の言葉を宣言された人生を与えられているのです。私たちは朝に向かって生きる者とされたのです。朝に向いつつある夜ならば、絶望する必要はありません。そこには希望があります。ですからパウロは11節においてこう言っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。 

眠りから覚めるべき時が来ている 
 このことが分かるならば、今の時がどんな時であるかも分かります。聖書は言います。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」(11節)。朝になり日が昇ってから目を覚ますのではないのです。目覚めて朝を待つのです。まだ暗いけれども、もう眠りから覚めるべき時だ、と言うのです。

 眠りから覚めるとは、既に朝が来たように生きるということに他なりません。ですから、パウロは次のように勧めます。12節以下をご覧ください。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(12‐14節)。

 「夜は更けた。ああ真っ暗だ」としか考えられないならば、「だから、闇の行いに生きようではないか」となるでしょう。希望のない人は希望のない人のようにしか生きられない。しかし、希望を与えられている人が、希望のない人のように生きていてはならないのです。朝が来ることを信じている人が、夜が永遠に続くかのように生きてはならないのです。眠りこけてしまっているならば、今こそ目を覚ますべき時なのです。

 それは、消極的に表現するならば、闇の行いを脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているのは朝に備える限られた大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。キリストの裂かれた肉と流された血潮は、私たちが闇の中にとどまってこの夜を過ごすために与えられたのではありません。朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 そして、積極的には、「光の武具を身につける」(12節)ことです。そうです、身に着けるのは「武具」なのです。この夜の世界において、既に日が昇っているように光の中を生きるということは、それ自体闘いでもあります。私たちを闇へと引き戻そうとする力が強力に働くからです。再び闇の行いをまとわせようとする力が強力に働くのです。私たちは戦わなくてはなりません。悲しみと悩みに満ちた闇の中に引き戻されてはならないのです。そのためには武具を身につけなくてはなりません。

 光の武具を身につけるとはどういうことでしょうか。テサロニケの信徒への手紙(一)5章7節以下には次のように記されています。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5・7‐8)。

 こうして見ますと、「光の武具を身につける」とは特別な神秘的な体験によって何かを得ることではなさそうです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と言われているところで具体的にイメージされているのは、恐らくごく当たり前の信仰生活なのです。何ら特別なことではない。主を礼拝し、福音の言葉を聞き、キリストの裂かれた肉と血にあずかり、福音に基づいて主に従って生きる新しい生活です。

 ですから、そのような「光の武具を身につける」ということが、さらに「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言い換えられているのです。「身にまとう」という言葉の意味するところは、「一体となる」ということです。ガラテヤの信徒への手紙にはこう書かれています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(3:27)。そのように、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という勧めの言葉は、洗礼において与えられるキリスト者としての生活、キリストとの交わりの生活のことなのです。そのような信仰生活をしっかりと身に着けることなくして、暗闇に引きずり込む力と戦うことはできないのです。

 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」そのように、私たちは今日も「目覚めて待て」との主の呼びかけを聞いています。これは礼拝の度ごとに呼び掛けられている言葉であるとも言えるでしょう。眠りこけてしまっているならば、ここで目を覚ますべきです。朝が来ないかのように生きていたならば、もう一度朝の光の中に生き始めるのです。キリストを身にまとい、キリストとの交わりの生活を回復するのです。こうして私たちは、主の御言葉を聞きながら、一週間一週間を刻みつつ、後戻りできない時の間を夜明けに向かって共に生きていくのです。

2012年11月18日日曜日

「差し出された神の手を握る」

2012年11月18日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 3章11節〜26節
-------------------------------------------------------------

体の癒し以上のこと 
 エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。

 なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が奇跡的に癒された。そのようなことがありますと、人々は驚いて集まってくるものです。確かに驚くべきことが起こりました。しかし、彼に起こったこと本質は単に肉体の癒し以上のことでした。彼は「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。

 癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美したのです。神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことなのです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。

 考えてみれば、足が癒されることは必ずしも幸せな生活を約束するものではありません。今まで物乞いをして生きてきた人です。仕事はあるのでしょうか。足が癒されたら癒されたで、恐らくはその先に数多くの困難が待っているに違いない。体が癒された喜びは次に困難に出会った時に消えてしまうかもしれません。しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、永続的な意味を持つのです。さらに言うならば、それは死を越えて永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。

 ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがある。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。

 外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは自分がただキリストの恵みの通路に過ぎないことをよく知っていました。ですから、集まって来た人々に言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。

 さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。

 ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的なことでした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではない状況であったとも言える。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とは何事ですか。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。

 しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの名を信じて、神の御業を信仰によって受け取ったのです。その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。ですので、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。 

神の手を握る 
 語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。

 ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。

 「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、本当に「生きている」のか。いや、正確に言うならば「生きている」のではなく、「死につつある」というのが正しいのでしょう。皆間違いなく確実に死に向かっているのですから。さらに言うならば、聖書にはこんな言葉も出て来る。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではない。また、生き生きと生きているということですらないのです。

 では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を、また生きているのではなくて実際には死につつある者を、起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。

 しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。

 ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかった。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。

 神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はなおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。

 それゆえにペトロは彼らにこう語りかけます。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。

 なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それは神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。ヨハネの黙示録には、神が私たちの「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)と書かれていますが、そこにあるのは同じ言葉です。神がぬぐい取ってくださったら、もう永遠に涙はないでしょう。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。

 そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。命への導き手を拒絶し殺してしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、十字架に釘付けしてしまった人にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということでしょう。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことなのでしょう。エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しましたが、まさにその信仰こそがここで求められていることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。

2012年11月11日日曜日

「備えられている祝福にあずかりましょう」

2012年11月11日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章1節〜14節 
---------------------------------------------------------------------- 

キリストは呪いとなって
  今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは本日与えられているガラテヤの信徒への手紙の一部を読み、子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所には確かに「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返されているのです。それはその対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ない ということなのでしょう。
 「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。

 ご存じのように、キリストは毒殺されたのではなく、切り殺されたのでもなく、「十字架」にかけられて死にました。この手紙を書いたパウロは、そこに特別な 意味を見ています。彼は「木にかけられた者は皆呪われている」という旧約聖書の言葉を引用します。十字架にかけられたキリストは、確かに肉体的な苦痛を味 わわれたことでしょう。精神的な苦痛も受けられたことでしょう。しかし、木にかけられた、十字架にかけられたキリストの受けられた苦しみの本質はは「呪 い」にあったのだ言うのです。 

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって」と書かれています。「呪いとなって」というのは「呪われた者となって」ということです。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から断罪されて見捨てられるということです。完全に見捨てられたということです。それがキリストの苦しみだったのです。それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのイエス様の叫びは、肉 体的精神的苦痛の中で信仰が弱まってしまったという話ではないのです。キリストは実際に呪われたのです。断罪されたのです。捨てられたのです。愛する天の 父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。 

 人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。この手紙を書いているパウロもま た、そのような人のひとりです。多くの人がそのようにして苦難を耐え忍んできたのです。それは神に見捨てられているとは思っていないからです。そこにはな おも神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのでしょう。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。 

律法の呪いから贖い出してくださった 
 それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちがもはや呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。キリストが呪われた者となってくださったのだけれど、本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられて然るべきであったのは、私たちだったのだということです。

 どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 例えば、身近な人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にある人の前ですべてが暴かれたとしたら、すべてがさらけ出されたら、その人はなおあなたを愛するでしょうか。すべてが明らかになったとき、なお人はあなたを受け入れるでしょうか。むしろ、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられたとしても不思議ではないのではありませんか。

 もっとも人と人との間であるならば、もしかしたら「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはならないでしょう。聖なる神の前にすべてが明らかにされるならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。しかも、そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。私たちは絶対者の前に立った時、絶対的な基準で判断されるのです。ですからあえて「律法の呪い」と言われているのです。問題となっているのは神の律法なのです。私たちの道徳感ではありません。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい者です」と言える人などひとりもいないことは明らかでしょう。そう考えますと、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者であると言えるでしょう。

 しかし、神はそのような私たちを見捨てまいとされたのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、この世をなお愛そうとされたのです。私たちをそれでもなお愛し、赦し、受け入れようとされたのです。それゆえに、裁かれなくてはならないこの世の罪、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださったのです。私たちが呪いを受けないためです。見捨てられないためです。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。ここに救いがあるのです。キリストが呪いとなってくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていないのです。私たちが受けるべきものは呪いではなく、祝福しか残っていない。祝福された者として、神に愛されている者として、神と共に生きることだけです。何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。他の手紙に書かれているように、もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。どんなことがあっても神の愛を信じることが許されているのです。

ただ信仰によって 
 このように、十字架にかけられたキリストをパウロはガラテヤの信徒たちにも語ってきたのです。1節後半において、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言っているとおりです。そのことを思い起こさせようとしているのです。なぜなら、ガラテヤの人たちは、それを忘れかけていたからです。十字架にかけられたキリストにもはや目を向けてはいなかったからです。

 ただキリストの十字架のゆえに、本来呪われるべき罪人が、罪を赦され、祝福を受けて今あるを得ていることを忘れて、自らの行ないを誇り、自らの力に頼って救われようとしていたのがこのガラテヤの信徒たちだったのです。彼らは十字架にかかられたキリストを信じてキリスト者となったはずでした。しかし、今や十字架無しで祝福を受けようとしていたのです。

 それは私たちにも起こり得ることです。キリストの十字架から目をそらしてしまう時、その人の信じるキリスト教は十字架抜きの道徳教になってしまいます。十字架抜きのクリスチャンは、熱心になればなるほどますます自分を誇るようになります。そして、その熱心さは、結果として世にも恐るべき傲慢な人間を作り上げるのです。

 今日の朗読は「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」という嘆きの言葉から始まっていました。そうです、この世の言葉によって惑わされてはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのは信仰なのです。

 3章6節以下をご覧ください。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(3:6‐9)

 ここで言われている「信仰」とは何でしょうか。聖書は「信仰」について抽象的な定義付をしません。そうではなく、実際の信仰を物語り、具体的に信仰に生きた人を私たちに示すのです。そのひとりがアブラハムです。では、アブラハムはどのような意味で「信じた」のでしょうか。

 パウロが引用したのは創世記15:6です。本日の第一朗読において読まれた箇所です。創世記15章を見ますと彼には子供がいないことが分かります。彼は既に年老いておりました。その彼に神様は語られるのです。15章の4節からお読みします。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる』」。これに続いて、先ほどの言葉、『アブラム(後のアブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』が来るのです。アブラハムは、ある意味では到底信じられないような神の言葉を受け入れたのでした。ただ神の約束を信じ、その約束に自分自身をゆだねたのです。自分の全存在をその約束にゆだねたのです。それが「信じる」ということの内容です。

 今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけておられます。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さったということを語りかけておられるのです。ここに私たちの罪の赦しと命と祝福があることを、キリストの十字架によって示しておられるのです。もはや私たちは呪われた者として生きる必要がなく、決して絶望する必要がなく、どんなときにも神の愛の内にある者として生きることができると語られるのです。それは信じ難い約束かもしれません。アブラハムの子孫が星のごとくなるというのと同じくらい、いや、それ以上に信じ難いことかもしれません。しかし、十字架を通して語られた神に徹底して信頼することが信仰なのです。その約束に私たちの全存在をゆだねること、それが信仰なのです。それがキリストを信じるということなのです。そして、この信仰によって、私たちは祝福の内に生きるのです。

2012年11月4日日曜日

「わたしは道であり、真理であり、命である」 

2012年11月4日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章1節〜6節
---------------------------------------------------------------

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げしています。私たちが記念しているのは、既に世を去られた方々です。しかし、この日、私たちが考えるべきことは「死について」ではありません。「命について」です。今日与えられた聖書の言葉は、命について語っている御言葉です。特に心に留めたいのは、ヨハネによる福音書14章6節です。今日の説教タイトルともなっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで私たちは、ここでまことに驚くべき言葉を耳にしています。この御方は、ただ道を示されるだけではありません。「わたしが道なのである」と言われるのです。この御方は、ただ真理を語られるだけではありません。「わたしが真理なのである」と言われるのです。この御方は、ただ命へと導いてくださるだけではありません。「わたしが命なのである」と言われるのです。

父の家には住む所がたくさんある
 この言葉が語られましたのは、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様は、御自分に迫っている恐るべき事態をよくご存じでした。まもなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられ、殺されるであろうことをご存じであられました。主は確かに受難の道を、十字架の死に至る道を歩んでおられたのです。

 しかし、イエス様の御目は、ただ苦難と十字架だけに向けられていたのではありませんでした。主の眼差しは、十字架のその向こうに、向けられていたのです。先ほどお読みした14章1節以下を御覧ください。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(1‐2節)。主は十字架の死の向うに、父の家を見ているのです。主は御自分が父のもとに行くのだ、ということをはっきりと意識しておられたのです。

 さらにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(1‐3節)。そのように、父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、父のみもとに迎えられるのです。イエス様によって迎えられ、主のおられるところに弟子たちも共にいることになる、と語られているのです。

 イエス様は、弟子たちが行き着くところ、私たちが行き着くべきところを、明確に告げてくださいました。最終的に私たちが行き着くべきところ、それは《父の家》です。父なる神のみもとなのです。このことを意識するかしないかで、私たちの人生は変わります。どこに向かって生きるのかということが、その人の生き方を決定するのです。

 帰るべきところが父のみもとであり、父の家であるということは、私たちの人生を最終的に評価するのは、父なる神であるということです。このことは特にこの弟子たちに語られねばなりませんでした。というのも、弟子たちはこの先、困難と迫害の中を生きていかなくてはならなかったからです。すなわち、人々から憎まれて、何も成し遂げないままに、まるで無駄死にのような仕方で死んでいかなくてはならないことも、あり得るということなのです。そして実際、そのようなことは起こったのです。教会の歴史の中において繰り返し起こったのです。迫害の中で誰からも顧みられることなく、記憶されることなく閉ざされた人生を、いったい誰が評価するのでしょうか。それは父なる神なのだ、というのです。弟子たちは、そのことを知らなくてはならなかったのです。

 それは迫害の中にあるわけではない、私たちにおいても同じです。私たちの働きは、未完成に終わるかもしれません。途中で行き詰まり、あるいは不測の事態に翻弄されることがあるかもしれません。身を粉にして取り組んだことが、必ずしも人から評価されるとは限りません。まったく気にも留められないかもしれません。ありったけの愛を注ぎ込んでも、最後まで拒否されて終わるかもしれません。ただ無駄に失われていったとしか思えない年月があるかもしれません。しかし、それはそれで良いのです。そんなことで人生の意味は決まらないからです。私たちの一生を判断するのは、私たち自身ではないからです。他の誰かもありません。私たちは父のみもとに行くのです。父なる神が私たちを迎えてくださるのです。父が見てくださることこそ、父なる神が評価してくださることこそが、最終的に唯一意味を持つのです。

わたしは道である
 そのように、行くべきところが明確に告げられているということは、実に幸いなことです。しかし、ここで一つの問いが、私たちの心の中に頭をもたげてくるかもしれません。「キリストが父のみもとに帰ったからと言って、そのキリストと同じところに私たちもまた帰ることができると、本当に言えるのだろうか。父なる神が、私たちを受け入れ、迎え入れてくださるということを、本当に信じて良いのだろうか。」――もしそのような問いを持つ人がいるならば、その問いは実に健全な、正しい問いであると思います。なぜなら、事実、私たちとキリストとは異なるからです。

 キリストは父なる神から遣わされた御方として、父の御心だけを行いました。キリストには罪がありませんでした。そのようなキリストにとって、使命を終えて父のみもとに帰って行くということはことは、自明のことでした。父のみもとに場所があることは至極当然のことでした。ですから、十字架において死ぬことは、父なる神のみもとに移されることに他ならなかったのです。

 しかし、私たちは違います。私たちは決してキリストのように罪のない者ではありません。神に背いて、背いて、また背いて。そのようなことを繰り返してきた自分の人生をひっさげて、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です」と言えるでしょうか。「あなたが私を迎えてくださることは当然です」と本当に言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。父なる神のもとに私たちの行き着くべき場所がある。それはどう考えても、本来あり得ないことなのです。

 しかし、皆さん、2節を御覧ください。そうであるからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり、それまでは用意されていない、ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではないのです。イエス様がしてくださったことによるのです。

 キリストは場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、キリストは、十字架にかかられ、自ら血を流して私たちの罪を贖うことによって、場所を用意してくださったのです。そのようにして、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は言われたのです。「わたしは道である」と。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。私たちは、イエス・キリストによる罪の贖いという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。それゆえ、イエス様は言われたのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。

 ヘブライ語の「道」という言葉は、もともと「踏みつける」という言葉に由来します。道というのは、人が踏みつけて通るものです。「道を通る」とはそういうことです。イエス様は、私たちが踏みつけて通るための道となってくださいました。私たちはそのままでは父のみもとに行けないから、父のみもとに行けるようにと、私たちが踏みつけて通るための道になってくださったのです。イエス様が十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったとはそういうことなのです。イエス様が、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのは、「だから、わたしを通って父のもとに行きなさい。わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負うから、わたしを踏みつけて通って父のもとに行きなさい」ということなのです

 わたしは真理であり命である 
 そのように、イエス・キリストは私たちに道を示してくださったのではなくて、キリスト自らが道となってくださいました。それこそが私たちの知るべき「真理」なのです。その「真理」そのものとして、イエス様は来られたのです。主は言われるのです。「わたしが真理である」と。

 ですから、真理を知るということは、単に「キリストについて知る」ということではありません。「キリストを知る」ということです。《キリストについて知る》ということと、《キリストを知る》ということは、異なるのです。《キリストを知る》ということは単なる知識ではありません。人格的な関係であり、人格的な交わりです。言い換えるならば、それは「信ずる」ことであり、「愛する」ことであり、「礼拝する」ことです。

 ですから、私たちは、週ごとに集まって、聖書の勉強会をするのではなく、キリスト教の勉強会をするのでもなく、礼拝をするのです。単にキリストについて語ったり、聞いたりするのではなく、祈り、讃美をするのです。単にキリストについての信仰箇条を信じるのではなく、キリストを信じるのです。私のために、あなたのために、命を投げ出して、父へと至る道となってくださった、そのキリストというお方を信じるのです。

 そのキリストが「わたしは命である」と言われたのです。ならばここで言う「命」とは単なる活力や生命力のことではありません。活き活きと生命力に満ち溢れて生きられることは素晴らしいことです。しかし、それが最終的に重要なことではありません。なぜなら、活力に溢れている人もまた死ぬからです。死はその人をも確実に呑み込んでいくのです。人間はいかなる状態にあったとしても、どんなに元気な人であっても、《死につつある》存在であることに変わりはありません。ですから、本当の意味で「命」が語られるためには、死が克服されていなくてはならないのです。

 イエス様は、「わたしは命である」と言われました。キリストにこそ、死の完全なる克服があります。キリストがおられるところにおいて、もはや死は力を持ち得ないのです。キリストとの交わりがあるならば、もはや何も恐れる必要はありません。なぜなら、キリストは父のみもとに場所を用意してくださる方であり、私たちが父のみもとへ行くための「道」そのものとなってくださったお方だからです。だからこそ主は「命」なのです。主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。

2012年10月14日日曜日

「キリストの涙」

20121014日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 
聖書 ヨハネによる福音書 1128節〜44節
---------------------------------------------------------------------- 

  「イエスは涙を流された」(35節)。そう書かれていました。原文では三つの単語から成る、聖書で最も短い節と言われます。「イエスは涙を流された」。しかし、イエス様の内にあったのはただ悲しみの感情だけではありませんでした。直前にはこう書かれています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った」(33‐34節)。イエス様は憤りを覚え、興奮しておられた。主は何に対して怒られたのか。なぜ主は興奮され、そして涙を流されたのでしょう。そのことを考えながら、今日の箇所をお読みしたいと思います。 

イエスの涙と憤り 
 エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病気でした。ラザロは死に瀕しておりました。

 マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様はすぐに向かおうとはされなかったのです。主は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。そして、同じところになお二日滞在されたのです。

 結局、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎたということです。もはや終わりであって、望みはない。イエス様はラザロを助けることはできなかったということです。

 今日お読みした箇所でも、マリアがこう言っていました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。つまり来て下さるのが遅すぎた、と言っているのです。どうしてもっと早く来てくださらなかったのか。どうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。そう言ってマリアは泣いていたのです。また、ユダヤ人たちがこう言っています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)。そのような言葉と共に、一緒に来たユダヤ人たちの泣き叫ぶ声が響いている。今日お読みしたのはそのような場面です。

 そのような場面は、私たちにも覚えがあります。私たちの身近な人、親しい人が亡くなった時、同じことを呟くかもしれません。イエス様はどうしてもっと早く助けてくださらなかったのか。手遅れになってしまったではないか。イエス様でさえも、この人を死なないようにはできなかったのか。この福音書が書かれた頃、その読者の中には同じような思を抱いている人がいたかもしれません。迫害の中で悲惨な姿で死んでいった人たちを見て、どうして早く助けてくださらなかったのか、イエス様はこの人が死なないようにはできなかったのか、と思う人がいたとしても不思議ではないでしょう。

 そのように泣き叫ぶ人々の声。もっとも、当時の習慣としては泣き女や泣き男と呼ばれる人々もいたと言います。ですから、そこに響いていたのが全て悲しみの声であったとは言えないかもしれない。しかし、それでもなお人間の泣き叫ぶ声が響き渡っている光景は象徴的と言えます。死を前にした人間の不信仰、そして人間の絶望がそこにあります。そのような、死という現実を前にした不信仰と絶望の支配の中にイエス様は入って来られたのです。

 そして主は憤りを覚えた。その憤りは何に対してなのでしょう。絶望に支配されている人々に対してでしょうか。いやそうではないでしょう。イエスは涙を流されたのです。共に涙を流されたのです。ならば憤りがどこに向けられているかは明らかです。それは不信仰の支配そのものに対してです。絶望の支配そのものに対してです。いやさらに言うならば、不信仰と絶望をもって人間を支配しようとしている者に対してと言うのが正しいのでしょう。ヨハネによる福音書では「この世の支配者」と呼ばれている悪魔に対してです。主は絶望の暗闇に人間を閉じ込めている悪魔に対して憤られ、またその支配のもとにある人間の現実に涙を流されたのです。 

石を取りのけなさい 
 しかし、主はただ憤られ、涙を流されただけではありませんでした。主は言われます。「どこに葬ったのか。」人々は答えました。「主よ、来て、御覧ください」。そして、主はラザロが葬られた墓に向かわれたのです。死んで既に四日経っている死者の葬られているその墓へと向かわれるのです。人間の目からみて手遅れとしか見えないそのところに、もはや完全な終わりでしかないそのところに、主は向かわれるのです。そのようにして、憤りをもって悪魔に立ち向かわれるのです。

 主は言われます。「その石を取りのけなさい」(39節)。死んだラザロの姉妹マルタは答えました。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。そう言わざるを得ない現実げ厳然として目の前にあります。ですからマルタにとっては石を取りのけても意味がないのです。しかし、そのようなことは重々承知の上で主は言われたのです。「その石を取りのけなさい」と。ならばそれは何を意味するのか、明らかでしょう。そこでなお信じなさいということでしょう。主が求めているのは、死という現実を前にして、なおそこで「信じる」ことなのです。主はこう言われるのです。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)。

 「もし信じるなら」。――そのことについては既に語られていました。主は「四日もたっていますから、もうにおいます」と言うマルタに、既にこう言っておられたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。

 イエスは復活であり命である。復活であり命である御方が、完全な絶望の中に入って来られたのです。人間の目に死は《終わり》としか見えないかもしれない。しかし、そこに復活であり命である御方が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなるのです。絶望ではなくなるのです。このことを信じるか、と主は言われたのです。そして、今日お読みしたこの場面においても、主は墓を前にしてもなお人が信じることを求めておられるのです。 

ラザロ、出て来なさい 
 そこで人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。さて、この奇跡物語について一つだけ大事なこととして触れておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になったということです。言い換えるならば、キリストが十字架にかけられる原因になったということです。

 45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです

 もっとも、このことは何も驚くべきことではなく、必然的な流れであったと言えます。イエス様がベタニアのラザロの家に着いた時から、主は既に大きな危険の中に置かれていたのですから。そうです。イエス様には分かっていたのです。自分がどこに向かっているのかを。十字架の死に向かって歩みを進めていることを知っていたのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と宣言されたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、憤られ、涙を流されたのです。そして、十字架へと向かっている御方として、このしるしを行われたのです。イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれていますが、このような表現がイエスについて用いられているのはここだけです。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命をかけた叫びなのです。いわばイエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

 いや、もちろんそれはラザロ個人を墓から呼び出されるためではありませんでした。ここで墓から呼び出されたラザロも、やがては死んで再び墓に戻るわけでしょう。ですから、これは先ほどから言っていますように、あくまでも「しるし」なのです。イエス様が何をなそうとしておられるかを指し示すしるしだったのです。イエス様は、死を前にして絶望するしかない人間に、永遠の命を与えるために十字架へと向かっておられたのです。それこそが人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げようとしておられたことなのです。

 そのように、キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。それは私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。復活であり命である御方によって永遠なる神との交わりが与えられるなら、主が言われるとおり「死んでも生きる」のです。いや、復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、主が言われるとおり「決して死ぬことはない」とも言える。そこにおいて、もはや悪魔は死をもって人間を暗闇の中に閉じ込めることはできないのです。主は十字架において悪魔に対する完全な勝利をおさめられました。それこそが、人間の悲しむべき現実に涙を流されたイエス様が成し遂げてくださったことでした。

2012年10月7日日曜日

「この世に生きるということ」

 2012年10月7日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1節〜10節
----------------------------------------------------------------------

地上の幕屋が滅びても
  「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天に ある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、「私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない」ということです。そのこと が、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。

  まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」に喩えられています。私たちのこの体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。 それは感覚的に良く分かります。テントは暫定的な一時的な住まいです。テントは弱いものです。脆いものです。長く使っていれば綻びてきます。私たちのこの 世の生活はなるほどそのようなものです。私たちはこの体というテントが何百年も持たないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活すること になります。やがてはこのテントは役目を終わることも知っています。

  そして、やがてはこのテントを手放すことになります。パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱 いだら裸になってしまうでしょう。私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれてい ます。ちゃんと別の着物が用意されているのです。1節にはその別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、住まいに喩えられていました。一 度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られた ものではない天にある永遠の住みかです」。

  この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださる。天の体です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なもの でもない。それは「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので奇妙な表現ですが、言わんとし ていることは分かります。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上 の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。

  「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。そのことについても私たちは良く知っています。この体をもって生きることは、苦しいことで す。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられる という苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと いう意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、自分の罪 との戦いということでもあるでしょう。

  確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しんでいるのではない。「天から与えられる住みかを 上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつということです。やがてはその願いが現実 となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それはいわば、最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放 された体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちだと聖書は 言っているのです。

天には建物が備えられている
  さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいな いことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」にあるのではないのです。あくまでも「着ること」にあるので す。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬは ずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。

  どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることに救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄で ある。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望があ る、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きている人は、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることこそ救いだ、 と。

  しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロですけれど、彼は苦しいこの幕屋生活の方に焦点を当てないのです。そうではなくて、天に備えられてい る建物の方に目を向けるのです。そこにおいて上から着せられる完全な救いの方に目を向けているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ち つつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、天に備えられているものを着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違って くるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたので す。

  ではいったい何がそれを可能としたのか。いや、「何が」ではなく「誰が」と言うべきでした。それはキリストなのです。十字架にかけられ、復活され、そして 天に挙げられたキリストなのです。パウロの救い主であり、私たちの救い主であるキリストです。パウロは天におられるキリストを愛し、慕い求め、礼拝してき たのです。主なるキリストを思いつつ共に天を仰いで礼拝する場所に、天と地とが出会って一つとなるその場所に身を置き続けてきたのです。その彼が天に備え られている救いを思って生きることは、きわめて当然のことだったのです。

ひたすら主に喜ばれる者でありたい
  そのように、パウロにとって救いの完成は天にある永遠の住みかを着ることであったのですが、さらに言うならば最も重要なことはそのこと自体ではありません でした。その救われた体をもって主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている かぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主 のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。

  パウロにとって幕屋住まいにおける一番の問題は何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰におい て主と共にあるのです。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまた幕屋住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れ て、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。今のこの体を離れることを望むのは、苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むた めなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあること。主との関係。主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であ ることなのだと彼は言います。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。

  天幕住まいにおける私たちの信仰生活もまた、つまるところ、ここに向かわなくてはならないのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにして も、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、また天幕住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活では ないのです。これはただ脱ぎ捨てるだけの体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確 かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるかもしれない。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主 を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。

  だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちがこの地上においてどう生きるかは主にとっての重要事項なの です。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかと していたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

  キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪を十字架において贖ってくださった御方です。そして、信仰によって私たちの罪を赦し、義としてく ださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。

  主は私たちのこの地上の人生を関心をもって見ていてくださる。ですから「悪」もまたその御前にある。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言っ て、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。主 の目に善しとされること。それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍び ながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはたくさんあるかもしれない。 しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを 考えていたらよいのです。それがこの天幕住まいにおいて求められていることなのです。

保証として与えられている聖霊
  さて、そこで最後に先ほど飛ばしました5節に戻ることにしましょう。次のように書かれています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてく ださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」(5節)。私たちが天に備えられている永遠の住まいを着せられるとするなら ば、つまり完全な救いに与るとするならば、それは私たちがもともとふさわしいからとか資格があるからではありません。それはただ神の恵みによるのです。そ の恵みの目に見える現れは、今、こうして私たちが信仰生活を営んでいるということです。「“霊”を与えてくださった」とはそういうことです。私たちが今こ うしているのは、ただ神の霊のお働きによるのです。

  しかし、興味深いのは、「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」と書かれていることです。「保証」という言葉は、「手付け金」を意味する 言葉です。全体は後で受け取るのです。その前に一部分を先に受け取るのです。その意味で「手付け金」であり「保証」です。私たちはやがて完全な救いにあず かります。天に備えられている体を着せられ、文字通り主と共に生きるのです。それがどれほど喜びに満ちたものであるか、私たちは想像することさえできませ ん。しかし、その一部を味わうことはできます。天幕住まいの間に、先だって味わうのです。それがこうして共に礼拝を捧げる教会生活なのです。それが聖霊を 与えられるということなのです。

  言い換えるならば、信仰生活の喜びを味わえば味わうほど、最終的な救いの希望もまた確かになってくるということです。やがて主と共にある希望をもって喜び つつ、今、信仰によって主と共に生きるということでもあるでしょう。そのように、天の恵みを味わいつつ、信仰の歩みを続けてまいりましょう。

2012年9月30日日曜日

「憐れみ豊かな神の深き知恵」

2012年9月30日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章25節〜36節
-------------------------------------------------------------------------
 
自分を賢い者とうぬぼれないように 
 ご存じのように、イエス・キリストの弟子たちは皆、ユダヤ人でした。最初に誕生した教会は全員ユダヤ人から成っていました。しかし、使徒言行録に見るとおり、福音はやがてユダヤ人以外にも伝えられることとなりました。その結果、教会にはユダヤ人クリスチャンと、ユダヤ人ではない異邦人クリスチャンが共存することとなりました。

 本日読まれた聖書箇所では「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と語られていました。ここでパウロが「兄弟たち」と呼びかけているのは、先に触れた異邦人クリスチャンたちです。彼らに「自分を賢い者とうぬぼれないように」と言っているのです。自分を賢い者とみなすとするならば、それは誰かと比較してのことであるに違いありません。誰と比較しているのでしょう。9章から読むと明らかなのですが、それはユダヤ人たちとの比較においてなのです。さらに正確に言うならば、福音を受け入れようとしないユダヤ人たちと福音を受け入れた自分たちを比較してのことなのです。

 先ほど「使徒言行録に見るとおり、福音はやがてユダヤ人以外にも伝えられることとなりました」と申しました。しかし、往々にしてユダヤ人以外に福音が伝えられ、異邦人クリスチャンが生み出される契機となったのは、ユダヤ人たちの頑ななまでの拒絶だったのです。典型的な例はコリントの宣教です。パウロは当初ユダヤ人の会堂でキリストを宣べ伝えたのです。しかし、ユダヤ人たちは受け入れませんでした。そこでパウロは「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と言って、ティティオ・ユストという異邦人の家に宣教の拠点を移した。実はその家は会堂の隣だったのです。するとコリントの多くの人がパウロの言葉を聞いて信じて洗礼を受けた。こうして異邦人が大多数を占めるコリントの教会が誕生したのです。

 もちろん、この手紙が宛てられているローマの教会はコリントの教会と同じ経緯で誕生したわけではありません。しかし、それでもなおローマの異邦人クリスチャンの周りにおいては、福音を受け入れようとはしないユダヤ人たちは身近な存在だったことでしょう。彼らの拒絶的な態度も身近なことだったのでしょう。そこで、ともすると自分たちとユダヤ人たちを比較して、あたかも自分たちが賢い者であるかのように思ってしまう。そのようにして、ユダヤ人たちを見下すということが起こってくる。パウロは彼らに「自分を賢い者とうぬぼれないように」と書かざるを得なかった事情は分かるような気がします。

 さらに言うならば、誰かを愚かな人と見なし、誰かを貶め、見下している時、そこにあるのは往々にして劣等感の裏返しなのです。初期の異邦人クリスチャンにおいても、多分にそれは考えられることでした。初期の異邦人クリスチャンの多くは、もともとユダヤ人の会堂に出入りしていた「神を敬う者・敬神家」と呼ばれる人たちでした。彼らは会堂に通い、熱心に聖書を学び、神を畏れ敬う生活を身に着けようとしていたでしょうけれど、幼い頃から徹底的に聖書を学んできたユダヤ人たちとは、知識においても生活においても格段の差があるわけです。しかし、そのような彼らがキリストによる救いの真理を知った。大きな救いの喜びをも体験した。そこでそれまでの劣等感の裏側がそのまま出てくるならばどうなるでしょう。「彼らは聖書には詳しいかも知れないが、本当に大切な救いの真理を知らない。かたくなで無知な人々である。我々の方が遥かに賢いではないか。」そのような思い上がりとなって現れてきたとしても不思議ではないでしょう。

 このように、神の御前における事柄さえ、信仰に関わる聖なる事柄さえ、人間の心の内にあってつまらぬ思い上がりとうぬぼれの種になる。人を見下すような、劣等感の裏側が表に現れてくる契機となってしまう。なんとも人間の心の動きとは醜いものかと思います。そのような人間の罪深さを知るパウロであるからこそ、ここで「ぜひ知ってもらいたい」と言っているのでしょう。 

知るべき秘められた計画 
 「ぜひ知ってもらいたい」。それは何か。パウロはそれを「秘められた計画」と呼んでいます。これを「奥義」と訳している聖書もあります。「奥義」と言いますと、覆い隠された事柄のように聞こえますが、パウロの言わんとしていることは、既に覆いが取り除かれた奥義のことなのです。神が覆いを取り除いてくださることによって、明らかにされた奥義のことなのです。さらに言うならば、キリストの十字架と復活によって明らかにしてくださった奥義のことなのです。

 神はキリストをこの世に遣わされました。しかし、人間はこのキリストを十字架にかけて殺してしまいました。こうして十字架において神に敵対する人間の現実が明らかになりました。いわば神が私たち人間に伸ばされた救いの手を人間は拒否して、その手に釘を打ち付けたのです。しかし、私たち人間の罪よりも、神の救いの愛は遙かに大きかったのです。人間がキリストを十字架にかけてしまったのですけれども、その十字架のキリストを神は人間の罪の贖いとされたのです。神は私たちの罪を背負って死なれたキリストを復活させ、私たちの主として、救い主としてお立てになられたのです。神の救いの愛は人間の罪よりもはるかに大きい。神は救いの御計画においてはっきりとその事実を明らかにされたのです。

 そのキリストの光のもとで見るならば、今かたくなに反抗しているイスラエルについても全く違ったことが見えてくるのです。秘められていた計画がそこにおいても明らかにされているのです。肉の目にはユダヤ人たちの反抗と不従順が最終的な姿に映るかも知れない。しかし、キリストの十字架の光のもとで見る時に、ユダヤ人は罪のゆえに滅ぼされて終わりではないのです。かたくなさは最終的な彼らの姿ではないのです。それは異邦人が救われるまでのことだ、とパウロは言うのです。神は彼らをかたくななままではおかれない。人間の罪よりも神の愛の方が大きいからです。それゆえ最終的に救いは全イスラエルに及ぶのだとパウロは言っているのです。

 確かに現状を見るならば、彼らは依然として神に敵対しているのでしょう。パウロも心を痛めているのは事実です。しかし、ここでパウロは言うのです。神に敵対する彼らは神にとっても敵であるのか。神も彼らに敵対しておられるのか。そうではない、とパウロは言うのです。28節で彼は大胆にも「彼らは神に愛されているのだ!」と言うのです。それは「先祖たちのお陰で」と訳されていますが、要するに、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神の約束は今も生きているということです。パウロは確信をもって言うのです。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(29節)と。彼らがどれほど神に敵対していたとしても! 

ただ憐れみによって 
  そして、神が敵対する者をもなお愛されるとするならば、それは神の憐れみによるとしか言いようがないでしょう。人の側には愛される要因がまったくないのですから。それゆえ、その後の30節以降には「憐れみ」という言葉が繰り返されることになります。しかし、この憐れみについて語る時、パウロは話をイスラエルのことに限定いたしません。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています」(30節)と異邦人クリスチャンに言い始めるのです。

 そうです、神に不従順であり、神に敵対していたのは、イスラエルの人々だけではありません。今はキリストを信じている異邦人クリスチャンも同じだったのです。その彼らが神に愛されているとするならば、それはやはり神の憐れみによると言わざるを得ません。イスラエルの人々の不従順によって、福音はユダヤの世界を飛び出しました。そして、もともと聖書を知らず、メシアを待望していたわけでもなかった彼らが、その恵みに与かることとなりました。しかし、それは彼らが優れていたからではありませんでした。そこにあるのはただ神の憐れみだったのです。

 そのことを思うとき、彼らはかたくなに福音を拒否しているユダヤ人たちを裁くことはできないはずなのです。軽蔑したり、見下したりするなど、もっての他でしょう。自分が神の憐れみのもとにあるならば、他の人もまた神の憐れみのもとにある者として見るべきなのでしょう。どんなに神に逆らっているように見える人であっても、神の憐れみのもとにある人として見るべきなのでしょう。それゆえパウロは異邦人クリスチャンに言うのです。「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(31‐32節)。パウロは何よりもこのことを彼らに知って欲しかったのです。 

ああ深きかな! 
 そして、ここまで記したパウロは「ああ!」と感嘆の声をあげます。彼はこの手紙を口述筆記させているのですから、実際に「ああ!」と大声で叫んだに違いありません。人は神の憐れみを知る時に、神を讚美せざるを得なくなるのです。神をほめたたえて礼拝せずにはおれなくなるのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう」(33節)。

 「富」とはこれまで述べられてきた神の憐れみの圧倒的な豊かさのことであります。そして、神はその驚くべき知恵と知識をもって、その憐れみの富の内にこの世界を、この歴史を、そして私たちを包み込んでいるのです。この神の知恵と知識は、それを人間の浅い知恵と知識をもって計り知ることができません。人はただ神の知恵と知識に基づく神の救いの御業をほめたたえることができるだけなのです。

 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか」(34節)と書かれています。そのとおりです。神は私たちの小さな頭で分かるような仕方で事を進める必要はもともとなかったのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)ともあります。神は私たちから受け取ったことに従って事をなされたのでもありませんでした。私たちの考えを遙かに超えた、とてつもなく大きな神の憐れみが全てに先行してそこにあったのです。それゆえパウロはこう言って9章からの論述を締めくくります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

 まことに神の憐れみに対する驚きから生まれた讚美には、自分の功績についてのつまらぬ誇りなど、入る余地がありません。神の知恵と知識の深さへの驚きから生まれた礼拝には、自分を賢い者として他者を見下すようなうぬぼれなど、入る余地はないのです。言い換えるならば、このようなまことの讚美と礼拝こそ、人間の劣等感の裏返しでしかないようなつまらぬ誇りから人間を解放するのです。私たちもまた、パウロと同じように、驚きをもって神の憐れみの富と知恵と知識の深さに目を向け、共にこのお方をほめたたえたいと思うのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか!栄光が神に永遠にありますように。アーメン」と。願わくは、私たちの人生そのものが、この神の憐れみに対する驚きから生まれるまことの礼拝となりますように。

以前の記事