2020年10月28日水曜日

祈り会用:ヨハネによる福音書 14:8-14

 ヨハネ14:8‐14

 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。主は弟子たちにそう言われました。弟子たちはイエスと同じことを行う。言い換えるならば、続き行うということ、継承するということです。「わたしが父のもとへ行くからである」と主が言っておられるように、イエス様が父のもとに行った後に、信じる者が主の御業を継承することについて語っておられるのです。

 「わたしが行う業」とは何でしょう。その前に主はこう言っておられます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(10節)。イエスを通して父なる神が語られる。御子を通して父なる神が働かれる。イエス様の言葉や行いにおける父なる神の現れについて主は語っておられるのです。

 それゆえにイエス様はフィリポにこう言っておられるのです。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)。イエス様を見たなら、既に父を見ているのです。この世を愛しておられる父、独り子をお与えになるほどにこの世を愛しておられる父を既に見ているのです。その意味において、イエス様はかつて神の言葉を語った預言者たちとは決定的に異なります。

 そのイエス様がこう言われるのです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と。この言葉は、キリストを信じる者に神が明確な目的を持っておられることを示しています。キリストを信じる者は、ただ自分の救いのためにキリストを信じるのではありません。信じる者はキリストが行う業を行うのです。神はその人を通して、その言葉と行いをもって御自分の愛を現そうとしておられるのです。教会は自分たちの平安と喜びのために存在しているのではありません。この世においてキリストの行う業を行うために存在しているのです。

 そして、イエス様はこうも言われました。「また、もっと大きな業を行うようになる」と。これは驚くべき言葉です。しかし、これはまた歴史的な事実でもあります。イエス様の働きは、狭い地域に限られていました。イエス様はその公の働きにおいてパレスチナから外へは出なかったのです。そこから外に出て、ユダヤからサマリアへ、さらにはギリシャ、ローマへと働きを拡大したのは、後の弟子たちによってでした。そして、神の御業は広がって、この日本にまで至ったのです。「もっと大きな業を行うようになる。」確かにそのようになりました。しかし、ここが終着点ではありません。今はここにいる私たちにも言われているのです。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。

 しかし、私たちはこのような言葉に出会いますと、ニコデモのように、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いたくなります。しかし、イエス様は直接目の前にいる人たちに「あなたがたは、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言ったのではないのです。「わたしを信じる者は」と言われたのです。あの場にいたかどうか、関係ありません。使徒であるかないか、関係ないのです。信じる者すべてに与えられている約束です。大事なことは「信じている」ということだけなのです。

 そこで気がつきますことは、「信じる者」に共通して与えられているものがあるということです。それは何か。祈りです。ですから、イエス様はこのように話を続けられるのです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(13‐14節)。

 イエス様は「わたしを信じる者は、《わたしが行う業》を行う」と言われたのです。キリストの業に似たような人間の業を行うのではないのです。ならば、「祈り」は決定的な意味を持ちます。人間が人間の業を行うだけならば「祈り」は必要ないからです。私たちはイエスの名によって願うのです。私たちが「願い」、キリストが「かなえる」という仕方において、キリストの業がなされていくのです。

 実は、これと似たような表現が16章に出てきます(16:23‐24)。そこでは、「父はお与えになる」となっています。「キリストがかなえてくださる」というのは、「父がお与えになる」ということでもあるのです。私たちが「祈り」、キリストが「かなえてくださる」という仕方において、父が御自身の愛を現し、父が与えようとしている救いの御業が実現していくのです。

 どうですか。聞いていて、とてもまどろっこしいと思いませんか。不思議です。神はどうしてそんな回りくどいことをなさるのでしょう。どう考えても効率が悪い。私たちが願うとか祈るとかとは無関係に御自分の救いの御業を進めたら良いと思いませんか。しかし、これが神の方法なのです。天の父はどうも効率重視の御方ではないらしい。神は効率よりも、私たちの存在を重んじてくださるのです。すなわち願うこともでき、願わないこともできる、そのような私たちの意志をも重んじてくださるのです。私たちとは無関係に事を進めようとはなさらないのです。あくまでも、祈りにおける交わりの中で、「一緒にやろう」と言ってくださるのです。

 それは何のためですか。16章でイエス様ははっきりと言っています。「あなたがたは喜びで満たされる」と。神は私たちの喜びのことを考えていてくださるのです。実際、そうではありませんか。人が救われることに関心のない人は、人が救われる喜びをも知ることはないでしょう。私たちが誰かの救いを心から願い、切に切に祈り続け、そして自分が神の御業のために用いられたなら、そのようにして神の愛が伝わって神が救いを現してくださったなら、そこに大きな喜びが満ち溢れることでしょう。

 教会が本当の喜びに満ち溢れるとするならば、それは私たちが人々の救いを真剣に祈り求め、そして、その救いが実現していくところにおいてなのです。そのように誰かが救われるために私たちが用いられるところにおいてなのです。キリストの業がそのようにして現れ、さらに大きな業が現れることによってなのです。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」それは私たちの祈りを通して実現していきます。ならば、私たちの周りの人々の上に、この地の上に、キリストの御業が現れるように、神の愛がはっきりと形を取って実現するように、大いに祈り求めようではありませんか。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と主は言ってくださるのですから。


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